記憶の檻に世界で一番甘い初恋を-7日ごとに貴方に恋する-
白銀の『総集編』が作られてから、さらに数え切れないほどの「1週間」が過ぎ去った。
ルミは毎週、目覚めるたびにその本を開き、何百回、何千回とページをめくり、その水色の瞳(カメラアイ)に過去の記憶を焼き付け続けてきた。朝だけでなく、日中も、夜眠る前も、不安になるたびに何度も、何度も読み返してきたのだ。
しかし、その健気で必死な行動が、残酷な結果を招いてしまう。
ある「7日目の朝」。
やはり頭の中が真っ白な状態で目覚めたルミは、いつものように枕元にある白銀の本へと手を伸ばした。
だが、その本はもう、かつての美しさを失っていた。何度もルミの小さな手に握られ、涙に濡れ、めくられ続けたせいで、表紙の白銀の革はボロボロに擦り切れ、ページは波打って今にも破れそうになっていた。
「……あ、れ……?」
ルミは震える指先でページをめくる。
しかし、目に飛び込んできた光景に、ルミの身体はカチリと凍りついた。
(よめ、ない……っ)
ルミの優秀なカメラアイは、かすれた文字をそのまま「かすれた情報」として認識してしまう。
長年の摩擦のせいで、インクが薄くなり、多くの文字が完全に擦り切れてしまっていたのだ。
過去の自分が、一番最初に見るようにと赤ペンで囲んでくれたはずの場所。
『困ったことがあれば、すぐにア……ヴィ……さんに相談すること!』
一番大切な、自分が誰の隣にいるべきなのかを示した言葉。
『あなたは世界で一番愛されている、ア………ノのお嫁さんです』
「ア……? だ、れ……? おれは、だれのお嫁さん、なの……?」
肝心な名前の部分が擦れて、掠れて、どうしても読み取れない。
いつもなら本を開けば、ものの数分で「アルヴィーノ」という絶対的な存在を思い出し、温かい安心感に包まれるはずだった。なのに、今のルミの頭の中に広がるのは、名前も分からない「誰か」への、底なしの恐怖と孤独だけ。
本をめくっても、めくっても、
『□□□□さんは、おれにプリンをくれました』
『□□□□さんは、おれをぎゅってしてくれます』
大好きなはずの人の名前が、すべて真っ白な空白になって、ルミの脳を侵食していく。
「わからない……っ、思い出せないよぉ……っ!!」
自分が誰なのか、誰に愛されているのか、どこへ行けばいいのか、何もかもが霧の彼方に消えてしまった。
過去の自分がこれほど「大好き」だと叫んでいる相手の名前が、どうしても分からない。
ルミはボロボロになった総集編を小さな胸に強く、強く抱きしめ、ベッドの上で膝を抱えて、小さな身体をガタガタと震わせた。
「ひぐっ……、う、あぁぁん……っ! たすけて……たすけて、だれか……っ!」
大きな水色の瞳から、大粒の涙がボロボロと溢れ出し、擦り切れた白銀の表紙をさらに濡らしていく。
記憶が明日へ繋がらないルミにとって、この本だけが唯一の世界との、愛する人との命綱だった。
それが切れてしまった今、ルミは再び、あの暗い闇の底へと一人きりで突き落とされたような絶望に駆られ、ただ声を上げて泣きじゃくることしかできなかった。
その悲痛な泣き声が、静まり返った邸宅の廊下へと、寂しく響き渡っていく。
「――ルミ!?」
悲痛な叫び声が響いた瞬間、主寝室の重厚なドアが激しく弾け飛ぶようにして開いた。
飛び込んできたのは、息を荒らげ、紫の瞳にこれ以上ないほどの焦燥と恐れを浮かべたアルヴィーノだった。朝の執務中にルミの泣き声を聞きつけ、万事を投げ打って駆けつけたのだ。
