【新婚旅行編】二人だけの旅路に、世界で一番甘い口づけを
膠着していた戦況が動いたのは、その日の黎明だった。
「――そうか、囮は別動隊ではなく、本隊の進軍速度そのものだったか」
執務室の机を囲み、アルヴィーノの細く切れ長な紫の瞳が、冷徹な光を宿して地図の一点を射抜いた。
隣国が仕掛けた巧妙な布陣の綻び、その「壁」の正体を、彼の明晰な頭脳がついに暴いたのだ。
盤面が見えれば、あとは「慈悲なき軍師」の独壇場である。
「これより、我が極大魔法をもって敵の退路を完全に遮断します。全軍、私の合図と同時に包囲網を展開し、一兵たりとも逃すな」
張り詰めた空気の中、将官たちに冷酷なまでの的確な指示を飛ばす。ようやくすべてを解決するための、最後の手筈が整った。
出発の直前、身支度を整えるために一瞬だけ主寝室に戻ったアルヴィーノを、ルミはいつも通り「完璧な従者」として送り出そうとした。
「いってらっしゃい、アルヴィーノ……。お気をつけて」
いつものように健気に微笑もうとするルミ。
しかし、その顔を見た瞬間、アルヴィーノの胸に鋭い痛みが走った。
水色の長い髪に隠されたその顔は、連日泣き腫らしたせいで目が赤く潤み、目の下には痛々しいほど濃い隈が浮かんでいたのだ。
小さな身体はどこか弱々しく震えている。
「ルミ、貴方――」
「だ、大丈夫だから! ちょっと、寝不足なだけ。お仕事、頑張ってね、アルヴィーノ」
ルミは慌てて引きつった笑みを浮かべ、アルヴィーノを促すように背中を押した。
今、彼が国家の命運を賭けた重大な局面に立っていることを分かっているからこそ、自分の寂しさで彼の足を引っ張るわけにはいかなかった。
アルヴィーノは、そのルミの想いをすべて察しながらも、唇を噛み締めて翻った。
今ここで敵を完全に根絶やしにすることこそが、ルミとの絶対的な安息を取り戻す唯一の方法だと知っていたからだ。
「……待っていなさい、ルミ」
一言だけ残し、漆黒の豪華な軍服を翻して、アルヴィーノは戦場へと赴いた。
◇
それからさらに、丸一日。
アルヴィーノの帰りを待つ夜が、再びルミに訪れた。
(また……今日も、帰ってこないんだよね……)
暖炉の火が消えかかり、冷気が部屋を支配していく。
ルミはすっかり冷たくなってしまった広いベッドの中で、以前アルヴィーノが置いていった漆黒の上着をきつく、引きちぎらんばかりに抱きしめていた。
一度溢れ出した孤独と恐怖は、もうルミの小さな力では抑え込めなかった。
「う、く……っ、あ、アルヴィーノ……っ」
冷たい静寂の中、シーツに涙が吸い込まれていく。
研究所の暗闇で、ただ痛みに耐えていたあの頃の自分が、頭の裏で「ほら、やっぱりお前は一人だ」と囁くような気がしてならなかった。
どんなに愛されても、彼がいない時間はルミをかつての「ボロ雑巾」だった絶望へと引き戻してしまう。
「会いたい……会いたいよ、アルヴィーノ……俺を、ひとりにしないで……」
声を押し殺し、身体を丸めて泣きじゃくる。
連日の涙で腫れ上がった目が、さらに熱く痛んだ。
その時だった。
バタン、と、この静かな屋敷には不釣り合いなほど激しい音を立てて、主寝室の重厚な扉が開け放たれた。
「ルミ――っ!」
聞き間違えるはずのない、大好きな声。
ルミが涙に濡れた顔を跳ね上げると、そこには、息を荒く乱したアルヴィーノが立っていた。
作戦を完璧に終わらせ、本来なら戦後処理のために現地に数日は留まるべきところを、すべてを部下に力尽くで丸投げし、愛馬を限界まで飛ばして王都の兄すら驚くほどの速度で帰還したのだ。
その漆黒の軍服には、うっすらと戦場の硝煙の香りが残っている。
しかし、アルヴィーノの紫の瞳は、ベッドの上で自分の服を抱きしめ、ボロボロになって泣いているルミの姿だけを捉えていた。
「アルヴィ……の……?」
幻覚を見ているのかと、ルミが水色の瞳を大きく見開いた瞬間。
アルヴィーノは凄まじい勢いでベッドへ詰め寄り、ルミの小さな身体を、その漆黒の胸の中へと力強く掻き抱いた。
