【兄弟喧嘩編】終わらない書類に、兄弟喧嘩を
重厚な静寂が、新王の執務室を支配していた。
窓外から差し込む薄明はすでに夕刻の訪れを告げており、琥珀色の光線が室内に浮遊する微細な塵を照らし出している。
だが、その美しさを享受するだけの余裕は、主たるアルフレッド・レイストールには残されていなかった。
机の上に整然と、しかし凶悪な質量を持って積み上げられた執務書類の山。
それは弟である第二王子アルヴィーノが、二週間の「代理国王」期間中に私情と冷酷さの赴くままに断行した、貴族社会への大粛清の「爪痕」そのものであった。
「――ここまでだ」
アルフレッドは羽ペンを置き、眉間を深く指で揉みほぐした。
碧眼の奥に宿る色彩は、かつての朗らかな第一王子のそれではない。
対話による解決を重んじ、善性のみで国を導こうとした男は、すでに数々の辛酸を舐め、冷徹な現実を知る「王」へと変貌を遂げていた。
だが、どれほど彼が王としての威厳を身につけようとも、肉体的な限界と処理能力には限界がある。
アルフレッドは机上の呼び鈴を鳴らし、控えていた側近に低く冷徹な声を掛けた。
「アルヴィーノをこれへ。――強制召喚だ。拒否は一切認めない。来ないと言うのなら、近衛を総動員してでも連れてこい」
実の弟であり、今や周辺各国から「魔王」と恐れられる軍師を、力ずくで引きずり出す。
それは常人であれば正気を疑う命令だったが、現在のアルフレッドの瞳には、一切の躊躇いがなかった。
---
数刻の後、執務室の重厚な二重扉が静かに開いた。
現れたのは、漆黒の軍服を隙なく着こなした青年、アルヴィーノ・レイストールだった。
少し癖のある紫の髪が、微かな苛立ちを示すかのように揺れている。細く切れ長の深い紫色の瞳は、冷徹な光を湛えたまま、机の上の書類の山と、そこに佇む実の兄を冷ややかに射抜いた。
「……何のご用でしょうか、陛下」
敬語を使ってはいるものの、その声には明らかな不快感が滲んでいた。
彼にとって、この時間は最愛の伴侶であるルミと私室で過ごすはずの、何にも代えがたい時間だったのだ。
それをこのような、かつて嫌悪すら抱いた兄の呼び出しによって遮られた。
不服という二文字では生温いほどの拒絶が、その佇まいから放射されている。
アルフレッドは弟の放つ威圧感を完全に無視し、静かに立ち上がった。
そして、扉の前に立つ近衛兵たちに向けて、厳かに告げる。
「扉を閉めろ。そして、外から施錠しろ。私が許可を出すまで、第二王子をこの部屋から一歩も出してはならない」
ガチャン、と重々しい金属音が響き、錠が下りる。
アルヴィーノの眉が、ピクリと不機嫌そうに跳ね上がった。
「これは何の真似ですか。私は軍師であり、貴方の隠し刃。このような内政の雑務に時間を割くほど、暇ではないのですが」
「暇ではないのは私の方だ、アルヴィーノ」
アルフレッドの声は低く、そして信じがたいほどに冷徹だった。
彼は机の上の膨大な書類の束を、容赦なく叩く。
「君が『代理国王』として玉座に座った二週間、そしてその後にルミくんを連れて行った南方のバカンス。その裏で、どれほどの混沌がこの国に生じたか、まさか忘れたとは言わせない。不正を働いた貴族の更地化、無能な役人の即時解雇、さらには君の暴走を止めようとルミくんに縋った者たちへの永久追放……。これらすべての法的手続き、領地再編、そして新たな人事の決裁が、誰の元に集まると思っている」
「使えない駒を排除しただけです。王国の新体制を確固たるものにするため、むしろ私に感謝していただきたいものですね」
アルヴィーノはふん、と鼻で笑い、傲然と言い放った。
自身の手を汚すことなく国を最適化させたという自負。そこには一抹の罪悪感すら存在しない。
「感謝なら、この処理がすべて終わった後言葉だけでしてやる」
アルフレッドは歩を進め、弟の目の前で足を止めた。