しかし、ベッドの上で涙に濡れるルミの元へ一歩踏み出した瞬間、ルミはビクッと小さな身体を大きく跳ね上がらせた。
「ひっ……! だ、だれ……!? こ、こないで……っ!」
ルミはボロボロの白い本を胸に抱きしめたまま、怯えた瞳でアルヴィーノを見つめ、ベッドの隅へとさらに後ずさる。
その水色の瞳には、いつもなら一瞬で宿るはずの「大好きな旦那様への甘い熱」が、どこを探しても見当たらなかった。
あるのは、見知らぬ巨大な男に向けられた、圧倒的な困惑と、底なしの恐怖だけ。
「ルミ、私です……アルヴィーノですよ。どうしてそんなに泣いているのですか」
アルヴィーノは心臓を素手で握りつぶされたような衝撃を覚えながらも、ルミを刺激しないよう、床に膝をついて目線を下げ、限界まで声を震わせながら優しい手を伸ばした。
けれど、今のルミには「アルヴィーノ」という名前すら、頭の中で迷子になった不確かな記号でしかなかった。
「わからない……っ、わからないの……っ! あなた、だぁれ……? ここはどこ、なの……? おれ、はお嫁さん、なのに……誰の、お嫁さんなのか、なんにも……っ!」
「ルミ……」
「頭が真っ白で……いつもなら、これを見れば、すぐに分かったのに……っ!」
ルミは泣きじゃくりながら、胸に抱きしめていたあの白銀の『総集編』を、縋るようにアルヴィーノの方へと両手で突き出した。
その本は、ルミの涙と手汗でさらにボロボロに波打ち、無残に擦り切れている。
「読めないの……っ! お名前のところが、かすれて、真っ白で……なんて書いてあるのか、おれの『目』でも、読めないのぉ……っ!!」
ルミの悲痛な叫びが、部屋中に虚しくこだまする。
アルヴィーノは差し出された本を受け取り、そのページに目を落とした。
『あなたは世界で一番愛されている、ア□□□□□のお嫁さんです』
文字通り、何度も何度もルミが読み返し、なぞり続けたせいで、自分の名前も、ルミへのメッセージも、インクが完全に擦り切れて消失していた。
ルミの壊れた脳を救うための魔法の道具が、ルミの必死な愛の重さによって、自ら壊れてしまっていたのだ。
「あ、あぁ……」
目の前で、小さな手を顔に当ててボロボロと涙を流し、「助けて」と泣き叫ぶ無垢な少年。
知識としての道標すら失い、本当の意味で迷子になってしまった我が子を前にして、アルヴィーノの胸に、かつてないほどの激しい痛恨と、狂おしいほどの愛おしさが同時に渦巻いた。
(私が甘かった……。ノートをただ1冊の本にまとめただけで、満足していたとは……っ!)
アルヴィーノは本をサイドテーブルに置くと、拒絶される恐怖など微塵も恐れず、ベッドの上のルミをその強靭な腕で一気に引き寄せ、壊れんばかりに強く、激しく抱きしめた。
「いや……っ、はなして……っ!」
「離しません、絶対に離さない……! ルミ、よく聞きなさい。本が読めなくても構わない。お前の頭がどれほど真っ白になろうとも、この私が、今ここで、何度でもお前に真実を刻み込んでやります!」
暴れるルミの細い背中を大きな手で包み込み、その水色の髪に、涙の伝う頬に、狂おしいほどの口づけを何度も、何度も、激しく落としていく。
「お前はルミ。そして私はアルヴィーノ。お前がその本の中で必死に探していた、お前を世界で一番愛している、お前の本物の旦那様だ……っ!!」
泣き叫ぶルミの耳元で、アルヴィーノは自らの魂を削り出すように、最も熱く、最も確かな愛の言葉を叫び続ける。本が壊れたのなら、自分の声で、体温で、もう一度ルミの心を一から支配し直すだけ。
閉ざされた楽園のベッドの上で、迷子になったお嫁さんと、彼を何度でも捕まえ直す魔王の、切なくも激しい「始まりの朝」が、再び幕を開けようとしていた。
