【新婚旅行編】二人だけの旅路に、世界で一番甘い口づけを

王都へ帰還してから、数週間が経っていた。
​王宮での日常は、北の直轄領へ行く前と何ら変わりはない。
アルヴィーノは現王アルフレッドの「冷たき刃」として、漆黒の豪華な軍服に身を包み、冷酷無比な軍師の仮面を完璧に被り直していた。
その一歩後ろには、白いロリータ服を纏った水色の髪の少年・ルミが、完璧な従者として静かに控えている。
​周囲の貴族や兵士たちは、相変わらずその張り詰めた主従の空気に気圧されていた。
……しかし、二人だけの胸の奥には、あの北の地で過ごした甘く濃厚な二ヶ月間の記憶が、確かな温もりとして今も息づいている。
​誰もいない夜の私室では、アルヴィーノは軍服の襟を緩めてルミを強く抱きしめ、ルミは彼を「アルヴィーノ」と名前だけで呼んで、あの日々のように甘い時間を過ごしていた。
​そんな、表と裏の顔を完璧に使い分けていた、ある日の午後のことである。
​王宮のきらびやかな大廊下を、アルヴィーノは数名の将兵を引き連れて足早に歩いていた。
これから始まる軍議に向けて、その切れ長の紫の瞳は冷徹そのもの。
周囲の者たちは、彼の機嫌を損ねまいと緊張の面持ちで後に続いている。
​その時、廊下の向こうから資料を抱えたルミが歩いてくるのが見えた。
いつもなら、ルミは壁際にすっと寄り、深く頭を下げて完璧に「従者」として通り過ぎるのを待つはずだった。
​しかし、その時のルミは、直前まで「今日の夜、アルヴィーノに何を作ってあげようか」と、北の地での甘い新婚生活のような思い出に完全に浸り、うっかり気を抜いてしまっていたのだ。
​大好きな漆黒の背中を見つけたルミは、王宮内であることも忘れ、夜の私室と同じ感覚のまま、弾んだ声でその背中に向かって呼びかけてしまった。

​「あ、アルヴィーノ!」

​――その瞬間、大廊下の空気が、ピキリと凍りついた。
​背後から響いた、あまりにも無邪気で、なおかつ「敬称が一切ない」愛らしい声に、引き連れられていた将兵たちは一斉に目を見開いて硬直した。
​呼び止められたアルヴィーノ自身も、流石に予想だにしていなかった事態に、端正な顔を驚きで僅かに見開いた。漆黒の軍服を翻して振り返る。

​「……っ!?」

​その視線と交わった瞬間、ルミは自分がしでかした過ちの大きさに気づき、血の気が引くのを感じた。

​(あ、やっちゃった……!! ここ、王宮の真ん中じゃん……っ!!)

​いつもなら「王子様」や、せめて他人の前なら「アルヴィーノ様」と呼ばなければならないのに、あの日々の癖で、完全に呼び捨てにしてしまったのだ。
ルミは抱えていた資料をぎゅっと胸元に抱きしめ、水色の瞳を泳がせながら、みるみるうちに顔を真っ赤に染めていく。
どうしよう、アルヴィーノの立場を悪くしちゃった、と完全にパニックになって震えていた。
​アルヴィーノは一瞬、冷酷な軍師としてルミを咎めるべきか、あるいは……と脳を高速で回転させた。
しかし、あまりにも分かりやすく真っ赤になって半べそをかいている我が伴侶が愛おしすぎて、いつもの冷徹な仮面が僅かにピクリと揺らいでしまう。
​周囲の将兵や文官、メイドたちは、完全に息を呑んで二人の様子を窺っていた。
冷酷非情な第二王子だ。
使えない駒はその場で見切りをつける、あの「慈悲なき軍師」である。
いくらお気に入りの私属の従者とはいえ、王宮の公衆の面前で呼び捨てにされるなど、最大の不敬。
あの少年は今ここで、冷徹に切り捨てられるのではないか――。
​全員が固唾を呑んで、アルヴィーノの唇から放たれるであろう「冷酷な一言」を待った。
​その時である。
廊下の角から、タイミングよく現王アルフレッドが、数人の側近を伴って通りかかった。

​「おや、どうしたんだい? みんなして固まって」

​アルフレッドは王の衣装を纏いながらも、どこかフランクな様子で一同を見渡す。
そして、真っ赤になって震えているルミと、珍しく言葉を詰まらせている弟アルヴィーノの姿を見て、一瞬で「すべて」を察した。

​(あー……なるほどね。北の直轄領で、よっぽど甘い二ヶ月間を過ごしてきたわけだ)

​王都で必死に縁談を握り潰していた兄は、二人の様子を「そっかー、そっかそっか」と言わんばかりの、実に生暖かい目で見つめた。
そして、ふっと、誰にも気づかれないように楽しげに口元を緩める。
​アルフレッドは、怯える周囲の将兵たちに向けて、何でもないことのように手をひらひらと振ってみせた。

​「いやぁ、北方の演習は過酷だったからね。きっと長旅の疲れか何かで、聞き間違いをしてしまったのだろう。……さあ、アルヴィーノ、軍議の時間だ。行こうか」

​王であるアルフレッドが「聞き間違い」と断定した以上、この場にいる全員が「そういうこと」にしなければならなかった。

​「……ハッ。失礼いたしました。……ルミ、その資料は後で私の執務室へ置いておきなさい」
「は、はいっ……! 失礼いたしました……!」

​アルヴィーノは一瞬だけ、ルミにしか分からないような、優しく宥めるような視線を紫の瞳に宿して、アルフレッドと共に歩き出した。
ルミは深々と頭を下げ、バクバクと鳴り止まない心臓を押さえながら、足早にその場を離れた。
​王が去り、二人の主従が離れた後。
残された王宮の民たちの間には、妙な沈黙が流れていた。
​彼らは馬鹿ではない。
ルミの声はあまりにもはっきりと響いていたし、何より、あの冷酷無比なアルヴィーノが、自分を呼び捨てにした従者を罰するどころか、明らかに動揺し、庇うような空気を醸し出していたのを、全員が目撃してしまったのだ。

​「……なぁ」
「言うな。何も言うな」
「あのお堅い第二王子殿下が、ねぇ……」
「北の領地で、一体何があったんだ……」

​王宮の民たちは、あえてそれ以上は何も言わなかった。
王が不問に付した以上、追及するのは野暮というものだ。
ただ、彼らの胸の内には、「あのがちがちに冷徹な軍師様と、可愛い男の娘の従者くんは、どうやら私たちが思っている以上の『深い関係』らしい」という事実が、確信として刻み込まれたのだった。
​周囲の「そっか、そっか……」という、生温かくも邪魔はしない無言の空気に見守られながら。
主従という仮面はほんの少しだけひび割れてしまったけれど、二人の絆の深さは、図らずも王宮の知るところとなりとなった。
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