【新婚旅行編】二人だけの旅路に、世界で一番甘い口づけを
軍議を終え、王宮の最奥にある王の執務室。
他の将兵や文官たちがすべて退室し、重厚な扉が完全に閉められると、室内の空気はふっと和らいだ。
アルフレッドは王の衣装の肩を回しながら椅子の背にもたれかかり、何とも言えない楽しげな笑みを浮かべた。
「いやぁ、お疲れ様、アルヴィーノ。北方の国境掌握に関する正式な報告書、確かに受け取ったよ。完璧な仕事だ、さすが僕の冷たき刃だね」
「……当然のことをしたまでです、兄上」
アルヴィーノは漆黒の軍服の襟元を正し、冷徹な声音で応じる。
しかし、アルフレッドの視線が自分の首元――軍服の隙間から僅かに覗く、水色のマフラー――に注がれていることに気づき、僅かに眉をひそめた。
「それでさ、報告書の内容は文句なしなんだけど……さっきの廊下での『報告』も、なかなか刺激的だったよ」
ニヤニヤと意地の悪い笑みを隠そうともせず、アルフレッドが身を乗り出す。
「『アルヴィーノ!』だってさ。いやー、僕も一瞬耳を疑っちゃった。あの冷酷無比な軍師様が、王宮の真ん中で可憐な男の娘の従者くんに呼び捨てにされてるんだ。周りの将兵たちの顔、見た? みんな生きた心地がしてなかったよ」
「……兄上」
アルヴィーノは細く切れ長の紫の瞳を険しく尖らせた。
普段なら並の人間が気絶するほどの威圧感を放つところだが、相手はすべてを知っている実の兄だ。
しかも、自分がルミを甘やかし、直轄領でどんな風に過ごさせていたのかが完全に露呈してしまっている。
さすがのアルヴィーノも、耳の後ろが僅かに熱くなるのを感じ、いたたまれないように視線を斜め下へと外した。
「……ルミが気を抜いていただけです。あちらの地では、二人きりの時間はそのように呼ぶようにしてましたので」
「そっかー。でもまさかあんな大勢の前で呼ばれるなんて思ってもみなかったでしょ?」
「ええ」
「そうだろうね。でも正直なところ、嬉しかった、かな?」
図星を突かれ、アルヴィーノは小さく舌打ちをしたい衝動に駆られた。
否定などできるはずがなかった。
王宮内でのあのハプニングは確かに肝が冷えたし、ルミをパニックにさせてしまったのは可哀想だったが、大廊下に響いた「アルヴィーノ!」という無邪気な声は、彼の胸の奥をこれ以上ないほど甘く満たしたのだ。
「……嬉しかったですよ。何か問題でも?」
観念して開き直った弟の言葉に、アルフレッドは「うわぁ、直球だ」と、呆れたように、けれど嬉しそうに声を立てて笑った。
「問題なんてないさ。君がルミくんのおかげで、ただの『慈悲なき魔王』にならずに済んでるんだから、兄としては大歓迎だよ。王宮の連中もみんな『あ、そっか……そういうことか』って生暖かい目で納得してたしね。僕が上手く揉み消しておいたから、ルミくんにも気に病まないように伝えておいてよ」
「……配慮には感謝します」
アルヴィーノは一つ、深く息を吐き、乱れた心を落ち着かせた。
そして、懐から一枚のチェスの駒を取り出し、アルフレッドの薔薇木の机の上へとコツン、と静かに置いた。
その紫の瞳が、ふっと冷徹で、なおかつ強欲な光を宿す。
「――ところで、兄上」
「ん? 何だい、急に真面目な顔をして」
アルヴィーノは机の上の駒を指先で弄びながら、じっと兄を見据えた。
「次の遠征、あるいは地方への領地査察の予定は、いつになりそうですか?」
「……えっ?」