「っ……! 申し訳ありません、ルミ……! 寂しい思いをさせました、本当に、申し訳ありません……っ」
壊れ物を扱うようだった普段の抱擁とは違う、骨がきしむほどの強い力。アルヴィーノの大きな手が、ルミの背中や水色の長い髪を、狂おしいほどの愛おしさと後悔を込めて何度も何度も撫で上げる。
「アルヴィーノ……アルヴィーノ、本当に、アルヴィーノなの……?」
「ええ、私です。貴方を置いていくものですか。敵の脅威はすべて、私の魔法で灰にしてきました。国境の憂いはもう何もありません。……だから、もう泣かないでください」
ルミの耳元で紡がれる、低く、取り乱した声。
その胸に触れた瞬間、アルヴィーノの確かな体温と、自分を求める強烈な執着が伝わってきて、ルミの胸の奥の氷が完全に融けていくのが分かった。
「うああん……っ、寂しかったよぉ……っ! ずっと、一人で、怖かったの……っ!」
ルミはアルヴィーノの首にしがみつき、彼の漆黒の軍服の胸元に顔を埋めて、今度は子供のように大声で泣き声を上げた。
溜め込んでいた寂しさをすべて吐き出すように、彼の身体にすがりつく。
「ええ、ええ。よく耐えてくれました。私の可愛いルミ……」
アルヴィーノはルミを抱きしめたまま、連日の涙で赤く腫れ上がったルミの目元や、隈の浮かぶ頬に、何度も何度も、慈しむように熱い口づけを落とした。
その紫の瞳には、愛しい者をこれほどまでに傷つけてしまった己への怒りと、それ以上の特大の愛が揺らめいている。
「これからは、片時も離れません。任期が終わるまでの残りの日々、毎日貴方の隣で、貴方の名前を呼んで眠ります。……だから、私を許してください、ルミ」
「……ん、……許す、もん……っ。だから、ずっと、ここにいて……?」
泣きじゃくりながらも、ルミは腕の中で小さく頷き、アルヴィーノの胸にさらに深く潜り込んだ。
窓の外では、北方の厳しい冬の夜が続いている。
けれど、すべてを解決して戻ってきた王の刃と、彼に命を吹き込む愛しい伴侶の間には、もう二度と、二人を隔てる冷たい孤独が忍び寄る隙間など残されていなかった。
「――そうか、囮は別動隊ではなく、本隊の進軍速度そのものだったか」
執務室の机を囲み、アルヴィーノの細く切れ長な紫の瞳が、冷徹な光を宿して地図の一点を射抜いた。
隣国が仕掛けた巧妙な布陣の綻び、その「壁」の正体を、彼の明晰な頭脳がついに暴いたのだ。
盤面が見えれば、あとは「慈悲なき軍師」の独壇場である。
「これより、我が極大魔法をもって敵の退路を完全に遮断します。全軍、私の合図と同時に包囲網を展開し、一兵たりとも逃すな」
張り詰めた空気の中、将官たちに冷酷なまでの的確な指示を飛ばす。ようやくすべてを解決するための、最後の手筈が整った。
出発の直前、身支度を整えるために一瞬だけ主寝室に戻ったアルヴィーノを、ルミはいつも通り「完璧な従者」として送り出そうとした。
「いってらっしゃい、アルヴィーノ……。お気をつけて」
いつものように健気に微笑もうとするルミ。
しかし、その顔を見た瞬間、アルヴィーノの胸に鋭い痛みが走った。
水色の長い髪に隠されたその顔は、連日泣き腫らしたせいで目が赤く潤み、目の下には痛々しいほど濃い隈が浮かんでいたのだ。
小さな身体はどこか弱々しく震えている。
「ルミ、貴方――」
「だ、大丈夫だから! ちょっと、寝不足なだけ。お仕事、頑張ってね、アルヴィーノ」
ルミは慌てて引きつった笑みを浮かべ、アルヴィーノを促すように背中を押した。
今、彼が国家の命運を賭けた重大な局面に立っていることを分かっているからこそ、自分の寂しさで彼の足を引っ張るわけにはいかなかった。
アルヴィーノは、そのルミの想いをすべて察しながらも、唇を噛み締めて翻った。
今ここで敵を完全に根絶やしにすることこそが、ルミとの絶対的な安息を取り戻す唯一の方法だと知っていたからだ。
「……待っていなさい、ルミ」
一言だけ残し、漆黒の豪華な軍服を翻して、アルヴィーノは戦場へと赴いた。
◇
それからさらに、丸一日。
