記憶の檻に世界で一番甘い初恋を-7日ごとに貴方に恋する-
それから、さらに穏やかな時が流れた。
別荘の広い庭の木々は青々と茂り、ルミの真っ白な頭の中は、今やアルヴィーノが毎日注ぎ込む甘い愛と、お嫁さんとして覚えた日常の幸せなデータだけで完全に満たされていた。かつてのような発作が起きる兆候すら、もうどこにもない。
そんな、ある初夏の昼下がりのことだった。
静かな邸宅に、見慣れない、けれどひどく重厚な高級車の音が響いた。
書斎のリモートワーク画面を閉じたアルヴィーノは、膝の上で無邪気にハタキを持っていたルミをそっと床に降ろすと、その 柔らかな髪を優しく撫で回した。
「ルミ。これから、少し騒がしい客人が来ます。お前は私の寝室で、大好きなプリンでも食べて、大人しく待っていなさい」
「おきゃくさま……? うん、わかった。俺、お部屋でいい子にしてるね」
ルミは素直に頷くと、トコトコと廊下を歩いて寝室へと向かった。アルヴィーノはその後ろ姿を見届け、完全にドアが閉まったのを確認してから、冷徹な支配者の顔に戻って応接室へと向かう。そこには、すでに本社の仕事を放り出して駆けつけていたアルフレッドの姿もあった。
訪れたのは、二人よりも一回りほど年上の、厳格なオーラをまとった男女――レイストール一族の本家を総べる、彼らの「伯父と伯母」だった。
重苦しい沈黙の後、応接室から、年の高い男の低く威圧的な声が廊下まで漏れ聞こえてきた。寝室のベッドにちょこんと座り、スプーンをくわえていたルミの耳にも、その緊迫した空気が微かに届く。
『――アルフレッド、それにアルヴィーノ。お前たち二人はいったい、いつになったら身を固めるつもりなんだ。レイストールの血脈を繋ぐ義務が、我が一族のトップであるお前たちにはある』
伯父の容赦のない叱責だった。
政略結婚や一族の繁栄を第一に考える古い人間たちにとって、若くして富と権力を握りながら、浮いた噂一つ流さないこの優秀な兄弟の現状は、到底看過できないものだったのだ。特に対外的な CEO 業を一人で引き受けているアルフレッドへの圧力は相当なものだった。
『まったく。いい加減に身の振る舞いを決めてもらわねば、こちらで相応しい名門の令嬢をいつでも手配する用意があるのだぞ』
冷たく響く伯母の言葉。
寝室のルミは、その「身を固める」や「令嬢」という難しい言葉の意味を一生懸命に脳内で検索しようとして、小さな眉をひそめていた。よく分からないけれど、大好きなアルヴィーノが誰かに責められていることだけは伝わってきて、胸がぎゅっと苦くなる。
応接室の中では、アルフレッドがいつものように、わざとらしい軽い溜息をついて肩をすくめていた。
『いやあ、伯父上も伯母上も相変わらず気が早いね。僕だって毎日、本社の激務でそれどころじゃないんだよ。まあ、結婚なんてそのうち、ね? 良いご縁があれば流れるようにさ』
いつものようにヘラヘラとした笑顔で、のらりくらりと核心をはぐらかすアルフレッド。古い親族を相手に、これ以上面倒な火の粉を浴びないための彼なりの処世術だった。
しかし。
その隣に座る、もう一人の怪物は違った。
『兄上のように、無駄な問答で時間を引き延ばすつもりはありません』
会議室のすべての空気を絶対零度へと叩き落とすような、冷酷極まりないアルヴィーノの声。
アルヴィーノは切れ長の紫の瞳で伯父たちを傲然と見据えると、一切の迷いもなく、断固とした口調でこう言い放った。
『私には、すでに生涯を共にすると誓った相手がいます。身を固めるなどという生ぬるい言葉では足りない。私はその者のためだけに、この命も、レイストールの権力もすべて使うと決めている』
