【新婚旅行編】二人だけの旅路に、世界で一番甘い口づけを
王城の最奥、重厚な薔薇木の机に向かう若き国王アルフレッドの前に、アルヴィーノは表情ひとつ変えずに立っていた。
差し出された数葉の書状には、国内外の有力貴族から寄せられた令嬢たちの釣書が並んでいる。
「――すべて断れと、何度言えば理解していただけるのですか、兄上」
アルヴィーノの声音は、戦場で敵を震撼させるそれと同じく、冷徹で一切の揺らぎがない。
細く切れ長の紫の瞳が、淡々とした光を宿して兄を見据えていた。
周囲に他の従者や護衛がいないことを確認すると、アルフレッドは羽ペンを置き、椅子の背にもたれかかって小さく息を吐いた。
その瞬間、王としての張り詰めた威厳がふっと消え、親しみのある兄の顔が覗く。
「そんなに怖い顔しないでほしいな、アルヴィーノ。僕だってこれ、楽しんで受け取ってるわけじゃないんだよ」
一人称を「僕」に変え、肩の力を抜いた口調でアルフレッドは苦笑した。
和解を経て、二人の間でだけ許された、かつての兄弟の距離感。
しかし、アルヴィーノの冷ややかな視線は変わらない。
「お前の意思はよく分かっているよ。でもさ、これらは僕の元に届いた『臣下からの嘆願』なんだ。僕の一存ですべてを握り潰し続けたら、さすがに周りも不穏な噂を立て始める。……お前が頑なに誰も娶らない理由を、勘繰る奴が出てくるぞ」
アルフレッドの言葉は、決してからかいではない。
一国の王として、そして弟の幸せを願う兄としての、極めて現実的な忠告だった。
「主従」という仮面を被り、アルヴィーノの影に潜む水色の髪の少年――ルミの存在。
もし彼らの真の関係が露見すれば、ルミの身に危険が及ぶのは火を見るより明らかだった。
「……私の身辺については、私が完璧に処理します。これ以上の婚姻の儀に関する書状は、私の執務室に届く前にすべて破棄してください」
「無茶言わないおくれよ。僕がどれほどお前たちの盾になろうとしても、限界はあるんだから」
アルヴィーノは僅かに眉をひそめた。
普段であれば、これほどの執拗な縁談など、冷酷にあしらい、己の任務を着実にこなすだけで済む話だった。
しかし、今の彼には、どうしてもこの状況を看過できない理由があった。
原因は、昨夜の執務室での一幕にある。
完璧な従者としてアルヴィーノの背後に控えていたルミが、机に積み上がった釣書の束を片付ける際、ほんの一瞬だけ、悲しげに、そして酷く怯えたように視線を落としたのだ。
「王子様は、やっぱり凄くモテるんだね」と、無理に無邪気な笑みを浮かべてみせたその声が、微かに震えていたのをアルヴィーノは聞き逃さなかった。
研究所でボロ雑巾のように扱われ、世界に絶望していたルミ。
ようやく築き上げた二人の絶対的な絆――【伴侶】という誓いがあってもなお、ルミの心の根底には消えない傷痕が眠っている。
ルミを不安にさせる要素は、たとえ実の兄であろうと、国家の都合であろうと、容赦なく排除する。
「兄上」
アルヴィーノの瞳の奥に、禁術をも操る強大な魔力が、静かに、しかし悍ましく揺らめいた。
室内の気温が数度下がったかのような錯覚を覚えるほどの殺気。
「私は貴方の刃だ。貴方の玉座を血で汚さぬために、この身を捧げている。……ですが、私の唯一の対価に手を触れるというのであれば、その刃がどこに向くか、保障はいたしかねます」
それは、実の兄に対する明確な脅迫だった。
並の人間であれば気圧され、命乞いをするほどの殺気。
しかしアルフレッドは、怯むことなくそれを受け止め、やがて、深く重い溜息をついた。
「相変わらず、ルミくんのことになると容易く狂犬になるね、お前は」
アルフレッドは引き出しから一通の、既に蝋封が押された書状を取り出し、机の上に滑らせた。
その表情は、先ほどまでのフランクなものから、どこか真摯な、兄としての温かみを帯びている。
「……僕だって、君たちの関係を邪魔するつもりは毛頭ないよ。むしろ、これ以上周囲が騒がしくなれば、僕の政務にも支障が出る。だからさ、これを使ってほしいんだ」
アルヴィーノは不審そうにその書状に目を落とした。
「来月、北方の国境付近にある王家直轄領で、大規模な演習を行う。軍師である君には、その指揮とその後の領地査察を命じる。期間は二ヶ月だ」
「……それが、この縁談と何の関係が?」
