凍てつく姫に、春を告ぐ-蒼き獅子の騎士譚-
レオが昏睡状態に陥ってから、数日の刻が流れた。
その間、レイストール王宮の最深部にある一室で、アルヴィーノは新王アルフレッドと対峙していた。
机を挟んで向き合う兄弟の空気は、静かだが重苦しい。
アルヴィーノは至極淡々とした手つきで、一束の極秘報告書をアルフレッドの前へと滑らせた。
「レオの容態ですが、数日眠り続けてはいるものの、先ほど命の危機は脱したと医療班から報告がありました。魔力の過剰消費と極度の肉体疲労によるものです。しばらくすれば目を覚ますでしょう」
「そうか……。まずは無事だったんだね」
アルフレッドは深く安堵の息を漏らしたが、その表情はすぐに強張った。
目の前に置かれた報告書の、あまりに不穏な中身に視線を落としたからだ。
「さて、ここからが本題です、陛下」
アルヴィーノは細く切れ長の深い紫色の瞳を冷酷に細め、淡々と、しかし容赦のない事実を突きつける。
「彼が命懸けで連れ帰ったあの少女について、私が調べ上げたすべてをここに記してあります。以前兄上に渡したものから詳細に調べ上げたものになります。彼女の生い立ち含めて、です」
「ついにやったか……」
アルフレッドの顔から血の気が引いていく。
彼にとって、他国の王族を、それも国家の結界を破壊して奪うなどという行為は、正気の沙汰とは思えなかった。
「当然、あちらも必死に犯人を捜索しているはずです。現状、我が国の関与を示す証拠はすべて隠滅させましたが……いずれ少女の存在が露見すれば、国交に深刻な亀裂が入る、あるいは最悪の場合、戦争へと発展する可能性も否定できません」
アルヴィーノはそこまで言うと、漆黒の軍服の襟を軽く正し、他人事のように薄く微笑んだ。
「これは、我が国の外交および『内政』に関わる重大な問題です。王たる貴方がどう落とし所をつけるか、手腕の見せ所ですね。私は軍政の専念を誓っておりますので、この件に関してはすべて、陛下にお任せいたします」
「……アルヴィーノ、お前というやつは……!」
アルフレッドは猛烈な眩暈を覚え、思わず両手で頭を抱え込んだ。
代理国王の時のやらかし、南方のバカンスでの天災騒ぎ、そして終わりのない書類整理の地獄。
それらを乗り越え、ようやく平穏が戻ってきたと思った矢先に、今度は実の息子が、弟の知略を吸収して他国から姫を強奪してくるという特大の難題。
胃のあたりが、かつてないほどにキリキリと痛み出す。
「いくらレオが望んだこととはいえ、裏で手引きをして、ここまでやらせるなんて……! やり過ぎだ、いくら何でも限度というものがあるだろう!」
「私は、彼に最善の戦略を教えただけですよ。それを完璧に遂行してみせたのは、他ならぬ貴方の息子です」
どこまでも冷徹に、突き放すような言葉を返す弟。
これ以上この男と話していても、溜まっていくストレスで内臓が悲鳴を上げるだけだと悟り、アルフレッドは深く、重い溜息をついた。
「……もういい。この件の後処理は僕がどうにかする。だが、これ以上の介入は絶対に許さないからね」
アルフレッドは椅子から立ち上がると、頭痛を堪えるように眉間を押さえながら、足早に執務室を出た。
向かうのは、愛する息子が眠る医療室だ。
残されたアルヴィーノは、兄の哀れな後ろ姿を見送りながら、くく、と喉を鳴らして昏い愉悦の笑みを浮かべるのだった。
静謐な空気が満ちる医療室。
差し込む柔らかな光の中に、未だ目覚めぬレオが横たわっていた。その端正な横顔は酷く青白く、呼吸だけが静かに部屋の静寂を刻んでいる。
そのベッドの傍ら。
小さな椅子に腰掛け、レオの大きな手を両手でそっと握りしめている少女がいた。
リリィは、一瞬たりとも目を離したくないと言わんばかりに、赤い瞳でレオを見つめ続けていた。
自身の衰弱も残っているはずなのに、自分をあの地獄から、あの最悪の枷から救い出してくれた少年のことだけが、今の彼女の世界のすべてだった。
(レオ様……どうか、目を覚ましてください……)
そのとき、部屋の重い扉が静かに開いた。
入ってきたのは、アルフレッドだった。
