凍てつく姫に、春を告ぐ-蒼き獅子の騎士譚-
翌日。
重厚なマホガニーの扉が開き、東方公国からの帰還を終えたアルヴィーノが国王執務室へと足を踏み入れた。
旅塵を微塵も感じさせない、隙のない漆黒の軍服。
紫髪の間から覗く切れ長の紫瞳は、底知れない冷徹さを湛えている。
彼の斜め後ろには、紺色の従者服を完璧に着こなしたルミが、影のように控えていた。
水色の長い髪を揺らし、公の場にふさわしい、一点の隙もない従者としての拝礼を捧げる。
「ただいま帰還いたしました、陛下」
アルヴィーノの声音は、冷たく、そして酷く平坦だった。
執務机の後ろに座るアルフレッドは、酷く疲弊した面持ちで、目の下に濃い隈を刻んでいる。
彼は机の上の書類から目を離し、弟とその従者を見つめた。
「ああ、おかえり、アルヴィーノ、ルミくん。……すまないが、ルミくんは少し席を外して、別室で控えていてくれないかい? 彼には、少々私的な話をせねばならない」
ルミは一瞬、不思議そうに水色の瞳を瞬かせたが、すぐに深く頭を下げた。
「かしこまりました、陛下。……失礼いたします」
ルミの気配が部屋から完全に消え、重い扉が閉まる音が響く。
その瞬間、室内の空気が一変した。
公的な調和は消え去り、そこにあるのは王と軍師、そして血を分けた兄弟としての、張り詰めた緊張感だけだった。
「……随分と酷い顔ですね、兄上」
アルヴィーノが、自ら進んで室内の長椅子に腰を下ろしながら、冷ややかな声をかけた。
趣味のチェスを指す時のように、退屈そうに、だが確実に相手の動向を観察する視線。
「昨日、レオが動いた」
アルフレッドの重苦しい一言に、アルヴィーノは眉一つ動かさなかった。
まるで、最初からその結末を知っていたかのように、ただ静かに紫の瞳を細める。
「地下回廊で、近衛に包囲させた。君の遠征中に偽の王命を発行し、補給路を抑え、君を孤立させた上で……ルミくんを自身の領地へ幽閉しようとしていた」
「浅はかですね」
吐き捨てられた言葉は、あまりにも容赦がなかった。
甥に対する情など、この「慈悲なき軍師」には一片も存在しない。
「子供の付け焼き刃の知略など、本物の王権の前では児戯に等しい。そんなことは、私や貴方が一番よく知っているはずです。よくぞ事前に摘み取ってくださいました、陛下」
「私は、君に褒められたくて話しているんじゃない!」
アルフレッドが痛切な声を上げ、机を強く叩いた。
その金髪が揺れ、碧眼には親としての苦悩と、弟への憤りが混ざり合っている。
「レオは、君のようになろうとしている。否、君の歪んだ部分だけを吸収して、怪物になろうとしているんだ。……ルミくんへの、異常なまでの執着。あれは、かつて君がルミくんに向けていた視線と、全く同じだ」
「……」
「私が諭して、彼は一度は納得したように見えた。だが、あの目の奥の光は消えていなかった。アルヴィーノ、君がわざとレオの前でルミくんを独占し、挑発し続けた結果がこれだ。これ以上、レオを刺激するのはやめてくれ。私は、息子を闇に落としたくない」
アルフレッドの悲痛な訴えを、アルヴィーノは冷徹な沈黙で受け止めていた。
やがて、軍服の袖口を静かに整えながら、アルヴィーノは立ち上がる。
その全身から、かつて多くの戦場を血で染め、のちに「魔王」と称されることになる男の、圧倒的な覇気が立ち上った。
「兄上。貴方は優しすぎる。だから、本質が見えていないんですよ」
「何だと……?」
「彼は、納得などしていませんよ。貴方の『光の中で生きろ』という言葉を、都合よく反転させ、さらに深く、暗い泥の中へ潜っただけだ」
アルヴィーノはゆっくりと歩を進め、アルフレッドの執務机の前で立ち止まった。
見下ろす紫の瞳には、一切の慈悲がない。
「ルミは私の伴侶だ。魂の根底から、命の行く末まで、すべてが私のものだ。あの小僧がどれほど蜘蛛の糸を張ろうとも、その中心にいる私という存在を排除しない限り、ルミが彼を『男』として見ることは万に一つもない。――そして、彼もまた、そのことに気づき始めている」
アルフレッドの顔から、血の気が引いていく。
「まさか、レオが、君を……?」
「仕掛けてくるなら、いつでも相手になりましょう。知略であれ、魔術であれ、我が血肉を分けた甥に、本物の『絶望』というものを骨の髄まで教えてやるまでです」
アルヴィーノの唇が、酷薄な弧を描いた。
それは、実の甥を、いつでも「駒」として叩き潰す準備があるという、冷酷非情な軍師の宣戦布告だった。
「ですが、兄上。一つだけ忠告しておきます。……もし、彼の伸ばした手が、僅かでもルミの髪一筋に触れ、彼を怯えさせるようなことがあれば」
低く、地を這うような声音が、室内の温度を氷点下へと叩き落とす。
「その時は、この国の次期国王の座が、血で染まることになりますよ」
アルフレッドは言葉を失い、ただ弟の放つ圧倒的な威圧感に圧せられるしかなかった。
アルヴィーノはそれ以上何も語らず、踵を返して執務室を後にした。
扉の外では、主の帰りを待っていたルミが、嬉しそうに駆け寄ってくるのが見えた。アルヴィーノの冷酷な仮面が、その瞬間だけ、僅かに融解する。
しかし、その光り輝く主従の、そして伴侶たちの背後には、未だ払われぬ濃密な闇が、じっと息を潜めて彼らを凝視しているのだった。
