記憶の檻に世界で一番甘い初恋を-7日ごとに貴方に恋する-

数日後。レイストール・ホールディングスの最高経営責任者室は、張り詰めたような静寂に包まれていた。
窓の外に広がる都心の高層ビル群を背に、アルヴィーノはデスクに優美な仕立ての書類を置いた。
それは、彼が直々に作成させた、ルミのための「秘書の業務指示書」だった。

「ルミ。今日からあなたに、私の秘書としての仕事を教えます。まずはこれに目を通しなさい」
「……はい」

白いフリル袖を小さく揺らしながら、ルミは差し出された書類を両手で受け取った。
かつて悪徳企業で、過呼吸になるほどの恐怖と共に渡されていたあの泥濘のような書類とは、紙の質からしてまるで違う。
上質な紙の手触りに指先を震わせながら、ルミはカメラアイ――絶対記憶の能力を静かに起動させ、その内容を網膜に焼き付けていった。
しかし、視線を滑らせるルミの表情が、次第に困惑へと変わっていく。
そこに並んでいたのは、ルミが想像していたものとはあまりにもかけ離れた、簡素極まる内容だった。

午前:CEOの出勤時に、指定の温度(85℃)に淹れたコーヒーをデスクに用意すること。
午後:オフィス内の観葉植物への適量(コップ1杯)の水やり。
終日:アルヴィーノの指示があるまで、執務室内の専用ソファにて待機(読書・休息を推奨)。

「あ、あの……アルヴィーノさん……?」

ルミは書類を持ったまま、戸惑いと隠しきれない不安に満ちた瞳で、デスクの向こうの冷徹な主人を見上げた。

「これ……本当に、これだけでいいんですか……?」

かつては、他人の戸籍や裏金のデータを数分で全て覚えさせられ、少しでも淀めば罵声を浴びせられる日々だった。
脳が焼き切れるような頭痛に耐えながら、ボロボロになるまで情報を詰め込まれるのが、ルミにとっての「仕事」だったのだ。
それなのに、ここにあるのは、秘書というよりもただアルヴィーノの傍に佇んでいるだけの、あまりにも優しすぎる「おままごと」のような内容だった。

「……こんなことで、本当にいいの……? 俺、もっと、前のところみたいに、たくさん書類を覚えられます。頭が痛くなっても、我慢できるから……だから、もっと役に立つことを……っ」

捨てられるかもしれない、という根深い恐怖が頭をもたげ、ルミの声が震え始める。
必死に己の価値を証明しようと縋るようなその瑞々しい瞳を、アルヴィーノは酷く冷徹に、しかし独占欲に満ちた深い紫の瞳で見つめ返した。

「その程度で、何の問題もありません」

アルヴィーノは表情ひとつ変えず、冷徹な、けれど有無を言わせぬ絶対的な響きを持った声でそう告げた。
デスクに軽く肘を突き、組んだ指先の上に端正な顎を乗せて、怯えるルミを真っ直ぐに見据える。

「私の実務の大半は、システムによる自動化と、私自身の処理で完結しています。レイストール・ホールディングスのCEOの椅子は、他人の手を借りなければ回らないほど脆弱なものではありません。基本的には、私一人でどうにでもできるのです」

傲慢とも取れる言葉だったが、アルヴィーノが口にすると、それは揺るぎのない事実として空間を支配した。
彼は視線を少しだけ和らげ、机の上の書類を指先でトントンと叩く。

「まずは、そこに書かれている基本的な業務を完璧にこなしてください。あなたがここの環境に慣れ、体調や精神面を含めて問題ないと私が判断できれば、将来的に記憶力を必要とする実務を任せることもあるかもしれない。ですが――」

アルヴィーノは一度言葉を区切り、立ち上がった。
ルミのすぐ目の前まで音もなく歩み寄ると、少年の細い肩に大きな手をそっと置き、静かに圧をかけるようにして目線を合わせる。

「今のところは、そこに書いてあることだけをしていればいい。それ以上は一切、望んでいません。私の言葉に、何か不服でもありますか?」
「あ……ううん、ない、です……」

冷徹でありながらも、自分をこれ以上すり減らさせまいとする強烈な保護欲と支配欲が、その紫の瞳の奥から伝わってくる。
ルミは、アルヴィーノの「今はそれだけでいい」という言葉の裏にある、不器用な優しさと、自分を完全に囲い込もうとする意志を本能的に感じ取っていた。
前の場所のように、役に立たなければ捨てられるわけではない。
むしろ、何もしないで傍にいることこそが、この男の望みなのだと。

「……わかりました。アルヴィーノさんの言う通りにします。俺、まずはコーヒーの淹れ方、一生懸命覚えるね」

まだ少し不安を残しながらも、ルミはこくりと頷き、差し出された白い指示書を大切そうに胸に抱きしめた。
その素直な姿を見つめながら、アルヴィーノの唇の端が、誰にも気づかれないほど僅かに、満足そうに吊り上がった。
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