『なっ……なんだと!? いったいどこの名家の者だ! 聞いていないぞ!』
色めき立つ伯父たちを他所に、アルヴィーノの脳裏に浮かんでいるのは、寝室でお留守番をしている、真っ白で愛しい、世界でたった一人の「俺のお嫁さん」の姿だけだった。
一族の義務も、血脈の存続も、自分にとってはただの価値のない紙屑に等しい。
アルヴィーノのそのあまりにも絶対的で狂気的な断言に、隣のアルフレッドは(あーあ、完全に言っちゃったよ、この狂犬……)と、心の中で額を押さえて苦笑するしかなかった。
『――ならば、今すぐその相手をここに連れてきなさい! 会わせろ!』
伯父の怒号が、応接室の重厚な壁を震わせた。
レイストールの一族として、素性の知れない者を次期当主の伴侶として認めるわけにはいかない。その傲慢な義務感が、年長者たちの声をさらに鋭く荒れ狂わせる。
『そうだ、アルヴィーノ。お前がそこまで頑なに言うほどの相手だ、まさか一族に顔も見せられないような不届き者ではあるまいな?』
伯母の冷ややかな、値踏みするような視線がアルヴィーノに突き刺さる。
しかし、アルヴィーノの端正な顔には、動揺どころか、一切の感情が消え失せていた。ただ、その切れ長の紫の瞳の奥底に、彼らを今すぐこの世から消滅させてやろうという、昏く絶対的な「拒絶」の炎が灯る。
『断る。お前たちに、あの子の髪一根すら触れさせるつもりはない』
『何だと……っ!?』
『あの子は、この汚濁に満ちた世界から私が命がけで切り離した、唯一無二の至宝だ。お前たちのような、血脈だの利益だのという古臭い価値観しか持たぬ人間に、その純白を覗かせるなど、万死に値する侮辱だと思え』
激しい言葉のナイフが、容赦なく大人たちを切り裂く。
アルヴィーノの手元では、いつでも本社からすべての役員権限を剥奪し、この本家の老人たちを路頭に迷わせることができるハッキングコードの引き金に、すでに指がかけられていた。
応接室の空気は、まさに一触即発。今にも血の雨が降り出しかねない極限の緊張感に包まれる。
「――まあまあ、二人とも。伯父上も伯母上も、そこまでにしなよ」
その時、横からひらひらと手を振りながら、アルフレッドが二人の間に割って入った。いつもの軽薄な、けれど底知れない笑みを浮かべ、険悪すぎる空気を宥めるように肩をすくめる。
「アルヴィーノのこの性格は知ってるだろ? こいつが一度こうと決めたら、例え一族全員を敵に回して会社を叩き潰してでも、その『お嫁さん』を隠し通す男だよ。これ以上刺激したら、僕たちの明日の株価がどうなるか、分かったもんじゃない」
『アルフレッド! お前はいつもそうやって甘やかすから……っ』
「それにさ、」
アルフレッドはふっと声を落とし、どこか冷徹な、一族の「もう一人の支配者」としての鋭い瞳を伯父たちに向けた。
「僕だって、その可愛い義妹を、偏屈な大人に会わせたくないんだよね。あの子は、僕が買ってきたプリンを世界一美味しそうに食べる、この世で一番無垢な生き物なんだ。……もし、お前たちがその口で、あの子の真っ白な頭に一言でも余計な『義務』や『現実』を教え込もうとするなら――」
アルフレッドの唇が、歪に釣り上がる。
「その時は、アルヴィーノじゃなくて、僕が本気で怒っちゃうよ?」
いつもは味方であるはずの、現・最高経営責任者からの「笑顔の脅迫」。
アルフレッドのその言葉に、伯父たち一派は、この兄弟が二人揃って一人の『名もなき少年』のために、いつでもレイストール帝国という巨大な玩具を自ら壊す覚悟があることを、本能で察し、戦慄するしかなかった。
