記憶の檻に世界で一番甘い初恋を-7日ごとに貴方に恋する-
それからのルミは、文字通り一生懸命に「秘書」としての仕事に励んだ。
絶対記憶を持つルミにとって、文字や数字を覚えることは呼吸をするよりも容易い。
しかし、身につけた知識を現実の「技術」として手先に反映させるのは、また別の話だった。
最初ということもあり、失敗は少なくなかった。
指定された85℃という温度をきっちりと守ろうとするものの、カップを温め忘れて出す頃にはぬるくなってしまったり、逆に焦るあまり沸騰直後のお湯を注いで熱すぎたり。
トレイを持つ手が緊張で細かく震え、ソーサーをカチカチと鳴らしてしまうことも日常茶飯事だった。
「あ……ご、ごめんなさい! 淹れ直します……っ!」
コーヒーをデスクに置いた瞬間、温度の失敗に気づいたルミは、みるみるうちに顔を青ざめさせて身体を強張らせた。
かつての悪徳企業であれば、この程度の不手際でも容赦のない罵声が飛び、書類を投げつけられていた。
その恐怖が条件反射として身体に染み付いているルミは、ぎゅっと目を瞑り、次に訪れるであろう「痛み」に備えて身構える。
けれど――いくら待っても、冷酷な怒声も、衝撃も降ってはこなかった。
代わりに聞こえてきたのは、衣擦れの微かな音と、トレイの上に残されたコーヒーカップが静かに持ち上げられる気配だけだった。
「……少し、温度が低いですね」
アルヴィーノはそう短く口にしただけで、何事もなかったかのようにぬるいコーヒーに口を付けた。
その完璧に整った端正な横顔には、怒りも、苛立ちも、一辺倒の感情すら浮かんでいない。
「あ、の……怒ら、ないんですか……?」
恐る恐る目を開けたルミが、縋るように見上げる。
「なぜ私が怒る必要があるのですか」
アルヴィーノはカップをソーサーに戻すと、怯えるルミを真っ直ぐに見つめた。その紫の瞳にあるのは、絶対的な冷静さと、そしてルミを支配する者としての奇妙なまでの寛容さだった。
「あの歪んだ大人たちと私を一緒にするな、と言ったはずです。私はあなたの所有権を持つ者であり、あなたをすり潰して消費するだけの無能な組織とは違う。失敗したなら、次は正しく修正すればいい。それだけのことです」
ルミを縛り付け、ボロボロになるまで追い詰めていたかつての監視者たちとは、根本から違っていた。
アルヴィーノはルミの能力だけを求めているのではない。
この無菌室のような執務室で、ルミという存在そのものを、自らの管理下に完璧に置き続けることこそが彼の目的だった。
「次は、カップをあらかじめ温めておくといいでしょう。それに淹れ直す必要はありません。今の私には、この温度がちょうどいい」
「アルヴィーノさん……」
怒られない安堵と、失敗さえも静かに受け入れ、自分を導いてくれる主人の絶対的な包容力。
ルミは胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じながら、まだ少し不格好な白いフリルの袖を握りしめ、次こそは完璧なコーヒーを淹れようと、その冷徹な主人の姿をカメラアイの奥へと深く焼き付けるのだった。
午後。
執務室の窓から差し込む陽光が、心なしか和らいだ黄金色へと変わり始める頃。
ルミは指示書にあった通り、室内の瑞々しい観葉植物たちへコップ一杯ずつの水やりを丁寧に終えた。
これで、今日与えられた数少ない「仕事」はすべて完了したことになる。
ルミは仕立てられたばかりの白いロリータ服の裾を綺麗に整え、執務室の隅に置かれた大きな革張りのソファへと静かに腰掛けた。
(……次は、何をしたらいいんだろう)
膝の上で小さく手を組み、じっとアルヴィーノの後ろ姿を見つめる。
けれど、待てども、待てども、デスクに鎮座する若きCEOから次の指示が下される気配は一向になかった。
アルヴィーノはただ、冷徹なまでに洗練された横顔で、目の前のマルチディスプレイと手元の極秘資料に向かい合い続けている。