二人の間に、目に見えない火花が散る。
魔力においても武力においても、アルフレッドは弟に劣る。
だが、今の彼には「レイストール新王」としての、退けぬ矜持があった。
「これは命令だ、アルヴィーノ。兄として、そしてお前の主君たる王としてのな。この書類の山をすべて片付け終わるまで、君をこの部屋から出すつもりはない。当然、ルミくんの元へ返すこともな」
ルミ、という名を口にした瞬間、アルヴィーノの紫色の瞳が、極大魔法を発動させる直前のような、昏く危険な光を帯びた。
周囲の空気が、肌を刺すような魔圧で凍りつく。
「……私を脅迫するおつもりですか、陛下。いくら新王とはいえ、私をここに繋ぎ止められると?」
「繋ぎ止められるさ。力ずくではない方法でね」
アルフレッドは懐から、一通の、いや、紐で縛られた厚い一束の封書を取り出し、アルヴィーノの眼前に突きつけた。
それは、王都の有力貴族たちから毎日のように届く、第二王子アルヴィーノへの「婚約の釣書」の山だった。
「お前がどれほど拒もうと、王族としての義務を完全に免除したわけではない。現在もお前との結びつきを求め、見目麗しく高貴な令嬢たちの写真と身上書が、山のように届いている。……これをどうするかは、私の裁量一つだ」
アルヴィーノの表情が、目に見えて険悪なものへと変わる。
「……私がそれらすべてを灰にすると知っていて、そのようなものを出すのですか」
「灰にするのは君の自由だ。だが、私は王として、その中から最も執念深く、最もお前にとって『煩わしい』貴族の令嬢を選び、正式なお見合いの席をセッティングすることができる。公務としてな。……一度や二度ではない。この書類が片付かない腹いせに、週に三度はその席を設けてもいい」
アルフレッドの碧眼には、一切の冗談がなかった。限界を迎えた人間の執念が、そこには宿っていた。
「そうなれば、君がどれほどルミくんを溺愛していようとも、表舞台では『主従』として振る舞わねばならない以上、ルミくんの耳にもその話は届く。彼がどれほど心を痛めるか、君なら容易に想像がつくだろう?」
「――アルフレッド」
ついに敬語が外れ、アルヴィーノの口から地を這うような声が漏れた。
お前、と、かつてのように兄を睨みつける。その感情は、激しい不服と、最愛の存在を盾に取られたことへの憤怒に染まっていた。
ルミを悲しませることだけは、世界の何が滅びようとも許容できない。
アルフレッドは、アルヴィーノの唯一にして絶対の弱点がどこにあるかを、完璧に理解して立ち回っていた。
長い、刺すような沈黙が室内の空気を支配した。
アルヴィーノの拳が、軍服の袖の中で固く握り締められ、微かに震える。
全属性の魔法を操り、禁術すら無詠唱で放つ「魔王」が、ただ一人の男の「脅迫」によって、完全に退路を断たれていた。
「……分かりました」
極夜の底のような声で、アルヴィーノは呟いた。
「そこまでして私を酷使したいのであれば、従いましょう。ただし――」
アルヴィーノはアルフレッドを冷酷に睨み据え、机へと歩み寄った。
「夜明けまでに終わらせます。それ以上、私をあの子から引き離す時間は、一秒たりとも認めない」
「望むところだ。手際だけは、お前が世界で一番信頼できるからね」
アルフレッドは深く息を吐き出し、自らも席に戻った。
始まったのは、二人の王族による冷徹なまでの「戦い」だった。
羽ペンが羊皮紙を引っ掻く硬い音だけが、密室に響き渡る。
アルヴィーノは凄まじい速度で書類に目を通し、容赦のない減点方式で裁可を下していく。
その冷徹な判断力と頭脳は、まさに戦場を統治する軍師のそれだった。
己の私情のため、そして何より、冷たい監獄のようなこの部屋から一刻も早く抜け出し、愛しい伴侶の温もりを抱きしめるために。
魔王は、己を縛る「王の命令」という鎖を噛み締めながら、深夜の執務室で冷たい刃のようにペンを走らせ続けるのだった。