別荘の広い庭の木々は青々と茂り、ルミの真っ白な頭の中は、今やアルヴィーノが毎日注ぎ込む甘い愛と、お嫁さんとして覚えた日常の幸せなデータだけで完全に満たされていた。かつてのような発作が起きる兆候すら、もうどこにもない。
そんな、ある初夏の昼下がりのことだった。
静かな邸宅に、見慣れない、けれどひどく重厚な高級車の音が響いた。
書斎のリモートワーク画面を閉じたアルヴィーノは、膝の上で無邪気にハタキを持っていたルミをそっと床に降ろすと、その 柔らかな髪を優しく撫で回した。
「ルミ。これから、少し騒がしい客人が来ます。お前は私の寝室で、大好きなプリンでも食べて、大人しく待っていなさい」
「おきゃくさま……? うん、わかった。俺、お部屋でいい子にしてるね」
ルミは素直に頷くと、トコトコと廊下を歩いて寝室へと向かった。アルヴィーノはその後ろ姿を見届け、完全にドアが閉まったのを確認してから、冷徹な支配者の顔に戻って応接室へと向かう。そこには、すでに本社の仕事を放り出して駆けつけていたアルフレッドの姿もあった。
訪れたのは、二人よりも一回りほど年上の、厳格なオーラをまとった男女――レイストール一族の本家を総べる、彼らの「伯父と伯母」だった。
重苦しい沈黙の後、応接室から、年の高い男の低く威圧的な声が廊下まで漏れ聞こえてきた。寝室のベッドにちょこんと座り、スプーンをくわえていたルミの耳にも、その緊迫した空気が微かに届く。
『――アルフレッド、それにアルヴィーノ。お前たち二人はいったい、いつになったら身を固めるつもりなんだ。レイストールの血脈を繋ぐ義務が、我が一族のトップであるお前たちにはある』
伯父の容赦のない叱責だった。
政略結婚や一族の繁栄を第一に考える古い人間たちにとって、若くして富と権力を握りながら、浮いた噂一つ流さないこの優秀な兄弟の現状は、到底看過できないものだったのだ。特に対外的な CEO 業を一人で引き受けているアルフレッドへの圧力は相当なものだった。
『まったく。いい加減に身の振る舞いを決めてもらわねば、こちらで相応しい名門の令嬢をいつでも手配する用意があるのだぞ』
冷たく響く伯母の言葉。
寝室のルミは、その「身を固める」や「令嬢」という難しい言葉の意味を一生懸命に脳内で検索しようとして、小さな眉をひそめていた。よく分からないけれど、大好きなアルヴィーノが誰かに責められていることだけは伝わってきて、胸がぎゅっと苦くなる。
応接室の中では、アルフレッドがいつものように、わざとらしい軽い溜息をついて肩をすくめていた。
『いやあ、伯父上も伯母上も相変わらず気が早いね。僕だって毎日、本社の激務でそれどころじゃないんだよ。まあ、結婚なんてそのうち、ね? 良いご縁があれば流れるようにさ』
いつものようにヘラヘラとした笑顔で、のらりくらりと核心をはぐらかすアルフレッド。古い親族を相手に、これ以上面倒な火の粉を浴びないための彼なりの処世術だった。
しかし。
その隣に座る、もう一人の怪物は違った。
『兄上のように、無駄な問答で時間を引き延ばすつもりはありません』
会議室のすべての空気を絶対零度へと叩き落とすような、冷酷極まりないアルヴィーノの声。
アルヴィーノは切れ長の紫の瞳で伯父たちを傲然と見据えると、一切の迷いもなく、断固とした口調でこう言い放った。
『私には、すでに生涯を共にすると誓った相手がいます。身を固めるなどという生ぬるい言葉では足りない。私はその者のためだけに、この命も、レイストールの権力もすべて使うと決めている』