広大で、無菌室のように静まり返った空間。
そこに響くのは、心地よい規則正しさを持った環境音だけだった。
カタカタ、とアルヴィーノが流れるような指捌きでキーボードを叩く音。
サラリ、と上質な紙をめくる微かな音。
時折、万年筆が滑らかな曲線を描いてサインを走らせる、低く掠れた音。
かつてルミがいた場所では、静寂といえば「次の暴力や罵声が降ってくる前触れ」でしかなく、常に心臓が千切れそうなほどの緊張を強いられていた。
だが、この部屋の静けさは、それとは根本から違っていた。
アルヴィーノが作り出すその音のすべてが、ルミを脅かすもののない安全な世界へと、深く深く閉じ込めていくような、奇妙な平穏に満ちている。
お昼を食べ終えてからそれほど時間が経っていないことも、災いした。
ふかふかのソファの心地よい弾力に身体が沈み込む。
(だめ、お仕事中、なのに……。次の指示が、いつきてもいいように、ちゃんと……)
そう思って必死に目を見開こうとするものの、こみ上げてくる強烈な睡魔には抗えなかった。
頭が痛くならない、怯えなくていい温かな空間。
アルヴィーノが刻む静かな作業音は、まるで極上の子守唄のようにルミの意識を優しく揺らす。
次第に視界がかすみ、網膜の裏で常にせわしなく明滅していた絶対記憶のレンズが、ゆっくりとシャッターを閉じるようにして覆われていく。
「……あ……う……」
小さな寝息が漏れる。
ルミの首が、こくり、と頼りなく傾いた。
純白のレースに包まれた身体の力が完全に抜け、深い眠りの心地よい泥濘へと、その身を預けてしまうのは一瞬のことだった。
執務室の静寂を破るように、ソファの方から衣擦れの微かな音と、規則正しい小さな寝息が聞こえてきた。
アルヴィーノはキーボードを叩いていた長い指を止め、静かに顔を上げた。
冷徹な紫の瞳が室内の隅へと向けられる。
視線の先には、純白のレースとフリルのドレスに身を包んだまま、眠気に抗えずソファに倒れ込んでしまったルミの姿があった。
ぶかぶかだったリクルートスーツの時とは違い、誂えたお洋服に包まれた小さな身体は、驚くほどふかふかのクッションに深く沈み込んでいる。
すやすやと無防備な寝息を立てるその表情には、あの悪徳企業で張り付いていたような恐怖も、網膜を酷使する頭痛の気配も一切ない。
「……やっと、寝ましたか」
アルヴィーノの薄い唇から、誰に聞かせるでもない、酷く低く穏やかな呟きが漏れた。
いつも張り詰めていた少年の神経が、ようやくこの部屋を安全な場所だと認識した証拠だった。
アルヴィーノはデスクの椅子から音もなく立ち上がると、自らが身に纏っていた上質な仕立てのチャコールグレーのジャケットを脱いだ。
長い足で静かにソファへと歩み寄り、眠る少年の上に、自身のジャケットをそっと、壊れ物を扱うような手つきで掛けた。
大人の男性のジャケットはルミの身体をすっぽりと覆い隠し、まるで毛布のようだった。
そこからわずかに覗く水色の髪が、アルヴィーノの体温と、彼が愛用している微かな香水の香りに包まれて、安心したようにさらに深く沈んでいく。
アルヴィーノはその寝顔を、昏く、深い独占欲を孕んだ瞳でしばらく見つめていた。
この絶対記憶という呪いを持つ少年は、一度見たものを決して忘れない。ならば、その清らかな網膜の裏を、自分という存在と、自分が与える安寧だけで埋め尽くしてしまえばいい。
他の一切の悪意を近づけず、この無菌室のような鳥籠の中で、一生自分だけを見つめさせればいいのだと。
「おやすみなさい、ルミ。ここでは、何一つ恐れる必要はありません」
触れるか触れないかの距離でその前髪をそっと払うと、アルヴィーノは再び冷徹なCEOの顔に戻り、音もなくデスクへと戻った。
まだ片付けるべき書類は山ほどある。
この少年を縛る理不尽な世界を、二度と近づかないよう完膚なきまでに叩き潰すための仕事が。