ルミは毎週、目覚めるたびにその本を開き、何百回、何千回とページをめくり、その水色の瞳(カメラアイ)に過去の記憶を焼き付け続けてきた。朝だけでなく、日中も、夜眠る前も、不安になるたびに何度も、何度も読み返してきたのだ。
しかし、その健気で必死な行動が、残酷な結果を招いてしまう。
ある「7日目の朝」。
やはり頭の中が真っ白な状態で目覚めたルミは、いつものように枕元にある白銀の本へと手を伸ばした。
だが、その本はもう、かつての美しさを失っていた。何度もルミの小さな手に握られ、涙に濡れ、めくられ続けたせいで、表紙の白銀の革はボロボロに擦り切れ、ページは波打って今にも破れそうになっていた。
「……あ、れ……?」
ルミは震える指先でページをめくる。
しかし、目に飛び込んできた光景に、ルミの身体はカチリと凍りついた。
(よめ、ない……っ)
ルミの優秀なカメラアイは、かすれた文字をそのまま「かすれた情報」として認識してしまう。
長年の摩擦のせいで、インクが薄くなり、多くの文字が完全に擦り切れてしまっていたのだ。
過去の自分が、一番最初に見るようにと赤ペンで囲んでくれたはずの場所。
『困ったことがあれば、すぐにア……ヴィ……さんに相談すること!』
一番大切な、自分が誰の隣にいるべきなのかを示した言葉。
『あなたは世界で一番愛されている、ア………ノのお嫁さんです』
「ア……? だ、れ……? おれは、だれのお嫁さん、なの……?」
肝心な名前の部分が擦れて、掠れて、どうしても読み取れない。
いつもなら本を開けば、ものの数分で「アルヴィーノ」という絶対的な存在を思い出し、温かい安心感に包まれるはずだった。なのに、今のルミの頭の中に広がるのは、名前も分からない「誰か」への、底なしの恐怖と孤独だけ。
本をめくっても、めくっても、
『□□□□さんは、おれにプリンをくれました』
『□□□□さんは、おれをぎゅってしてくれます』
大好きなはずの人の名前が、すべて真っ白な空白になって、ルミの脳を侵食していく。
「わからない……っ、思い出せないよぉ……っ!!」
自分が誰なのか、誰に愛されているのか、どこへ行けばいいのか、何もかもが霧の彼方に消えてしまった。
過去の自分がこれほど「大好き」だと叫んでいる相手の名前が、どうしても分からない。
ルミはボロボロになった総集編を小さな胸に強く、強く抱きしめ、ベッドの上で膝を抱えて、小さな身体をガタガタと震わせた。
「ひぐっ……、う、あぁぁん……っ! たすけて……たすけて、だれか……っ!」
大きな水色の瞳から、大粒の涙がボロボロと溢れ出し、擦り切れた白銀の表紙をさらに濡らしていく。
記憶が明日へ繋がらないルミにとって、この本だけが唯一の世界との、愛する人との命綱だった。
それが切れてしまった今、ルミは再び、あの暗い闇の底へと一人きりで突き落とされたような絶望に駆られ、ただ声を上げて泣きじゃくることしかできなかった。
その悲痛な泣き声が、静まり返った邸宅の廊下へと、寂しく響き渡っていく。
「――ルミ!?」
悲痛な叫び声が響いた瞬間、主寝室の重厚なドアが激しく弾け飛ぶようにして開いた。
飛び込んできたのは、息を荒らげ、紫の瞳にこれ以上ないほどの焦燥と恐れを浮かべたアルヴィーノだった。朝の執務中にルミの泣き声を聞きつけ、万事を投げ打って駆けつけたのだ。
しかし、ベッドの上で涙に濡れるルミの元へ一歩踏み出した瞬間、ルミはビクッと小さな身体を大きく跳ね上がらせた。
