凍てつく姫に、春を告ぐ-蒼き獅子の騎士譚-

王宮の深奥、夕闇が完全に帳を下ろした回廊を、レオは一人歩いていた。

「――っ」

誰もいない曲がり角に差し掛かった瞬間、レオは拳を激しく壁へと打ち付けた。
鈍い音が静まり返った回廊に響き、白皙の拳が赤く滲む。
しかし、その痛みなど、今の彼の胸を焼き尽くさんとする激情に比べれば、無に等しかった。

悔しかった。
喉の奥が引き裂かれそうなほどに、 狂おしく、 惨めだった。
どれほど背を伸ばしても、どれほど剣を極め、 賢者たちを唸らせる知略を身につけようとも。
ルミの瑞々しい水色の瞳が自分を映す時、そこにあるのはいつだって「可愛い弟」を見るための、 濁りのない、 乾いた慈愛だけ。
そして、あの人が「一人の男」に身を委ねる時の、 薔薇色に染まる頬も、 潤む瞳も、 そのすべては漆黒の軍服を纏う叔父アルヴィーノだけのものなのだ。

(どうしたらいい。どうすれば、貴方は私を『男』として見てくれるのですか……?)

脳裏にこびりついて離れないのは、城下町へ向かう二人の、 結ばれた手の温もり。
アルヴィーノに抱きついたルミの、 幸せそうな声音。
考えれば考えるほど、 思考の迷宮は深く昏い霧に包まれていく。
真っ当な手段では、 あの堅牢な「弟」という名の檻を壊すことはできない。
ならば、 搦め手か。それとも、 力ずくで奪い去るか――。

気づけばレオの足は、 再び父親である国王アルフレッドの執務室へと向いていた。
己の中に満ちていく黒い衝動を、 辛うじて「光の王子」の仮面で抑え込みながら、 レオは静かに扉を叩いた。

「……父上。夜分遅くに申し訳ありません」
「おや、 レオかい? どうしたんだ、 こんな夜更けに」

机の上の魔導ランプの光に照らされたアルフレッドは、 息子の姿を認めると、 疲れの滲む顔を和らげて微笑んだ。
しかし、 レオが室内に一歩足を踏み入れた瞬間、 アルフレッドの身体が本能的に硬直した。
レオはいつも通り、 完璧な礼儀と、 父親譲りの美しいプラチナブロンドの髪を揺らして佇んでいる。
だが、 その新緑の瞳の奥、 そして彼の身体から立ち上る空気は、 酷く冷徹で、 刺すような威圧感を孕んでいた。
それは、 アルフレッドがかつて何度も対峙し、 そのたびに胃を痛めてきた実の弟「慈悲なき軍師(魔王)」アルヴィーノの放つ覇気と、 恐ろしいほどに酷似していた。

(……待て。 何だ、 この空気は……?)

アルフレッドの脳裏に、 最大級の警戒警報が鳴り響く。
背筋を冷たい汗が伝う。
直感した。
目の前にいる我が子は今、 崖っぷちの境界線に立っている。
ここで選択を誤れば、 この国にアルヴィーノ以上の「最凶の暴君」が誕生してしまうと。

「父上……。 以前、 格好いい男についてお伺いしました。 私は父上の仰る通り、 誰よりも強く、 賢くあるよう努めてきました。 ……ですが、 届かないのです」

レオの声は、 どこまでも静かで、 だからこそ狂気に満ちていた。

「どれほど尽くそうと、 私はあの人にとって、 永遠に『可愛い弟』でしかない。 ……一人の男として、 伴侶として選ばれるためには、 私はこれ以上、 一体何をすればいいのでしょうか。 教えてください、 父上」

「ルミにぃ」ではなく、 「あの人」と呼んだ。
その響きに含まれる生々しい独占欲に、 アルフレッドは胃の奥が乗っ取られるような激しい痛みを覚えた。

(これはやばい。 完全に軌道修正しないと、 とんでもないことが起こる……!!)

アルフレッドは必死で頭をフル回転させた。
ここでアルヴィーノのように「諦めろ」と突き放せば、 レオは間違いなく裏社会の禁術に手を染めるか、 力ずくでルミを監禁するような暴挙に出る。
なだめつつ、 牙を抜かなければならない。
アルフレッドは椅子から立ち上がると、 震えそうになる膝を押し交わし、 レオの肩に両手を置いた。

「レ、 レオ。 落ち着いて聞いてほしい。 君のその……一途な情熱は、 決して悪いことではないんだ。 だけどね、 人の心というのは、 剣や学問のように『成果を上げれば手に入る』というものではないんだよ」
「……成果では、 不足だと?」
「そうじゃない! そうではないんだ!」

アルフレッドは必死に声を紡ぐ。

「ルミくんにとって、 君は最初から『特別な存在』なんだよ。 エルザのお腹にいた時から、 彼は君のお兄ちゃんになると誓ってくれた。 その温かな絆を、 焦りや無理なアプローチで壊してしまっては元も子もない。 男として見られたいなら、 まずは今の『頼れる最高の弟』としての信頼を、 誰よりも深く築き上げることだ。 彼が困った時、 迷った時、 一番に頼りたくなるような、 揺るぎない絶対的な味方に……そう、 『外側からじっくりと』支える男になるんだよ」

アルフレッドは、 「これなら大人しく、 時間をかけて弟役に徹してくれるだろう」という、 決死の軌道修正のつもりだった。
しかし、 その言葉の、 ほんの一部「外側からじっくりと」という単語が、 レオの歪んだ天才的な頭脳に、 最悪のインスピレーションを与えてしまった。

(――ああ、 なるほど。 外側から、 じっくりと、 ですか)

レオの緑の瞳の奥で、 昏い火花が散った。

(真っ正面から『男』としてぶつかっても、 ルミにぃは困惑して逃げてしまう。 ならば、 完璧な『頼れる弟』の仮面を被ったまま、 逃げ道をすべて塞ぎ……外堀から、 じわじわと埋めていけばいいのですね。 叔父上すら介入できないほど、 完璧に、 逃れられないように)

父親の必死の説得を、 レオは最凶の策士の作戦行動へと脳内で完璧に変換していた。

「……よく分かりました、 父上。 素晴らしい助言を、 ありがとうございます」

レオはふっと、 憑き物が落ちたような、 どこまでも美しく、 そして酷く冷ややかな笑みを浮かべた。

「私は、 焦りすぎていたようです。 これからは父上の仰る通り、 じっくりと、 外側から進めさせていただきますね」
「え、 あ、 うん……。 分かってくれたなら、 嬉しいよ……?」

胸をなでおろすアルフレッドだったが、 レオが翻した背中から漂う気配は、 先ほどよりも一層、 緻密で、 逃げ場のない「捕食者」のそれへと深化していた。
胃の痛みに耐えながら見送るアルフレッドは、 まだ気づいていなかった。 自分の放った一言が、 「光の王子レオ」を、 完璧なる「外堀埋め型策士」へと完全覚醒させてしまったという、 恐るべき事実に。
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