窓外から差し込む薄明はすでに夕刻の訪れを告げており、琥珀色の光線が室内に浮遊する微細な塵を照らし出している。
だが、その美しさを享受するだけの余裕は、主たるアルフレッド・レイストールには残されていなかった。
机の上に整然と、しかし凶悪な質量を持って積み上げられた執務書類の山。
それは弟である第二王子アルヴィーノが、二週間の「代理国王」期間中に私情と冷酷さの赴くままに断行した、貴族社会への大粛清の「爪痕」そのものであった。
「――ここまでだ」
アルフレッドは羽ペンを置き、眉間を深く指で揉みほぐした。
碧眼の奥に宿る色彩は、かつての朗らかな第一王子のそれではない。
対話による解決を重んじ、善性のみで国を導こうとした男は、すでに数々の辛酸を舐め、冷徹な現実を知る「王」へと変貌を遂げていた。
だが、どれほど彼が王としての威厳を身につけようとも、肉体的な限界と処理能力には限界がある。
アルフレッドは机上の呼び鈴を鳴らし、控えていた側近に低く冷徹な声を掛けた。
「アルヴィーノをこれへ。――強制召喚だ。拒否は一切認めない。来ないと言うのなら、近衛を総動員してでも連れてこい」
実の弟であり、今や周辺各国から「魔王」と恐れられる軍師を、力ずくで引きずり出す。
それは常人であれば正気を疑う命令だったが、現在のアルフレッドの瞳には、一切の躊躇いがなかった。
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数刻の後、執務室の重厚な二重扉が静かに開いた。
現れたのは、漆黒の軍服を隙なく着こなした青年、アルヴィーノ・レイストールだった。
少し癖のある紫の髪が、微かな苛立ちを示すかのように揺れている。細く切れ長の深い紫色の瞳は、冷徹な光を湛えたまま、机の上の書類の山と、そこに佇む実の兄を冷ややかに射抜いた。
「……何のご用でしょうか、陛下」
敬語を使ってはいるものの、その声には明らかな不快感が滲んでいた。
彼にとって、この時間は最愛の伴侶であるルミと私室で過ごすはずの、何にも代えがたい時間だったのだ。
それをこのような、かつて嫌悪すら抱いた兄の呼び出しによって遮られた。
不服という二文字では生温いほどの拒絶が、その佇まいから放射されている。
アルフレッドは弟の放つ威圧感を完全に無視し、静かに立ち上がった。
そして、扉の前に立つ近衛兵たちに向けて、厳かに告げる。
「扉を閉めろ。そして、外から施錠しろ。私が許可を出すまで、第二王子をこの部屋から一歩も出してはならない」
ガチャン、と重々しい金属音が響き、錠が下りる。
アルヴィーノの眉が、ピクリと不機嫌そうに跳ね上がった。
「これは何の真似ですか。私は軍師であり、貴方の隠し刃。このような内政の雑務に時間を割くほど、暇ではないのですが」
「暇ではないのは私の方だ、アルヴィーノ」
アルフレッドの声は低く、そして信じがたいほどに冷徹だった。
彼は机の上の膨大な書類の束を、容赦なく叩く。
「君が『代理国王』として玉座に座った二週間、そしてその後にルミくんを連れて行った南方のバカンス。その裏で、どれほどの混沌がこの国に生じたか、まさか忘れたとは言わせない。不正を働いた貴族の更地化、無能な役人の即時解雇、さらには君の暴走を止めようとルミくんに縋った者たちへの永久追放……。これらすべての法的手続き、領地再編、そして新たな人事の決裁が、誰の元に集まると思っている」
「使えない駒を排除しただけです。王国の新体制を確固たるものにするため、むしろ私に感謝していただきたいものですね」
アルヴィーノはふん、と鼻で笑い、傲然と言い放った。
自身の手を汚すことなく国を最適化させたという自負。そこには一抹の罪悪感すら存在しない。
「感謝なら、この処理がすべて終わった後言葉だけでしてやる」
アルフレッドは歩を進め、弟の目の前で足を止めた。