見慣れぬ、しかし一目で高貴だと分かる人物の登場に、リリィの身体が跳ねるように強張る。
「あ……」
幽閉生活で培われた恐怖心が、彼女を咄嗟に動かした。
リリィは小さな身体を丸め、ベッドの影へと隠れるようにして身を潜める。
しかし、あまりに小柄で不慣れなその行動は、アルフレッドの側からはその細い肩やドレスの裾が完全に丸見えだった。
アルフレッドは、かつて非道な研究所で心を閉ざしていたルミの姿を思い出し、胸を痛めるように表情を和らげた。
彼はそれ以上近づかず、その場に立ち止まって、包み込むような温かい声をかける。
「――怯えなくていいよ、リリィさん。君を傷つけるような真似は、この国の誰も決してしない。ゆっくりでいいから、まずは身体を休めておくれ」
現王としての威厳を湛えつつも、彼が放つ慈愛の気配は、リリィの警戒心を少しずつ解いていく。
リリィはベッドの影から、恐る恐る赤色の瞳を覗かせた。
彼女が落ち着いたのを見届け、アルフレッドは静かな足取りで息子の枕元へと歩み寄った。
数日ぶりに見る我が子の顔は、自分がよく知る「光の王子」のそれではなく、どこか酷薄で、どこか狂気的な執念の色を帯びているように見えた。
「……はぁ」
アルフレッドは、心の底から重く、深い溜息を溢れさせた。
思わず額を押さえ、執務室での弟との会話を思い出す。
「……全く、よりによって、なんであいつに似てしまったんだか……。僕に似て朗らかに育ってくれれば、こんな無茶な強奪作戦なんて立てずに、もっと平和的な対話での解決を模索できたというのに……」
「魔王」の智力を吸収し、他国の結界を破壊してまで欲しいものを独占する。
その歪んだ行動原理は、どう見ても弟の血筋そのものだった。
胃の痛みが再発しそうな感覚に耐えながらも、アルフレッドは眠る息子の額に、そっと大きな手を当てた。
「だが……よく無事で戻ってきてくれた、レオ」
どれほど手段が狂っていようとも、目の前で眠る少年は、自身の大切な息子に変わりはなかった。
アルフレッドは父親としての優しい眼差しでレオの髪をそっと撫で、その痛々しくも誇らしげな寝顔を、ただ静かに見守り続けるのだった。
その間、レイストール王宮の最深部にある一室で、アルヴィーノは新王アルフレッドと対峙していた。
机を挟んで向き合う兄弟の空気は、静かだが重苦しい。
アルヴィーノは至極淡々とした手つきで、一束の極秘報告書をアルフレッドの前へと滑らせた。
「レオの容態ですが、数日眠り続けてはいるものの、先ほど命の危機は脱したと医療班から報告がありました。魔力の過剰消費と極度の肉体疲労によるものです。しばらくすれば目を覚ますでしょう」
「そうか……。まずは無事だったんだね」
アルフレッドは深く安堵の息を漏らしたが、その表情はすぐに強張った。
目の前に置かれた報告書の、あまりに不穏な中身に視線を落としたからだ。
「さて、ここからが本題です、陛下」
アルヴィーノは細く切れ長の深い紫色の瞳を冷酷に細め、淡々と、しかし容赦のない事実を突きつける。
「彼が命懸けで連れ帰ったあの少女について、私が調べ上げたすべてをここに記してあります。以前兄上に渡したものから詳細に調べ上げたものになります。彼女の生い立ち含めて、です」
「ついにやったか……」
アルフレッドの顔から血の気が引いていく。
彼にとって、他国の王族を、それも国家の結界を破壊して奪うなどという行為は、正気の沙汰とは思えなかった。
「当然、あちらも必死に犯人を捜索しているはずです。現状、我が国の関与を示す証拠はすべて隠滅させましたが……いずれ少女の存在が露見すれば、国交に深刻な亀裂が入る、あるいは最悪の場合、戦争へと発展する可能性も否定できません」
アルヴィーノはそこまで言うと、漆黒の軍服の襟を軽く正し、他人事のように薄く微笑んだ。
「これは、我が国の外交および『内政』に関わる重大な問題です。王たる貴方がどう落とし所をつけるか、手腕の見せ所ですね。私は軍政の専念を誓っておりますので、この件に関してはすべて、陛下にお任せいたします」
「……アルヴィーノ、お前というやつは……!」
アルフレッドは猛烈な眩暈を覚え、思わず両手で頭を抱え込んだ。