「その査察には、君の『私属の従者』も当然、同行していい。国境の直轄領は、王都の貴族どもの目が完全に届かない場所だ。そこで君たちがどう過ごそうと、僕の耳には何も入ってこない。――それから、王都に残る僕に来る君への縁談だけどね」
アルフレッドは悪戯っぽく、しかし冷徹な光を宿した笑みを浮かべた。
「『第二王子は現在、国境の軍務と領地改革に全力を注いでおり、婚姻を考える余地はない。成果を上げるまでは、如何なる縁談も受け付けない』って、僕が公言しておく。これなら貴族どもも大義名分の前に黙るしかない。君が現地で成果を上げ続ける限り、この猶予はいくらでも引き延ばせる」
王都の喧騒から二人を遠ざけ、誰の目も気にすることなく【伴侶】として過ごせる時間と場所を、王の権限で保障するという、兄からの最大の配慮だった。
「……随分と、私に都合の良い提案ですね」
アルヴィーノの殺気が霧散し、警戒を含んだ声に戻る。
「代わりに、私に何を要求されるつもりですか」
アルフレッドは椅子の背を正し、真っ直ぐに弟を見つめた。
「北方の国境は、未だ不穏な動きを見せる他国の影がある。そこを完全に掌握し、我が国の絶対的な防壁とすること。……それと、もうひとつ」
王は一瞬だけ、かつて傷つけ合った過去を悔いるような、痛みを帯びた目を生真面目に向けた。
「君がルミくんを失えば、君は本当にただの『慈悲なき魔王』に戻ってしまう。僕は、この国の王として君の力を必要としているけど、兄として、再び暗闇に落ちる姿は見たくないんだ。……ルミくんを、不安から守り通して。それが僕の条件だ」
沈黙が室内を支配した。
アルヴィーノは、机の上の書状を静かに手に取り、懐へと収めた。
「御意のままに、陛下。北方の憂いは、私が完璧に断ち切ってみせましょう」
完璧な臣下としての礼を執り、アルヴィーノは翻って執務室を後にした。
アルフレッドの「兄としての不器用な優しさ」をその胸に仕舞い込み、彼は足早に廊下を進む。
向かう先は、己の帰りを自室で待っているであろう、水色の髪の少年の元だ。
(ルミ……もう、貴方が怯える必要はない。私が貴方だけの、唯一の場所を守り続ける)
漆黒の軍服を翻し、冷酷無比な軍師は、己の愛する伴侶の元へと歩みを進めた。
差し出された数葉の書状には、国内外の有力貴族から寄せられた令嬢たちの釣書が並んでいる。
「――すべて断れと、何度言えば理解していただけるのですか、兄上」
アルヴィーノの声音は、戦場で敵を震撼させるそれと同じく、冷徹で一切の揺らぎがない。
細く切れ長の紫の瞳が、淡々とした光を宿して兄を見据えていた。
周囲に他の従者や護衛がいないことを確認すると、アルフレッドは羽ペンを置き、椅子の背にもたれかかって小さく息を吐いた。
その瞬間、王としての張り詰めた威厳がふっと消え、親しみのある兄の顔が覗く。
「そんなに怖い顔しないでほしいな、アルヴィーノ。僕だってこれ、楽しんで受け取ってるわけじゃないんだよ」
一人称を「僕」に変え、肩の力を抜いた口調でアルフレッドは苦笑した。
和解を経て、二人の間でだけ許された、かつての兄弟の距離感。
しかし、アルヴィーノの冷ややかな視線は変わらない。
「お前の意思はよく分かっているよ。でもさ、これらは僕の元に届いた『臣下からの嘆願』なんだ。僕の一存ですべてを握り潰し続けたら、さすがに周りも不穏な噂を立て始める。……お前が頑なに誰も娶らない理由を、勘繰る奴が出てくるぞ」
アルフレッドの言葉は、決してからかいではない。
一国の王として、そして弟の幸せを願う兄としての、極めて現実的な忠告だった。
「主従」という仮面を被り、アルヴィーノの影に潜む水色の髪の少年――ルミの存在。
もし彼らの真の関係が露見すれば、ルミの身に危険が及ぶのは火を見るより明らかだった。
「……私の身辺については、私が完璧に処理します。これ以上の婚姻の儀に関する書状は、私の執務室に届く前にすべて破棄してください」
「無茶言わないおくれよ。僕がどれほどお前たちの盾になろうとしても、限界はあるんだから」
アルヴィーノは僅かに眉をひそめた。
普段であれば、これほどの執拗な縁談など、冷酷にあしらい、己の任務を着実にこなすだけで済む話だった。
しかし、今の彼には、どうしてもこの状況を看過できない理由があった。
原因は、昨夜の執務室での一幕にある。