二人の間に、目に見えない火花が散る。
魔力においても武力においても、アルフレッドは弟に劣る。
だが、今の彼には「レイストール新王」としての、退けぬ矜持があった。
「これは命令だ、アルヴィーノ。兄として、そしてお前の主君たる王としてのな。この書類の山をすべて片付け終わるまで、君をこの部屋から出すつもりはない。当然、ルミくんの元へ返すこともな」
ルミ、という名を口にした瞬間、アルヴィーノの紫色の瞳が、極大魔法を発動させる直前のような、昏く危険な光を帯びた。
周囲の空気が、肌を刺すような魔圧で凍りつく。
「……私を脅迫するおつもりですか、陛下。いくら新王とはいえ、私をここに繋ぎ止められると?」
「繋ぎ止められるさ。力ずくではない方法でね」
アルフレッドは懐から、一通の、いや、紐で縛られた厚い一束の封書を取り出し、アルヴィーノの眼前に突きつけた。
それは、王都の有力貴族たちから毎日のように届く、第二王子アルヴィーノへの「婚約の釣書」の山だった。
「お前がどれほど拒もうと、王族としての義務を完全に免除したわけではない。現在もお前との結びつきを求め、見目麗しく高貴な令嬢たちの写真と身上書が、山のように届いている。……これをどうするかは、私の裁量一つだ」
アルヴィーノの表情が、目に見えて険悪なものへと変わる。
「……私がそれらすべてを灰にすると知っていて、そのようなものを出すのですか」
「灰にするのは君の自由だ。だが、私は王として、その中から最も執念深く、最もお前にとって『煩わしい』貴族の令嬢を選び、正式なお見合いの席をセッティングすることができる。公務としてな。……一度や二度ではない。この書類が片付かない腹いせに、週に三度はその席を設けてもいい」
アルフレッドの碧眼には、一切の冗談がなかった。限界を迎えた人間の執念が、そこには宿っていた。
「そうなれば、君がどれほどルミくんを溺愛していようとも、表舞台では『主従』として振る舞わねばならない以上、ルミくんの耳にもその話は届く。彼がどれほど心を痛めるか、君なら容易に想像がつくだろう?」
「――アルフレッド」
ついに敬語が外れ、アルヴィーノの口から地を這うような声が漏れた。
お前、と、かつてのように兄を睨みつける。その感情は、激しい不服と、最愛の存在を盾に取られたことへの憤怒に染まっていた。
ルミを悲しませることだけは、世界の何が滅びようとも許容できない。
アルフレッドは、アルヴィーノの唯一にして絶対の弱点がどこにあるかを、完璧に理解して立ち回っていた。
長い、刺すような沈黙が室内の空気を支配した。
アルヴィーノの拳が、軍服の袖の中で固く握り締められ、微かに震える。
全属性の魔法を操り、禁術すら無詠唱で放つ「魔王」が、ただ一人の男の「脅迫」によって、完全に退路を断たれていた。
「……分かりました」
極夜の底のような声で、アルヴィーノは呟いた。
「そこまでして私を酷使したいのであれば、従いましょう。ただし――」
アルヴィーノはアルフレッドを冷酷に睨み据え、机へと歩み寄った。
「夜明けまでに終わらせます。それ以上、私をあの子から引き離す時間は、一秒たりとも認めない」
「望むところだ。手際だけは、お前が世界で一番信頼できるからね」
アルフレッドは深く息を吐き出し、自らも席に戻った。
始まったのは、二人の王族による冷徹なまでの「戦い」だった。
羽ペンが羊皮紙を引っ掻く硬い音だけが、密室に響き渡る。
アルヴィーノは凄まじい速度で書類に目を通し、容赦のない減点方式で裁可を下していく。
その冷徹な判断力と頭脳は、まさに戦場を統治する軍師のそれだった。
己の私情のため、そして何より、冷たい監獄のようなこの部屋から一刻も早く抜け出し、愛しい伴侶の温もりを抱きしめるために。
魔王は、己を縛る「王の命令」という鎖を噛み締めながら、深夜の執務室で冷たい刃のようにペンを走らせ続けるのだった。