代理国王の時のやらかし、南方のバカンスでの天災騒ぎ、そして終わりのない書類整理の地獄。
それらを乗り越え、ようやく平穏が戻ってきたと思った矢先に、今度は実の息子が、弟の知略を吸収して他国から姫を強奪してくるという特大の難題。
胃のあたりが、かつてないほどにキリキリと痛み出す。
「いくらレオが望んだこととはいえ、裏で手引きをして、ここまでやらせるなんて……! やり過ぎだ、いくら何でも限度というものがあるだろう!」
「私は、彼に最善の戦略を教えただけですよ。それを完璧に遂行してみせたのは、他ならぬ貴方の息子です」
どこまでも冷徹に、突き放すような言葉を返す弟。
これ以上この男と話していても、溜まっていくストレスで内臓が悲鳴を上げるだけだと悟り、アルフレッドは深く、重い溜息をついた。
「……もういい。この件の後処理は僕がどうにかする。だが、これ以上の介入は絶対に許さないからね」
アルフレッドは椅子から立ち上がると、頭痛を堪えるように眉間を押さえながら、足早に執務室を出た。
向かうのは、愛する息子が眠る医療室だ。
残されたアルヴィーノは、兄の哀れな後ろ姿を見送りながら、くく、と喉を鳴らして昏い愉悦の笑みを浮かべるのだった。
静謐な空気が満ちる医療室。
差し込む柔らかな光の中に、未だ目覚めぬレオが横たわっていた。その端正な横顔は酷く青白く、呼吸だけが静かに部屋の静寂を刻んでいる。
そのベッドの傍ら。
小さな椅子に腰掛け、レオの大きな手を両手でそっと握りしめている少女がいた。
リリィは、一瞬たりとも目を離したくないと言わんばかりに、赤い瞳でレオを見つめ続けていた。
自身の衰弱も残っているはずなのに、自分をあの地獄から、あの最悪の枷から救い出してくれた少年のことだけが、今の彼女の世界のすべてだった。
(レオ様……どうか、目を覚ましてください……)
そのとき、部屋の重い扉が静かに開いた。
入ってきたのは、アルフレッドだった。
見慣れぬ、しかし一目で高貴だと分かる人物の登場に、リリィの身体が跳ねるように強張る。
「あ……」
幽閉生活で培われた恐怖心が、彼女を咄嗟に動かした。
リリィは小さな身体を丸め、ベッドの影へと隠れるようにして身を潜める。
しかし、あまりに小柄で不慣れなその行動は、アルフレッドの側からはその細い肩やドレスの裾が完全に丸見えだった。
アルフレッドは、かつて非道な研究所で心を閉ざしていたルミの姿を思い出し、胸を痛めるように表情を和らげた。
彼はそれ以上近づかず、その場に立ち止まって、包み込むような温かい声をかける。
「――怯えなくていいよ、リリィさん。君を傷つけるような真似は、この国の誰も決してしない。ゆっくりでいいから、まずは身体を休めておくれ」
現王としての威厳を湛えつつも、彼が放つ慈愛の気配は、リリィの警戒心を少しずつ解いていく。
リリィはベッドの影から、恐る恐る赤色の瞳を覗かせた。
彼女が落ち着いたのを見届け、アルフレッドは静かな足取りで息子の枕元へと歩み寄った。
数日ぶりに見る我が子の顔は、自分がよく知る「光の王子」のそれではなく、どこか酷薄で、どこか狂気的な執念の色を帯びているように見えた。
「……はぁ」
アルフレッドは、心の底から重く、深い溜息を溢れさせた。
思わず額を押さえ、執務室での弟との会話を思い出す。
「……全く、よりによって、なんであいつに似てしまったんだか……。僕に似て朗らかに育ってくれれば、こんな無茶な強奪作戦なんて立てずに、もっと平和的な対話での解決を模索できたというのに……」
「魔王」の智力を吸収し、他国の結界を破壊してまで欲しいものを独占する。
その歪んだ行動原理は、どう見ても弟の血筋そのものだった。
胃の痛みが再発しそうな感覚に耐えながらも、アルフレッドは眠る息子の額に、そっと大きな手を当てた。
「だが……よく無事で戻ってきてくれた、レオ」
どれほど手段が狂っていようとも、目の前で眠る少年は、自身の大切な息子に変わりはなかった。
アルフレッドは父親としての優しい眼差しでレオの髪をそっと撫で、その痛々しくも誇らしげな寝顔を、ただ静かに見守り続けるのだった。