完璧な従者としてアルヴィーノの背後に控えていたルミが、机に積み上がった釣書の束を片付ける際、ほんの一瞬だけ、悲しげに、そして酷く怯えたように視線を落としたのだ。
「王子様は、やっぱり凄くモテるんだね」と、無理に無邪気な笑みを浮かべてみせたその声が、微かに震えていたのをアルヴィーノは聞き逃さなかった。
研究所でボロ雑巾のように扱われ、世界に絶望していたルミ。
ようやく築き上げた二人の絶対的な絆――【伴侶】という誓いがあってもなお、ルミの心の根底には消えない傷痕が眠っている。
ルミを不安にさせる要素は、たとえ実の兄であろうと、国家の都合であろうと、容赦なく排除する。
「兄上」
アルヴィーノの瞳の奥に、禁術をも操る強大な魔力が、静かに、しかし悍ましく揺らめいた。
室内の気温が数度下がったかのような錯覚を覚えるほどの殺気。
「私は貴方の刃だ。貴方の玉座を血で汚さぬために、この身を捧げている。……ですが、私の唯一の対価に手を触れるというのであれば、その刃がどこに向くか、保障はいたしかねます」
それは、実の兄に対する明確な脅迫だった。
並の人間であれば気圧され、命乞いをするほどの殺気。
しかしアルフレッドは、怯むことなくそれを受け止め、やがて、深く重い溜息をついた。
「相変わらず、ルミくんのことになると容易く狂犬になるね、お前は」
アルフレッドは引き出しから一通の、既に蝋封が押された書状を取り出し、机の上に滑らせた。
その表情は、先ほどまでのフランクなものから、どこか真摯な、兄としての温かみを帯びている。
「……僕だって、君たちの関係を邪魔するつもりは毛頭ないよ。むしろ、これ以上周囲が騒がしくなれば、僕の政務にも支障が出る。だからさ、これを使ってほしいんだ」
アルヴィーノは不審そうにその書状に目を落とした。
「来月、北方の国境付近にある王家直轄領で、大規模な演習を行う。軍師である君には、その指揮とその後の領地査察を命じる。期間は二ヶ月だ」
「……それが、この縁談と何の関係が?」
「その査察には、君の『私属の従者』も当然、同行していい。国境の直轄領は、王都の貴族どもの目が完全に届かない場所だ。そこで君たちがどう過ごそうと、僕の耳には何も入ってこない。――それから、王都に残る僕に来る君への縁談だけどね」
アルフレッドは悪戯っぽく、しかし冷徹な光を宿した笑みを浮かべた。
「『第二王子は現在、国境の軍務と領地改革に全力を注いでおり、婚姻を考える余地はない。成果を上げるまでは、如何なる縁談も受け付けない』って、僕が公言しておく。これなら貴族どもも大義名分の前に黙るしかない。君が現地で成果を上げ続ける限り、この猶予はいくらでも引き延ばせる」
王都の喧騒から二人を遠ざけ、誰の目も気にすることなく【伴侶】として過ごせる時間と場所を、王の権限で保障するという、兄からの最大の配慮だった。
「……随分と、私に都合の良い提案ですね」
アルヴィーノの殺気が霧散し、警戒を含んだ声に戻る。
「代わりに、私に何を要求されるつもりですか」
アルフレッドは椅子の背を正し、真っ直ぐに弟を見つめた。
「北方の国境は、未だ不穏な動きを見せる他国の影がある。そこを完全に掌握し、我が国の絶対的な防壁とすること。……それと、もうひとつ」
王は一瞬だけ、かつて傷つけ合った過去を悔いるような、痛みを帯びた目を生真面目に向けた。
「君がルミくんを失えば、君は本当にただの『慈悲なき魔王』に戻ってしまう。僕は、この国の王として君の力を必要としているけど、兄として、再び暗闇に落ちる姿は見たくないんだ。……ルミくんを、不安から守り通して。それが僕の条件だ」
沈黙が室内を支配した。
アルヴィーノは、机の上の書状を静かに手に取り、懐へと収めた。
「御意のままに、陛下。北方の憂いは、私が完璧に断ち切ってみせましょう」
完璧な臣下としての礼を執り、アルヴィーノは翻って執務室を後にした。
アルフレッドの「兄としての不器用な優しさ」をその胸に仕舞い込み、彼は足早に廊下を進む。
向かう先は、己の帰りを自室で待っているであろう、水色の髪の少年の元だ。
(ルミ……もう、貴方が怯える必要はない。私が貴方だけの、唯一の場所を守り続ける)
漆黒の軍服を翻し、冷酷無比な軍師は、己の愛する伴侶の元へと歩みを進めた。
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