「私の『私属の従者』を伴い、王都の貴族どもの目が完全に届かない場所へ赴く必要のある任務のことです。明日からでも構いませんが。どこか不穏な動きを見せている国境や、改革の必要な直轄領はありませんか?」
まさかの逆要求に、アルフレッドは一瞬だけ目を丸くし――それから、顔を引きつらせて苦笑した。
「おいおい、帰ってきたばかりじゃないか。それに僕、君たちがいない二ヶ月間、連日届くお見合いの釣書を大義名分並べて握り潰すのに死ぬほど奔走したんだよ? 少しは僕を休ませてほしいよ」
「兄上の政務の都合など、私の知ったことではありません。……ルミと誰の目も気にせず過ごせる場所があるのなら、私は喜んで貴方の刃となり、どんな敵でも灰にしてみせます」
真顔で恐ろしいほどの熱意を語る弟に、アルフレッドは深く、重い溜息をついた。
かつての憎み合っていた頃が嘘のように、今の弟はルミのことになると容易く我が儘な狂犬になる。
「まだ検討中だよ、検討中。そんなにすぐ次の遠征なんて作ったら、それこそ貴族たちに怪しまれるだろう? ……まぁ、今回の北方の成果があまりにも見事だったから、いずれまた、アルヴィーノにしか頼めない大きな任務を作ってあげるよ」
「……なるべく、早めにお願いします」
アルヴィーノは完璧な臣下としての礼を執り、満足したように翻って執務室を後にした。
扉が閉まる音を聞きながら、アルフレッドは「本当に、人使いの荒い弟だ……」と呟き、机の上の書類に視線を落とした。
一方、足早に廊下を進むアルヴィーノの胸中にあるのは、すでに次の任務の戦略でもなく、兄への態度でもなかった。
ただ、さっき王宮で真っ赤になって震えていた、愛しい伴侶の顔だけだ。
(ルミ……。今夜は部屋で、あの声で、気が済むまで私の名前を呼んでもらいましょう)
漆黒の軍服を翻し、冷酷無比な軍師は、己の愛する伴侶が待つ自室へと、少しだけ歩調を速めて向かうのだった。
他の将兵や文官たちがすべて退室し、重厚な扉が完全に閉められると、室内の空気はふっと和らいだ。
アルフレッドは王の衣装の肩を回しながら椅子の背にもたれかかり、何とも言えない楽しげな笑みを浮かべた。
「いやぁ、お疲れ様、アルヴィーノ。北方の国境掌握に関する正式な報告書、確かに受け取ったよ。完璧な仕事だ、さすが僕の冷たき刃だね」
「……当然のことをしたまでです、兄上」
アルヴィーノは漆黒の軍服の襟元を正し、冷徹な声音で応じる。
しかし、アルフレッドの視線が自分の首元――軍服の隙間から僅かに覗く、水色のマフラー――に注がれていることに気づき、僅かに眉をひそめた。
「それでさ、報告書の内容は文句なしなんだけど……さっきの廊下での『報告』も、なかなか刺激的だったよ」
ニヤニヤと意地の悪い笑みを隠そうともせず、アルフレッドが身を乗り出す。
「『アルヴィーノ!』だってさ。いやー、僕も一瞬耳を疑っちゃった。あの冷酷無比な軍師様が、王宮の真ん中で可憐な男の娘の従者くんに呼び捨てにされてるんだ。周りの将兵たちの顔、見た? みんな生きた心地がしてなかったよ」
「……兄上」
アルヴィーノは細く切れ長の紫の瞳を険しく尖らせた。
普段なら並の人間が気絶するほどの威圧感を放つところだが、相手はすべてを知っている実の兄だ。
しかも、自分がルミを甘やかし、直轄領でどんな風に過ごさせていたのかが完全に露呈してしまっている。
さすがのアルヴィーノも、耳の後ろが僅かに熱くなるのを感じ、いたたまれないように視線を斜め下へと外した。
「……ルミが気を抜いていただけです。あちらの地では、二人きりの時間はそのように呼ぶようにしてましたので」
