【代理国王編】王の不在に、世界で一番冷たい采配を

ある日の王都は、抜けるような青空が広がる穏やかな気候に恵まれていた。

王宮の重苦しい空気から離れ、賑やかな市場の雑踏を進むのは、腰まである美しい水色の髪をなびかせたルミ。そして、その隣を歩くのは、長年王宮に仕え、ルミのことも温かく見守っている頼れる侍女のマルタだった。

「マルタ、見て! このブルーベリー、すっごく大粒で美味しそう!」

「おや、本当ですね、ルミ様。これならアルヴィーノ殿下のお口にもきっと合いますよ。さっそく買い込んで、美味しいタルトを焼きましょうね」

「うん! アルヴィーノ、最近ずーっとお仕事で不機嫌そうだったから、これで元気になってくれるといいな」

公の場では従者服を着ることの多いルミだったが、今日は買い物ということもあり、お気に入りの真っ白でフリルが愛らしいロリータ服を身に纏っていた。無邪気に笑うその姿は、市場を行き交う人々の目を引くほどに愛らしい。

だが、そんな平和な光景のすぐ裏で、一人の男が血の涙を流さんばかりの絶望に打ちひしがれていた。

「……終わった。我が家系は、本当にここで終わりだ……」

物陰で頭を抱えていたのは、数日前にアルヴィーノによって地位を剥奪された元貴族の男だった。
彼は仲間たちと同様、寝食を忘れて死ぬ思いで完璧な平伏と美しさを極めた「嘆願書」を書き上げた。……しかし、いざそれをアルフレッド王の元へ届けてもらおうとした矢先、肝心の「王宮へ繋いでくれるはずだった伝ての文官」が、すでにアルヴィーノによって『無能な駒』として遠方の領地へ飛ばされていたことが発覚したのだ。

届ける手段がない。このままでは、アルフレッド王の慈悲に縋ることすらできず、一族もろとも歴史の闇に消えるのを待つだけ。

絶望のあまり地面に這いつくばりかけた男の目に、ふと、市場の片隅で輝く水色の髪が映った。

(――あ、あの少年は……!?)

男の脳裏に、他の貴族たちから聞いた恐ろしい、かつ唯一の希望の噂がフラッシュバックする。
『あの魔王アルヴィーノが、大層大事にしている従者がいる。名をルミという。その水色の髪の少年の言葉にだけは、あの冷酷非情な殿下も絶対に逆らえない……!』

(まさか、こんなところに……! 神はまだ、我が家を見捨ててはいなかった!)

男は、それが文字通り「最後の蜘蛛の糸」だと確信した。これを逃せば次はない。男はなりふり構わず、猛烈な勢いでルミの元へと駆け寄った。

「ルミ様――ッ!! お願いでございます、ルミ様ァァッ!」

「ひゃうっ!?」

突如、目の前に現れたボロボロの男が地面に膝を突き、必死の形相で叫んだため、ルミは驚いてマルタの背後に隠れた。マルタもすぐさまルミを庇うように一歩前に出る。

「何ですか、貴方は。ルミ様に不躾な真似は――」

「違うのです! 決して怪しい者ではございません! 私は、アルヴィーノ殿下に切られた元貴族の者! どうか……どうか、この書状を、殿下の……いえ、アルフレッド陛下の手へ届くよう、お渡しいただけないでしょうかッ!!」

男は涙を流しながら、懐から一通の封書を取り出し、捧げるようにして両手で差し出した。それは、アルヴィーノの逆鱗に触れないよう、チェス盤のように完璧なフォントと美しいインクで、死ぬ気で書き上げられた極上の嘆願書だった。

ルミはマルタの背後から水色の大きな瞳をぱちくりとさせ、差し出された手紙を見つめた。
政治のことや、貴族たちの複雑な事情はルミにはよく分からない。けれど、目の前のおじさんが、今にも消え入りそうなほど震えて泣いているのを見ると、どうしても放っておけなかった。

「……よく分からないけど、アルヴィーノ様に渡しておけばいいの?」

「は、はい……! 何卒、何卒よろしくお願い申し上げます……!」

「うん、分かった! じゃあ、アルヴィーノ様に渡しておくね!」

ルミは無邪気な笑みを浮かべ、男からその手紙を受け取った。
男は「おお、おおお……!」と言葉にならない感謝の声を上げ、何度も地面に頭を擦り付けながら去っていった。ルミはその背中を見送った後、大事そうに手紙を抱え、「よし、ブルーベリーを買って帰ろう!」と買い物を再開したのだった。

――数時間後。

王宮の国王執務室では、相変わらず後処理に追われるアルフレッドが「うう、頭が痛い……」と書類に埋もれていた。その斜め向かいのソファーでは、漆黒の軍服に身を包んだアルヴィーノが、退屈そうにチェスの駒を指先で弄んでいる。

そこへ、トントンと軽いノックの音がして、扉が開いた。

「アルヴィーノ、アルフレッド様! ただいま!」

「ルミ、おかえりなさい。街の有象無象に怯まされませんでしたか?」

ルミの姿を見た瞬間、アルヴィーノの切れ長の深い紫色の瞳に、蕩けるような甘い熱が宿る。立ち上がってルミを迎えようとするアルヴィーノの元へ、ルミは楽しそうに駆け寄った。