「ひっ……! だ、だれ……!? こ、こないで……っ!」
ルミはボロボロの白い本を胸に抱きしめたまま、怯えた瞳でアルヴィーノを見つめ、ベッドの隅へとさらに後ずさる。
その水色の瞳には、いつもなら一瞬で宿るはずの「大好きな旦那様への甘い熱」が、どこを探しても見当たらなかった。
あるのは、見知らぬ巨大な男に向けられた、圧倒的な困惑と、底なしの恐怖だけ。
「ルミ、私です……アルヴィーノですよ。どうしてそんなに泣いているのですか」
アルヴィーノは心臓を素手で握りつぶされたような衝撃を覚えながらも、ルミを刺激しないよう、床に膝をついて目線を下げ、限界まで声を震わせながら優しい手を伸ばした。
けれど、今のルミには「アルヴィーノ」という名前すら、頭の中で迷子になった不確かな記号でしかなかった。
「わからない……っ、わからないの……っ! あなた、だぁれ……? ここはどこ、なの……? おれ、はお嫁さん、なのに……誰の、お嫁さんなのか、なんにも……っ!」
「ルミ……」
「頭が真っ白で……いつもなら、これを見れば、すぐに分かったのに……っ!」
ルミは泣きじゃくりながら、胸に抱きしめていたあの白銀の『総集編』を、縋るようにアルヴィーノの方へと両手で突き出した。
その本は、ルミの涙と手汗でさらにボロボロに波打ち、無残に擦り切れている。
「読めないの……っ! お名前のところが、かすれて、真っ白で……なんて書いてあるのか、おれの『目』でも、読めないのぉ……っ!!」
ルミの悲痛な叫びが、部屋中に虚しくこだまする。
アルヴィーノは差し出された本を受け取り、そのページに目を落とした。
『あなたは世界で一番愛されている、ア□□□□□のお嫁さんです』
文字通り、何度も何度もルミが読み返し、なぞり続けたせいで、自分の名前も、ルミへのメッセージも、インクが完全に擦り切れて消失していた。
ルミの壊れた脳を救うための魔法の道具が、ルミの必死な愛の重さによって、自ら壊れてしまっていたのだ。
「あ、あぁ……」
目の前で、小さな手を顔に当ててボロボロと涙を流し、「助けて」と泣き叫ぶ無垢な少年。
知識としての道標すら失い、本当の意味で迷子になってしまった我が子を前にして、アルヴィーノの胸に、かつてないほどの激しい痛恨と、狂おしいほどの愛おしさが同時に渦巻いた。
(私が甘かった……。ノートをただ1冊の本にまとめただけで、満足していたとは……っ!)
アルヴィーノは本をサイドテーブルに置くと、拒絶される恐怖など微塵も恐れず、ベッドの上のルミをその強靭な腕で一気に引き寄せ、壊れんばかりに強く、激しく抱きしめた。
「いや……っ、はなして……っ!」
「離しません、絶対に離さない……! ルミ、よく聞きなさい。本が読めなくても構わない。お前の頭がどれほど真っ白になろうとも、この私が、今ここで、何度でもお前に真実を刻み込んでやります!」
暴れるルミの細い背中を大きな手で包み込み、その水色の髪に、涙の伝う頬に、狂おしいほどの口づけを何度も、何度も、激しく落としていく。
「お前はルミ。そして私はアルヴィーノ。お前がその本の中で必死に探していた、お前を世界で一番愛している、お前の本物の旦那様だ……っ!!」
泣き叫ぶルミの耳元で、アルヴィーノは自らの魂を削り出すように、最も熱く、最も確かな愛の言葉を叫び続ける。本が壊れたのなら、自分の声で、体温で、もう一度ルミの心を一から支配し直すだけ。
閉ざされた楽園のベッドの上で、迷子になったお嫁さんと、彼を何度でも捕まえ直す魔王の、切なくも激しい「始まりの朝」が、再び幕を開けようとしていた。