凍てつく姫に、春を告ぐ-蒼き獅子の騎士譚-

アルフレッドとの対峙を経て、リリィの存在がレイストール王国の最高機密として処理されてからも、レオの日常の歩みが止まることはなかった。

かつてルミを振り向かせようと躍起になっていた時のように、あるいはそれ以上の狂気的な執念を孕んで、レオは日々の勉学と剣術修行に没頭していた。
次期国王としての帝王学の講義では、講師すらも気圧されるほどの冷徹な戦術眼を披露し、修練場では、骨がきしむような激しい剣撃を繰り出し続ける。
すべては、隣国という脅威からリリィを完璧に隠匿し、万が一の時には世界を敵に回してでも彼女を毟り取るための、絶対的な「力」を蓄えるためであった。

そんなレオが汗と血を流している間。
主のいなくなったレオの私室で、リリィは一人、静かなお留守番の時間を過ごしていた。

「……すごいです……」

リリィは部屋の絨毯を素足で踏み締めながら、赤く大きな瞳をきょろきょろと動かし、おどおどとした足取りで部屋の中を見て回っていた。

物心ついた頃から閉じ込められていた、あの冷え切った白亜の塔。
そこには、薄汚れた豪奢なドレスと、冷たい石の壁、そして家畜のような残飯しかなかった。
リリィにとって「部屋」とは、孤独と絶望を閉じ込めるための檻と同義だったのだ。

けれど、レオが与えてくれたこの空間は、まるで違っていた。

部屋の片隅にある大きな本棚には、革張りの重厚な魔導書や、見たこともない遠い異国の歴史書が、天井に届かんばかりにぎっしりと並んでいる。
机の上を見れば、繊細な細工が施された万年筆や、レオが日々思考を巡らせているであろう複雑な数式が書かれた羊皮紙、そして、叔父であるアルヴィーノと盤を挟んで戦っていたのであろう、黒曜石と白水晶で作られた美しいチェス盤が、静かに日の光を浴びていた。

「これは……なん、でしょう……」

窓際に置かれた飾り棚に近づき、リリィはそっと指先を伸ばした。
そこには、ガラスの小瓶に入った色鮮やかな南方の砂や、精巧に作られた光属性の魔導具のランプなど、白亜の塔には決して存在しなかった「世界の破片」が、たくさん並んでいる。

見るものすべてが新しく、どこか温かい。
リリィは、まるで初めておもちゃ箱をひっくり返した子供のように、次から次へと目移りしては、その美しい品々にそっと触れていく。

部屋の空気には、微かにレオの香りが残っていた。
檻ではない、自分を優しく守ってくれるための本当の部屋。
リリィはその中に満ちるレオの気配に包まれながら、ほんの少しだけ緊張を解き、幼い好奇心のままに、初めて手に入れた「自由な空間」を愛おしそうに探索し続けるのだった。
部屋中を見て回ったリリィが、最後にたどり着いたのは、部屋の奥に設えられたレオのベッドだった。

おどおどとした手つきで、そっとそのシーツに触れてみる。
――それだけで、リリィの赤い瞳は驚きに大きく見開かれた。

白亜の塔にあったのは、湿気を含んで硬く冷え切った、薄い藁の寝床だけだった。
夜になるたび、寒さに身体を震わせ、孤独に耐えるための場所。
けれど、レオのベッドはまるで違っていた。
上質な絹のシーツの下には、羽毛がたっぷりと詰め込まれた、信じられないほどに厚くふかふかのマットレス。
触れるだけで、手の平からじんわりと優しい暖かさが伝わってくる。

「……ふわふわ、です……」

リリィは誘われるようにして、ゆっくりとベッドの上へと這い上がった。
そっと身体を横たえた瞬間、極上の柔らかさが、彼女の小さく痩せた身体を包み込む。
まるで温かい陽だまりの雲に抱かれているかのような心地よさに、思わず小さな吐息が漏れた。

白亜の塔には決してなかった、本物の柔らかさ、暖かさ。
リリィは瞬く間に、その至高の揺り籠の虜になってしまった。
レオの微かな香りに包まれている安心感も手伝って、彼女の瞼は急激に重くなっていく。
リリィはシーツをきゅっと胸元まで引き上げると、小さな身体を丸め、幸福に満ちた微笑みを浮かべながら、深い眠りへと落ちていった。

――数時間後。

ガチャリ、と静かに部屋の扉が開いた。

帝王学の過酷な講義を終え、修練場で剣術の猛特訓を終えて帰ってきたレオだった。
その身体からは湯気が立ち上り、衣服には泥と汗が染み付いている。
今日もルミの時以上に己を追い込み、身体中がきしむような疲労感に苛まれていた。

「リリィ、ただいま戻りま――」

声をかけようとしたレオの言葉が、途中で止まった。
夕暮れの茜色の光が差し込む部屋の奥。
自身の大きなベッドの真ん中で、白い髪を揺らし、丸くなって眠っている愛おしい少女の姿が、レオの目に飛び込んできたからだ。

以前は、恐怖と寒さに怯え、いつ終わるとも知れない絶望に震えていた。
いま、ここで眠るリリィの顔には、そんな陰りはひとかけらもない。
ふかふかの布団に包まれ、心から安心しきった、酷く幸せそうな寝顔を見せている。
しばしの間、レオはその場に立ち尽くし、ただその光景を真っ直ぐに見つめていた。

 (ああ……私は、このために)

脳髄を削るような戦略会議も、叔父からの冷酷な叱責も、父に覚悟を問われたあの重圧も。
すべては、この小さな少女に、この穏やかで幸福な眠りを与えるためだったのだ。
レオの瞳から、戦術を練るときのような昏く鋭い光が消え、深い、底なしの愛着を孕んだ眼差しへと変わる。

「……可愛い人」

レオは足音を消してベッドサイドへと近づくと、膝を突き、眠る彼女の頬にそっと、触れるか触れないかの距離で指先を寄せた。
ルミを求めていた頃の甘い自分は、もういない。
今の自分にあるのは、この少女を世界から隠し通し、永遠に自分の檻の中で幸せに満たしてあげるという、狂気的な独占欲だけだ。

レオは、彼女を起こさないように細心の注意を払いながら、リリィの白い髪をそっと撫でた。
そして、自身の執着の証である彼女の幸せな寝顔を、飽きることなく、ただ静かに見守り続けるのだった。
41/75ページ
スキ