重厚なマホガニーの扉が開き、東方公国からの帰還を終えたアルヴィーノが国王執務室へと足を踏み入れた。
旅塵を微塵も感じさせない、隙のない漆黒の軍服。
紫髪の間から覗く切れ長の紫瞳は、底知れない冷徹さを湛えている。
彼の斜め後ろには、紺色の従者服を完璧に着こなしたルミが、影のように控えていた。
水色の長い髪を揺らし、公の場にふさわしい、一点の隙もない従者としての拝礼を捧げる。
「ただいま帰還いたしました、陛下」
アルヴィーノの声音は、冷たく、そして酷く平坦だった。
執務机の後ろに座るアルフレッドは、酷く疲弊した面持ちで、目の下に濃い隈を刻んでいる。
彼は机の上の書類から目を離し、弟とその従者を見つめた。
「ああ、おかえり、アルヴィーノ、ルミくん。……すまないが、ルミくんは少し席を外して、別室で控えていてくれないかい? 彼には、少々私的な話をせねばならない」
ルミは一瞬、不思議そうに水色の瞳を瞬かせたが、すぐに深く頭を下げた。
「かしこまりました、陛下。……失礼いたします」
ルミの気配が部屋から完全に消え、重い扉が閉まる音が響く。
その瞬間、室内の空気が一変した。
公的な調和は消え去り、そこにあるのは王と軍師、そして血を分けた兄弟としての、張り詰めた緊張感だけだった。
「……随分と酷い顔ですね、兄上」
アルヴィーノが、自ら進んで室内の長椅子に腰を下ろしながら、冷ややかな声をかけた。
趣味のチェスを指す時のように、退屈そうに、だが確実に相手の動向を観察する視線。
「昨日、レオが動いた」
アルフレッドの重苦しい一言に、アルヴィーノは眉一つ動かさなかった。
まるで、最初からその結末を知っていたかのように、ただ静かに紫の瞳を細める。
「地下回廊で、近衛に包囲させた。君の遠征中に偽の王命を発行し、補給路を抑え、君を孤立させた上で……ルミくんを自身の領地へ幽閉しようとしていた」
「浅はかですね」
吐き捨てられた言葉は、あまりにも容赦がなかった。
甥に対する情など、この「慈悲なき軍師」には一片も存在しない。
「子供の付け焼き刃の知略など、本物の王権の前では児戯に等しい。そんなことは、私や貴方が一番よく知っているはずです。よくぞ事前に摘み取ってくださいました、陛下」
「私は、君に褒められたくて話しているんじゃない!」
アルフレッドが痛切な声を上げ、机を強く叩いた。
その金髪が揺れ、碧眼には親としての苦悩と、弟への憤りが混ざり合っている。
「レオは、君のようになろうとしている。否、君の歪んだ部分だけを吸収して、怪物になろうとしているんだ。……ルミくんへの、異常なまでの執着。あれは、かつて君がルミくんに向けていた視線と、全く同じだ」
「……」
「私が諭して、彼は一度は納得したように見えた。だが、あの目の奥の光は消えていなかった。アルヴィーノ、君がわざとレオの前でルミくんを独占し、挑発し続けた結果がこれだ。これ以上、レオを刺激するのはやめてくれ。私は、息子を闇に落としたくない」
アルフレッドの悲痛な訴えを、アルヴィーノは冷徹な沈黙で受け止めていた。
やがて、軍服の袖口を静かに整えながら、アルヴィーノは立ち上がる。
その全身から、かつて多くの戦場を血で染め、のちに「魔王」と称されることになる男の、圧倒的な覇気が立ち上った。
「兄上。貴方は優しすぎる。だから、本質が見えていないんですよ」
「何だと……?」
「彼は、納得などしていませんよ。貴方の『光の中で生きろ』という言葉を、都合よく反転させ、さらに深く、暗い泥の中へ潜っただけだ」
アルヴィーノはゆっくりと歩を進め、アルフレッドの執務机の前で立ち止まった。
見下ろす紫の瞳には、一切の慈悲がない。
「ルミは私の伴侶だ。魂の根底から、命の行く末まで、すべてが私のものだ。あの小僧がどれほど蜘蛛の糸を張ろうとも、その中心にいる私という存在を排除しない限り、ルミが彼を『男』として見ることは万に一つもない。――そして、彼もまた、そのことに気づき始めている」
アルフレッドの顔から、血の気が引いていく。
「まさか、レオが、君を……?」
「仕掛けてくるなら、いつでも相手になりましょう。知略であれ、魔術であれ、我が血肉を分けた甥に、本物の『絶望』というものを骨の髄まで教えてやるまでです」
アルヴィーノの唇が、酷薄な弧を描いた。
それは、実の甥を、いつでも「駒」として叩き潰す準備があるという、冷酷非情な軍師の宣戦布告だった。
「ですが、兄上。一つだけ忠告しておきます。……もし、彼の伸ばした手が、僅かでもルミの髪一筋に触れ、彼を怯えさせるようなことがあれば」
低く、地を這うような声音が、室内の温度を氷点下へと叩き落とす。
「その時は、この国の次期国王の座が、血で染まることになりますよ」
アルフレッドは言葉を失い、ただ弟の放つ圧倒的な威圧感に圧せられるしかなかった。
アルヴィーノはそれ以上何も語らず、踵を返して執務室を後にした。
扉の外では、主の帰りを待っていたルミが、嬉しそうに駆け寄ってくるのが見えた。アルヴィーノの冷酷な仮面が、その瞬間だけ、僅かに融解する。
しかし、その光り輝く主従の、そして伴侶たちの背後には、未だ払われぬ濃密な闇が、じっと息を潜めて彼らを凝視しているのだった。