アルヴィーノの帰りを待つ夜が、再びルミに訪れた。
(また……今日も、帰ってこないんだよね……)
暖炉の火が消えかかり、冷気が部屋を支配していく。
ルミはすっかり冷たくなってしまった広いベッドの中で、以前アルヴィーノが置いていった漆黒の上着をきつく、引きちぎらんばかりに抱きしめていた。
一度溢れ出した孤独と恐怖は、もうルミの小さな力では抑え込めなかった。
「う、く……っ、あ、アルヴィーノ……っ」
冷たい静寂の中、シーツに涙が吸い込まれていく。
研究所の暗闇で、ただ痛みに耐えていたあの頃の自分が、頭の裏で「ほら、やっぱりお前は一人だ」と囁くような気がしてならなかった。
どんなに愛されても、彼がいない時間はルミをかつての「ボロ雑巾」だった絶望へと引き戻してしまう。
「会いたい……会いたいよ、アルヴィーノ……俺を、ひとりにしないで……」
声を押し殺し、身体を丸めて泣きじゃくる。
連日の涙で腫れ上がった目が、さらに熱く痛んだ。
その時だった。
バタン、と、この静かな屋敷には不釣り合いなほど激しい音を立てて、主寝室の重厚な扉が開け放たれた。
「ルミ――っ!」
聞き間違えるはずのない、大好きな声。
ルミが涙に濡れた顔を跳ね上げると、そこには、息を荒く乱したアルヴィーノが立っていた。
作戦を完璧に終わらせ、本来なら戦後処理のために現地に数日は留まるべきところを、すべてを部下に力尽くで丸投げし、愛馬を限界まで飛ばして王都の兄すら驚くほどの速度で帰還したのだ。
その漆黒の軍服には、うっすらと戦場の硝煙の香りが残っている。
しかし、アルヴィーノの紫の瞳は、ベッドの上で自分の服を抱きしめ、ボロボロになって泣いているルミの姿だけを捉えていた。
「アルヴィ……の……?」
幻覚を見ているのかと、ルミが水色の瞳を大きく見開いた瞬間。
アルヴィーノは凄まじい勢いでベッドへ詰め寄り、ルミの小さな身体を、その漆黒の胸の中へと力強く掻き抱いた。
「っ……! 申し訳ありません、ルミ……! 寂しい思いをさせました、本当に、申し訳ありません……っ」
壊れ物を扱うようだった普段の抱擁とは違う、骨がきしむほどの強い力。アルヴィーノの大きな手が、ルミの背中や水色の長い髪を、狂おしいほどの愛おしさと後悔を込めて何度も何度も撫で上げる。
「アルヴィーノ……アルヴィーノ、本当に、アルヴィーノなの……?」
「ええ、私です。貴方を置いていくものですか。敵の脅威はすべて、私の魔法で灰にしてきました。国境の憂いはもう何もありません。……だから、もう泣かないでください」
ルミの耳元で紡がれる、低く、取り乱した声。
その胸に触れた瞬間、アルヴィーノの確かな体温と、自分を求める強烈な執着が伝わってきて、ルミの胸の奥の氷が完全に融けていくのが分かった。
「うああん……っ、寂しかったよぉ……っ! ずっと、一人で、怖かったの……っ!」
ルミはアルヴィーノの首にしがみつき、彼の漆黒の軍服の胸元に顔を埋めて、今度は子供のように大声で泣き声を上げた。
溜め込んでいた寂しさをすべて吐き出すように、彼の身体にすがりつく。
「ええ、ええ。よく耐えてくれました。私の可愛いルミ……」
アルヴィーノはルミを抱きしめたまま、連日の涙で赤く腫れ上がったルミの目元や、隈の浮かぶ頬に、何度も何度も、慈しむように熱い口づけを落とした。
その紫の瞳には、愛しい者をこれほどまでに傷つけてしまった己への怒りと、それ以上の特大の愛が揺らめいている。
「これからは、片時も離れません。任期が終わるまでの残りの日々、毎日貴方の隣で、貴方の名前を呼んで眠ります。……だから、私を許してください、ルミ」
「……ん、……許す、もん……っ。だから、ずっと、ここにいて……?」
泣きじゃくりながらも、ルミは腕の中で小さく頷き、アルヴィーノの胸にさらに深く潜り込んだ。
窓の外では、北方の厳しい冬の夜が続いている。
けれど、すべてを解決して戻ってきた王の刃と、彼に命を吹き込む愛しい伴侶の間には、もう二度と、二人を隔てる冷たい孤独が忍び寄る隙間など残されていなかった。