『なっ……なんだと!? いったいどこの名家の者だ! 聞いていないぞ!』
色めき立つ伯父たちを他所に、アルヴィーノの脳裏に浮かんでいるのは、寝室でお留守番をしている、真っ白で愛しい、世界でたった一人の「俺のお嫁さん」の姿だけだった。
一族の義務も、血脈の存続も、自分にとってはただの価値のない紙屑に等しい。
アルヴィーノのそのあまりにも絶対的で狂気的な断言に、隣のアルフレッドは(あーあ、完全に言っちゃったよ、この狂犬……)と、心の中で額を押さえて苦笑するしかなかった。
『――ならば、今すぐその相手をここに連れてきなさい! 会わせろ!』
伯父の怒号が、応接室の重厚な壁を震わせた。
レイストールの一族として、素性の知れない者を次期当主の伴侶として認めるわけにはいかない。その傲慢な義務感が、年長者たちの声をさらに鋭く荒れ狂わせる。
『そうだ、アルヴィーノ。お前がそこまで頑なに言うほどの相手だ、まさか一族に顔も見せられないような不届き者ではあるまいな?』
伯母の冷ややかな、値踏みするような視線がアルヴィーノに突き刺さる。
しかし、アルヴィーノの端正な顔には、動揺どころか、一切の感情が消え失せていた。ただ、その切れ長の紫の瞳の奥底に、彼らを今すぐこの世から消滅させてやろうという、昏く絶対的な「拒絶」の炎が灯る。
『断る。お前たちに、あの子の髪一根すら触れさせるつもりはない』
『何だと……っ!?』
『あの子は、この汚濁に満ちた世界から私が命がけで切り離した、唯一無二の至宝だ。お前たちのような、血脈だの利益だのという古臭い価値観しか持たぬ人間に、その純白を覗かせるなど、万死に値する侮辱だと思え』
激しい言葉のナイフが、容赦なく大人たちを切り裂く。
アルヴィーノの手元では、いつでも本社からすべての役員権限を剥奪し、この本家の老人たちを路頭に迷わせることができるハッキングコードの引き金に、すでに指がかけられていた。
応接室の空気は、まさに一触即発。今にも血の雨が降り出しかねない極限の緊張感に包まれる。
「――まあまあ、二人とも。伯父上も伯母上も、そこまでにしなよ」
その時、横からひらひらと手を振りながら、アルフレッドが二人の間に割って入った。いつもの軽薄な、けれど底知れない笑みを浮かべ、険悪すぎる空気を宥めるように肩をすくめる。
「アルヴィーノのこの性格は知ってるだろ? こいつが一度こうと決めたら、例え一族全員を敵に回して会社を叩き潰してでも、その『お嫁さん』を隠し通す男だよ。これ以上刺激したら、僕たちの明日の株価がどうなるか、分かったもんじゃない」
『アルフレッド! お前はいつもそうやって甘やかすから……っ』
「それにさ、」
アルフレッドはふっと声を落とし、どこか冷徹な、一族の「もう一人の支配者」としての鋭い瞳を伯父たちに向けた。
「僕だって、その可愛い義妹を、偏屈な大人に会わせたくないんだよね。あの子は、僕が買ってきたプリンを世界一美味しそうに食べる、この世で一番無垢な生き物なんだ。……もし、お前たちがその口で、あの子の真っ白な頭に一言でも余計な『義務』や『現実』を教え込もうとするなら――」
アルフレッドの唇が、歪に釣り上がる。
「その時は、アルヴィーノじゃなくて、僕が本気で怒っちゃうよ?」
いつもは味方であるはずの、現・最高経営責任者からの「笑顔の脅迫」。
アルフレッドのその言葉に、伯父たち一派は、この兄弟が二人揃って一人の『名もなき少年』のために、いつでもレイストール帝国という巨大な玩具を自ら壊す覚悟があることを、本能で察し、戦慄するしかなかった。