「そっかー。でもまさかあんな大勢の前で呼ばれるなんて思ってもみなかったでしょ?」
「ええ」
「そうだろうね。でも正直なところ、嬉しかった、かな?」
図星を突かれ、アルヴィーノは小さく舌打ちをしたい衝動に駆られた。
否定などできるはずがなかった。
王宮内でのあのハプニングは確かに肝が冷えたし、ルミをパニックにさせてしまったのは可哀想だったが、大廊下に響いた「アルヴィーノ!」という無邪気な声は、彼の胸の奥をこれ以上ないほど甘く満たしたのだ。
「……嬉しかったですよ。何か問題でも?」
観念して開き直った弟の言葉に、アルフレッドは「うわぁ、直球だ」と、呆れたように、けれど嬉しそうに声を立てて笑った。
「問題なんてないさ。君がルミくんのおかげで、ただの『慈悲なき魔王』にならずに済んでるんだから、兄としては大歓迎だよ。王宮の連中もみんな『あ、そっか……そういうことか』って生暖かい目で納得してたしね。僕が上手く揉み消しておいたから、ルミくんにも気に病まないように伝えておいてよ」
「……配慮には感謝します」
アルヴィーノは一つ、深く息を吐き、乱れた心を落ち着かせた。
そして、懐から一枚のチェスの駒を取り出し、アルフレッドの薔薇木の机の上へとコツン、と静かに置いた。
その紫の瞳が、ふっと冷徹で、なおかつ強欲な光を宿す。
「――ところで、兄上」
「ん? 何だい、急に真面目な顔をして」
アルヴィーノは机の上の駒を指先で弄びながら、じっと兄を見据えた。
「次の遠征、あるいは地方への領地査察の予定は、いつになりそうですか?」
「……えっ?」
「私の『私属の従者』を伴い、王都の貴族どもの目が完全に届かない場所へ赴く必要のある任務のことです。明日からでも構いませんが。どこか不穏な動きを見せている国境や、改革の必要な直轄領はありませんか?」
まさかの逆要求に、アルフレッドは一瞬だけ目を丸くし――それから、顔を引きつらせて苦笑した。
「おいおい、帰ってきたばかりじゃないか。それに僕、君たちがいない二ヶ月間、連日届くお見合いの釣書を大義名分並べて握り潰すのに死ぬほど奔走したんだよ? 少しは僕を休ませてほしいよ」
「兄上の政務の都合など、私の知ったことではありません。……ルミと誰の目も気にせず過ごせる場所があるのなら、私は喜んで貴方の刃となり、どんな敵でも灰にしてみせます」
真顔で恐ろしいほどの熱意を語る弟に、アルフレッドは深く、重い溜息をついた。
かつての憎み合っていた頃が嘘のように、今の弟はルミのことになると容易く我が儘な狂犬になる。
「まだ検討中だよ、検討中。そんなにすぐ次の遠征なんて作ったら、それこそ貴族たちに怪しまれるだろう? ……まぁ、今回の北方の成果があまりにも見事だったから、いずれまた、アルヴィーノにしか頼めない大きな任務を作ってあげるよ」
「……なるべく、早めにお願いします」
アルヴィーノは完璧な臣下としての礼を執り、満足したように翻って執務室を後にした。
扉が閉まる音を聞きながら、アルフレッドは「本当に、人使いの荒い弟だ……」と呟き、机の上の書類に視線を落とした。
一方、足早に廊下を進むアルヴィーノの胸中にあるのは、すでに次の任務の戦略でもなく、兄への態度でもなかった。
ただ、さっき王宮で真っ赤になって震えていた、愛しい伴侶の顔だけだ。
(ルミ……。今夜は部屋で、あの声で、気が済むまで私の名前を呼んでもらいましょう)
漆黒の軍服を翻し、冷酷無比な軍師は、己の愛する伴侶が待つ自室へと、少しだけ歩調を速めて向かうのだった。