「ううん、マルタと一緒だったから大丈夫! それにね、これ、街でおじさんからもらったの!」

ルミは完璧な無邪気さ、そして満面の笑顔で、懐から一通の封書を取り出した。

「はい、これ、もらったお手紙! アルヴィーノ様に渡してねって言われたから、持ってきたよ!」

「おや、ルミくんにお手紙かい?」
書類の山から顔を上げたアルフレッドが、のんきに首を傾げる。

だが――。
ルミの手からその封書を受け取った瞬間、アルヴィーノの顔から、ルミに向けていた甘い微笑みが一瞬で消え失せた。

「……これは」

アルヴィーノの細い紫色の瞳が、極限まで冷酷に細められる。
封書に触れただけで、その完璧すぎる書体と、中に込められた卑屈なまでの命乞いの気配――それが、自分が先日完璧にチェス盤から弾き出した「使えないゴミ」の仕業であることを見抜いた。

室内の空気が、文字通り一瞬で凍りついた。
全属性の魔力を操るアルヴィーノの体から、地の底から這い上がってくるような、禍々しく圧倒的なプレッシャーが音もなく溢れ出る。バリバリと空間が軋み、執務室の窓ガラスにヒビが入り始めた。

「アルヴィーノ……? お顔、すごく怖いよ……?」
ルミが不安そうに水色の瞳を瞬かせる。

アルヴィーノはすぐさまルミの細い腰を引き寄せ、壊れ物を扱うように優しく、けれど絶対に離さないという強い力で抱きしめた。その耳元で、低く、怒りで僅かに震える声が囁かれる。

「……私の天使。貴方は何も悪くありません。悪いのは、私のルールを破り、あろうことか私の最も神聖な宝である貴方に近づき、その清らかな手を汚させた……あのドブネズミです」

オブラートを完全に排除した、凄まじい激重感情。アルヴィーノの瞳には、冷徹非情な軍師のそれを通り越して、本物の「魔王」の殺意が宿っていた。

「私の目を盗み、ルミを利用して命乞いをしようなどと……不愉快極まりない。使えない駒どころか、我が領域を汚す害虫だ。その場で跡形もなく間引いて差し上げましょう」

アルヴィーノが静かに右手を持ち上げる。無詠唱で発動しかけている闇魔法の影が、彼の足元から生き物のように広がり、壁を黒く侵食していく。

「ちょっと待って、アルヴィーノ!? 待って、落ち着いて!!」
アルフレッドが机を叩いて立ち上がり、顔を真っ青にして叫んだ。
「それ、間違いなく僕への嘆願書だよね!? 届けるルートがなくなって絶望した貴族が、藁にも縋る思いでルミくんに託したんだよ! 気持ちは分かるから、だから今すぐ極大魔法で王都を半分吹き飛ばそうとするのはやめて――!」

「兄上、静かにしてください」

アルヴィーノはアルフレッドを冷然と一瞥した。その瞳には一ミリの慈悲も、妥協もない。

「言ったはずです。ルミを煩わせる者は、例外なく私の手で排除すると。……兵を動かす必要すらありません。ルミに触れたあの男の血筋、本日この瞬間をもって、この世から完全に消去(粛清)します」

「ひ、ひええええ!! ルミくん、止めて! 君の言葉しかもうあの魔王には届かないんだ!!」
アルフレッドが涙目でルミに縋り付く。

ルミはアルヴィーノの胸の中で、「うう、アルヴィーノがまた怒っちゃった……」と困りながらも、その漆黒の軍服の胸元を小さな手でぎゅっと掴んだ。

「アルヴィーノ、だめだよ。おじさん、すっごく泣いてたもん。意地悪しようとしたんじゃないよ? それにね、マルタと、アルヴィーノのためにブルーベリーいっぱい買ってきたの。だから……怒るのやめて、一緒にタルト食べよう?」

上目遣いで、きゅるんとした水色の瞳で見つめるルミ。
世界でただ一人、この少年だけが使える、魔王への絶対的な「首輪」。

「……っ」

アルヴィーノは激しい衝撃を受けたように息を呑み、みるみるうちに魔力のプレッシャーを霧散させていった。溢れ出ていた殺意はどこへやら、ルミを愛おしそうに見つめ返し、とろけるような声を出す。

「……ああ、ルミ。貴方がそこまで言うのであれば、あの害虫の『命だけ』は残しておきましょう。ただし、二度と王都の地を踏めぬよう、今すぐ全財産を没収の上、世界の果ての未開拓地へ永久追放します。……それで手を打ちましょう」

「うん、お命があるなら、それでいいよ! ありがとう、アルヴィーノ!」
ルミが嬉しそうに笑って、アルヴィーノの首に抱きつく。

「当然の権利ですよ、私の天使。さあ、兄上の退屈な書類仕事(ゴミ拾い)に付き合うのはここまでです。私室へ戻り、貴方の手作りタルトを私に食べさせてくださいね。貴方の愛を、私にたっぷりと注いでください……」

「うん! いっぱい作ってあげる!」

二人はアルフレッドのことなど視界にも入れず、仲良く手を繋いで執務室を後にしていった。

残されたアルフレッドは、ガタガタと震えながら机に突っ伏した。
(命は助かったけど、永久追放の後処理と、また怯え上がるであろう貴族たちのケアが、一瞬で僕の仕事に増えたよね……?)

「……僕、もう一回、ハネムーン行ってきてもいいかな……」

光の新王の涙の嘆きが、静まり返った執務室に虚しく響き渡るのだった。
8/8ページ
スキ