【新婚旅行編】二人だけの旅路に、世界で一番甘い口づけを

王都を離れ、馬車が北へと進むにつれて、車窓の景色は目まぐるしく変化していった。
洗練された石造りの街並みは姿を消し、代わりに雄大な新緑の山々や、見たこともない珍しい形の高山植物が、次から次へと後ろへ流れていく。

​「わぁ……! 王子様、見て見て! あそこのお山、てっぺんに白い雲が帽子みたいに載っかってるよ! それに、あのお花……王都の庭園にはない形だね!」

​ルミは馬車のふかふかした座席から身を乗り出し、水色の長い髪を揺らしながら、窓の外に釘付けになっていた。
透き通るような水色の瞳をきらきらと輝かせ、白いレースの袖が動くたびに、まるで小さな妖精が跳ね回っているかのように可憐だ。
​王都での緊迫した空気から解放され、子供のようにワクワクしている伴侶の姿を、アルヴィーノは対面の座席から静かに見つめていた。
膝の上に置かれたチェス盤を進める手は完全に止まっている。
切れ長の紫の瞳にあるのは、戦場を統べる軍師の冷酷さではなく、ただ一人の愛しい者を慈しむ、深い熱を帯びた眼差しだった。

​「そんなに身を乗り出しては危ないですよ、ルミ。……ですが、気に入ってもらえたようで何よりです」

​アルヴィーノが声をかけると、ルミは「あ、ごめんなさい」とはにかみながら、お行儀よく座席に座り直した。
それでもまだ興奮が冷めやらないのか、胸元に手を当てて嬉しそうに息を弾ませている。

​「だって、こんなに遠くまでお出かけするの、俺、初めてだから……。空気も少しひんやりしてて、なんだか不思議な気持ち。本当に、王子様と二人で旅をしてるんだなぁって」

​無邪気に笑うルミ。
その純粋な言葉に、アルヴィーノはふっと目を細め、何かを決意したようにチェス盤を脇の卓へと片付けた。
そして、すっと座席を移動し、ルミのすぐ隣へと腰を下ろす。
​急に近づいたアルヴィーノの体温と、上質な衣服から漂う仄かな香りに、ルミは一瞬だけ、トクンと心臓を跳ねさせた。

​「王子様……?」
「ルミ。北の領地に着いた後のことですが……一つ、お前に約束してほしい、いえ、叶えてほしい願いがあります」

​アルヴィーノの声は、いつもより少しだけ低く、独占欲を孕んで響いた。

​「願い……? 俺にできることなら、なんだってするよ! 闇魔法の特訓? それとも、お部屋のお掃除?」
「いいえ、そんなことではありません。……呼び方の話です」

​アルヴィーノはルミの細い肩を引き寄せ、その水色の瞳を真っ直ぐに見据えた。

​「あちらの屋敷にいる間、二人きりの時は、私のことを『王子様』とも『様』とも呼ばないでいただきたい。……ただの『アルヴィーノ』と、敬称もなしに、名前だけで呼んでください」
​「えっ……!?」

​ルミは驚きのあまり、息を呑んで固まってしまった。
研究所から救い出されて以来、ルミにとってアルヴィーノは絶対的な「王子様」であり、それは伴侶となった今でも、深い敬意と愛着を込めた特別な呼び名だった。
それを、呼び捨てにするなんて。

​「だ、ダメだよ、そんなの……っ! いくら二人きりだからって、王子様は第二王子で、すっごく偉い人なのに。俺なんか、ただの従者なのに、呼び捨てなんて畏れ多いよ……!」
「ルミ」

​戸惑って首を横に振るルミの手を、アルヴィーノは逃がさないように強く、優しく包み込んだ。
ぐっと顔を近づけ、逃げ場をなくすようにルミを詰め寄る。

​「あちらでは世界を欺く『主従の仮面』など必要ない、と言ったはずです。それに、二人きりの時の私は、王族でも軍師でもない。ただお前を愛し、お前に生かされている、お前だけの『伴侶』です。それなのに、いつまでも立場を隔てるような呼び方をされるのは……正直に言って、酷く寂しい」
​「寂しい、って……」

​冷酷無比と恐れられるあのアルヴィーノが、眉を僅かにひそめ、子供が拗ねるかのような、あるいは切実に愛を乞うような目を向けている。
そんな表情を見せられて、ルミが敵うはずもなかった。

​「……でも、急にそんな、慣れないよ……」
「慣れてください。さあ、今ここで一度、練習してみましょう」

​アルヴィーノの紫の瞳が、至近距離でじっとルミの唇を見つめる。
その視線の熱さに、ルミの頬はたちまち真っ赤に染まっていく。
観念したルミは、ぎゅっと自分の服の裾を掴み、視線を泳がせながら、蚊の鳴くような声でしぶしぶと唇を動かした。

​「……ぁ、アルヴィ……」
「聞こえませんね。もう一度」
「もうっ、王子様、意地悪……!」

​ルミは恥ずかしさで涙目になりながらも、アルヴィーノの真摯な眼差しを受け止め、意を決してその名前を紡いだ。

​「――アルヴィーノ……っ」

​小さく、けれど確かに響いた、敬称のない彼の名前。
​その瞬間、アルヴィーノの胸の奥に、言葉にできないほどの甘い充足感が広がった。完璧だった軍師の表情が完全に崩れ、嬉しさを隠しきれない極上の笑みが浮かぶ。

​「……よくできました、ルミ。とても、愛らしい響きです」
「うぅ……やっぱりすごく恥ずかしい。心臓が爆発しそう……」

​ルミは両手で顔を覆って座席にしがみついてしまったが、アルヴィーノはその背中に腕を回し、愛おしさが限界を突破したように、ルミの身体を強く抱きしめた。

​「あちらに着いたら、毎日その声で、私を呼んでくださいね」
「……う、うん。アルヴィーノが、そう言うなら、頑張る……」

​まだ耳まで真っ赤にしながらも、腕の中で小さく頷くルミ。
ガタゴトと揺れる馬車の中、二人だけの甘く、少しだけ初々しい約束が、北へと向かう旅路をどこまでも暖かく彩っていた。
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