記憶の檻に世界で一番甘い初恋を-7日ごとに貴方に恋する-
書斎の空気は、吐き出す息すら凍りつきそうなほどに冷徹極まりなかった。
デスクに鎮座する三枚の大型モニターが、青白い無機質な光を放ち、アルヴィーノの端正な輪郭を冷酷に浮かび上がらせている。上着を脱ぎ捨て、高級なドレスシャツの袖を肘まで乱暴にまくり上げたその姿は、ビジネス界の頂点に君臨するCEOのそれではなく、ただ最愛の獲物を冒涜された魔王のそれだった。
「――愚鈍が」
アルヴィーノの薄い唇から、地獄の底で燻る焔のような、低く掠れた声が漏れる。
手元のキーボードを叩く硬質な音が、深夜の静寂を狂気的に切り裂いていく。
画面の奥で明滅しているのは、ルミがその水色の瞳に焼き付け、自らの脳を犠牲にしてまで暴き立てた、あの呪わしい文字列。反主流派の取締役たちが、アルヴィーノを完全に社会から失脚させるために仕掛けた、巧妙なハッキングプログラムの『バックドア』の全容だった。
ルミの「絶対記憶」が、激痛と引き換えに弾き出したその答えを、アルヴィーノの天才的な頭脳が一寸の狂いもなく逆探知の暗号へと変換していく。
(お前たちは、あの子の真っ白な頭の中に、またしても冷たい数字の泥水を注ぎ込んだ。……私が毎日、どれほどの愛を込めて、あの子を甘い幸福だけで満たそうとしていたかも知らずに)
思考の裏で燃え盛る怒りは、もはや熱を持たない。極限まで圧縮された殺意は、絶対零度の氷となってアルヴィーノの指先を動かしていた。
最初の一撃は、社内における反主流派の首謀者である、あの老取締役の個人資産へと向けられた。
アルヴィーノの指先が決定キーを叩くたび、画面上のグラフが恐ろしい速度で崩壊していく。男が長年、血の滲むような思いで不正に蓄財してきたスイスの隠し口座、複数のダミー会社を経由して洗浄していた数億ドルの資金ルートが、まるでドミノ倒しのように次々と遮断され、レイストール本社の管理下に強制凍結されていく。
「まずは、その汚い呼吸を支える生命線を断つ」
それだけでは終わらない。アルヴィーノは同時に、彼らが「アルヴィーノ失脚」の後に後ろ盾として頼るはずだった、国内外の有力政治家や、裏社会の闇物流組織との通信ログをすべて白日の下に晒した。
深夜2時。アルフレッド率いる国家権力の息がかかった特捜班が、都内の一等地にある老取締役の邸宅、そして彼に加担した役員たちの自宅へと一斉に突入を開始する。
彼らに与えられるのは、法的なフェアープレイではない。
「国家転覆に関わる重大なサイバーテロの容疑者」という、弁解の余地すら一切与えられない絶対的な罪状。地位も、名誉も、過去の功績も、すべてが漆黒の闇へと塗り潰されていく。明日の朝、彼らが目を覚ます頃には、彼らの名前は社会的な『死者』と同義になっているはずだった。
「兄上、進捗は」
アルヴィーノが冷たくインカムに問いかける。
『終わったよ、アルヴィーノ』
受話器の向こうから聞こえるアルフレッドの声にも、いつもの軽薄さは微塵もなかった。
『彼らの身内、親族が経営する関連企業、これまでに買い漁った資産に至るまで、すべてを差し押さえた。明日、市場が開くと同時に、彼らの息がかかった子会社は一斉に紙屑になる。……文字通り、戸籍以外に彼らを証明するものは何も残らない。もちろん、二度と日の光を浴びることもないよ』
「……当然だ。我が秘書の脳を汚した代償としては、これでもまだ生ぬるい」
『ルミくんのためなら、本当に世界を滅ぼしかねないね、お前は』
「世界など、あの子の涙一滴ほどの価値もありません」
冷酷に言い放ち、アルヴィーノは通話を切った。
最後の仕上げとして、ルミを脅かした全てのハッキングデータを、逆にその発信元へと数千倍の負荷をかけて送り返す。プログラムの暴走により、敵の拠点にあったすべてのサーバーサーバーが内部から物理的に焼き切れ、黒い煙を上げて沈黙した。
完全な圧殺。