静まり返った執務室に、再び、ルミを優しく守るような規則正しい打鍵音が響き始めた。
絶対記憶を持つルミにとって、文字や数字を覚えることは呼吸をするよりも容易い。
しかし、身につけた知識を現実の「技術」として手先に反映させるのは、また別の話だった。
最初ということもあり、失敗は少なくなかった。
指定された85℃という温度をきっちりと守ろうとするものの、カップを温め忘れて出す頃にはぬるくなってしまったり、逆に焦るあまり沸騰直後のお湯を注いで熱すぎたり。
トレイを持つ手が緊張で細かく震え、ソーサーをカチカチと鳴らしてしまうことも日常茶飯事だった。
「あ……ご、ごめんなさい! 淹れ直します……っ!」
コーヒーをデスクに置いた瞬間、温度の失敗に気づいたルミは、みるみるうちに顔を青ざめさせて身体を強張らせた。
かつての悪徳企業であれば、この程度の不手際でも容赦のない罵声が飛び、書類を投げつけられていた。
その恐怖が条件反射として身体に染み付いているルミは、ぎゅっと目を瞑り、次に訪れるであろう「痛み」に備えて身構える。
けれど――いくら待っても、冷酷な怒声も、衝撃も降ってはこなかった。
代わりに聞こえてきたのは、衣擦れの微かな音と、トレイの上に残されたコーヒーカップが静かに持ち上げられる気配だけだった。
「……少し、温度が低いですね」
アルヴィーノはそう短く口にしただけで、何事もなかったかのようにぬるいコーヒーに口を付けた。
その完璧に整った端正な横顔には、怒りも、苛立ちも、一辺倒の感情すら浮かんでいない。
「あ、の……怒ら、ないんですか……?」
恐る恐る目を開けたルミが、縋るように見上げる。
「なぜ私が怒る必要があるのですか」
アルヴィーノはカップをソーサーに戻すと、怯えるルミを真っ直ぐに見つめた。その紫の瞳にあるのは、絶対的な冷静さと、そしてルミを支配する者としての奇妙なまでの寛容さだった。
「あの歪んだ大人たちと私を一緒にするな、と言ったはずです。私はあなたの所有権を持つ者であり、あなたをすり潰して消費するだけの無能な組織とは違う。失敗したなら、次は正しく修正すればいい。それだけのことです」
ルミを縛り付け、ボロボロになるまで追い詰めていたかつての監視者たちとは、根本から違っていた。
アルヴィーノはルミの能力だけを求めているのではない。
この無菌室のような執務室で、ルミという存在そのものを、自らの管理下に完璧に置き続けることこそが彼の目的だった。
「次は、カップをあらかじめ温めておくといいでしょう。それに淹れ直す必要はありません。今の私には、この温度がちょうどいい」
「アルヴィーノさん……」
怒られない安堵と、失敗さえも静かに受け入れ、自分を導いてくれる主人の絶対的な包容力。
ルミは胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じながら、まだ少し不格好な白いフリルの袖を握りしめ、次こそは完璧なコーヒーを淹れようと、その冷徹な主人の姿をカメラアイの奥へと深く焼き付けるのだった。
午後。
執務室の窓から差し込む陽光が、心なしか和らいだ黄金色へと変わり始める頃。
ルミは指示書にあった通り、室内の瑞々しい観葉植物たちへコップ一杯ずつの水やりを丁寧に終えた。
これで、今日与えられた数少ない「仕事」はすべて完了したことになる。
ルミは仕立てられたばかりの白いロリータ服の裾を綺麗に整え、執務室の隅に置かれた大きな革張りのソファへと静かに腰掛けた。
(……次は、何をしたらいいんだろう)
膝の上で小さく手を組み、じっとアルヴィーノの後ろ姿を見つめる。
けれど、待てども、待てども、デスクに鎮座する若きCEOから次の指示が下される気配は一向になかった。
アルヴィーノはただ、冷徹なまでに洗練された横顔で、目の前のマルチディスプレイと手元の極秘資料に向かい合い続けている。
広大で、無菌室のように静まり返った空間。
そこに響くのは、心地よい規則正しさを持った環境音だけだった。
カタカタ、とアルヴィーノが流れるような指捌きでキーボードを叩く音。
サラリ、と上質な紙をめくる微かな音。
時折、万年筆が滑らかな曲線を描いてサインを走らせる、低く掠れた音。
かつてルミがいた場所では、静寂といえば「次の暴力や罵声が降ってくる前触れ」でしかなく、常に心臓が千切れそうなほどの緊張を強いられていた。
だが、この部屋の静けさは、それとは根本から違っていた。
アルヴィーノが作り出すその音のすべてが、ルミを脅かすもののない安全な世界へと、深く深く閉じ込めていくような、奇妙な平穏に満ちている。
お昼を食べ終えてからそれほど時間が経っていないことも、災いした。
ふかふかのソファの心地よい弾力に身体が沈み込む。
(だめ、お仕事中、なのに……。次の指示が、いつきてもいいように、ちゃんと……)
そう思って必死に目を見開こうとするものの、こみ上げてくる強烈な睡魔には抗えなかった。
頭が痛くならない、怯えなくていい温かな空間。
アルヴィーノが刻む静かな作業音は、まるで極上の子守唄のようにルミの意識を優しく揺らす。
次第に視界がかすみ、網膜の裏で常にせわしなく明滅していた絶対記憶のレンズが、ゆっくりとシャッターを閉じるようにして覆われていく。
「……あ……う……」
小さな寝息が漏れる。
ルミの首が、こくり、と頼りなく傾いた。
純白のレースに包まれた身体の力が完全に抜け、深い眠りの心地よい泥濘へと、その身を預けてしまうのは一瞬のことだった。
執務室の静寂を破るように、ソファの方から衣擦れの微かな音と、規則正しい小さな寝息が聞こえてきた。
アルヴィーノはキーボードを叩いていた長い指を止め、静かに顔を上げた。
冷徹な紫の瞳が室内の隅へと向けられる。
視線の先には、純白のレースとフリルのドレスに身を包んだまま、眠気に抗えずソファに倒れ込んでしまったルミの姿があった。
ぶかぶかだったリクルートスーツの時とは違い、誂えたお洋服に包まれた小さな身体は、驚くほどふかふかのクッションに深く沈み込んでいる。
すやすやと無防備な寝息を立てるその表情には、あの悪徳企業で張り付いていたような恐怖も、網膜を酷使する頭痛の気配も一切ない。
「……やっと、寝ましたか」
アルヴィーノの薄い唇から、誰に聞かせるでもない、酷く低く穏やかな呟きが漏れた。
いつも張り詰めていた少年の神経が、ようやくこの部屋を安全な場所だと認識した証拠だった。
アルヴィーノはデスクの椅子から音もなく立ち上がると、自らが身に纏っていた上質な仕立てのチャコールグレーのジャケットを脱いだ。
長い足で静かにソファへと歩み寄り、眠る少年の上に、自身のジャケットをそっと、壊れ物を扱うような手つきで掛けた。
大人の男性のジャケットはルミの身体をすっぽりと覆い隠し、まるで毛布のようだった。
そこからわずかに覗く水色の髪が、アルヴィーノの体温と、彼が愛用している微かな香水の香りに包まれて、安心したようにさらに深く沈んでいく。
アルヴィーノはその寝顔を、昏く、深い独占欲を孕んだ瞳でしばらく見つめていた。
この絶対記憶という呪いを持つ少年は、一度見たものを決して忘れない。ならば、その清らかな網膜の裏を、自分という存在と、自分が与える安寧だけで埋め尽くしてしまえばいい。
他の一切の悪意を近づけず、この無菌室のような鳥籠の中で、一生自分だけを見つめさせればいいのだと。
「おやすみなさい、ルミ。ここでは、何一つ恐れる必要はありません」
触れるか触れないかの距離でその前髪をそっと払うと、アルヴィーノは再び冷徹なCEOの顔に戻り、音もなくデスクへと戻った。
まだ片付けるべき書類は山ほどある。
この少年を縛る理不尽な世界を、二度と近づかないよう完膚なきまでに叩き潰すための仕事が。
静まり返った執務室に、再び、ルミを優しく守るような規則正しい打鍵音が響き始めた。