ルミを道具として扱い、今またその能力を利用しようとした者たちは、社会の形跡ごと木っ端微塵にすり潰された。
---
すべての作業を終えた時、東の空が微かに白み始めていた。
アルヴィーノは深く息を吐き、椅子から立ち上がると、書斎を出て自らの寝室へと戻った。
ドアを静かに開けると、室内にはまだ、濃密な静寂と微かな香水の匂いが満ちている。
ベッドへ近づくと、ルミは先ほどよりもずっと穏やかな表情で、シルクのシーツに包まれて眠っていた。額の汗は引き、小さな唇からあの呪わしい数字の羅列が溢れることも、もうない。
アルヴィーノはベッドの縁に腰掛け、シーツから覗くルミの細い手首をそっと取った。
かつて鉄の手錠が嵌められていた場所を、自分の大きな掌で包み込み、体温を分け与えるように何度も擦る。
「ルミ……」
その名を呼ぶ声だけは、先ほどまで世界を破滅に導いていた男のものとは思えないほど、酷く優しく、そして狂おしいほどの情愛に満ちていた。
ゆっくりと目を向けたルミの水色の瞳が、微かに開く。長い睫毛が震え、まだ眠気の残る視線が、じっとアルヴィーノを捉えた。
「……ん……、アル、ヴィーノ、さん……?」
「ええ、私ですよ、ルミ。おはようございます」
ルミは小さく身をよじり、自らアルヴィーノの手のひらに頬を寄せてきた。その無防備で、自分を世界で一番信頼しきっている仕草。
「頭、痛いの……なくなっちゃった。あのね、夢を、みたの」
「どんな夢ですか?」
「アルヴィーノさんがね、真っ黒な悪いお化けを、ぜんぶ、やっつけてくれる夢……。だから俺、もう、こわくないの」
ルミのその無垢な言葉に、アルヴィーノの胸の奥底にある歪んだ独占欲が、歓喜の悲鳴を上げる。
何も知らなくていい。
自分がどれほどドス黒い手を血に染め、どれほどの人間を奈落へ突き落としたかなど、この青い鳥は一生知る必要はない。
「ええ、その通りです。悪いものは、私がすべてこの世から消し去りました。お前の頭の中には、もうそんなゴミは一つも残っていません」
アルヴィーノはベッドに身体を伏せ、ルミの小さな身体をシーツごと強く、深く抱きしめた。
ルミはその胸に顔を埋め、大好きな主人の香水の匂いをいっぱいに吸い込みながら、安心しきったようにふにゃりと微笑む。
「うん……。俺のあたま、今はね、アルヴィーノさんの声と……プリンの甘いのだけで、いっぱいだよ?」
「素晴らしい。それでいいのです。これからも、その綺麗な頭には、私との記憶だけを敷き詰めていきましょう」
記憶をすべて失い、自分の愛だけでしか生きられない人形となった少年。
そして、その少年を世界のすべてから隔離し、過剰なまでの狂気で一から飼い慣らしていく冷徹な男。
夜明けの光がカーテンの隙間から差し込む中、二人の歪で完璧な、新しい世界の朝が静かに始まろうとしていた。
デスクに鎮座する三枚の大型モニターが、青白い無機質な光を放ち、アルヴィーノの端正な輪郭を冷酷に浮かび上がらせている。上着を脱ぎ捨て、高級なドレスシャツの袖を肘まで乱暴にまくり上げたその姿は、ビジネス界の頂点に君臨するCEOのそれではなく、ただ最愛の獲物を冒涜された魔王のそれだった。
「――愚鈍が」
アルヴィーノの薄い唇から、地獄の底で燻る焔のような、低く掠れた声が漏れる。
手元のキーボードを叩く硬質な音が、深夜の静寂を狂気的に切り裂いていく。
画面の奥で明滅しているのは、ルミがその水色の瞳に焼き付け、自らの脳を犠牲にしてまで暴き立てた、あの呪わしい文字列。反主流派の取締役たちが、アルヴィーノを完全に社会から失脚させるために仕掛けた、巧妙なハッキングプログラムの『バックドア』の全容だった。
ルミの「絶対記憶」が、激痛と引き換えに弾き出したその答えを、アルヴィーノの天才的な頭脳が一寸の狂いもなく逆探知の暗号へと変換していく。
(お前たちは、あの子の真っ白な頭の中に、またしても冷たい数字の泥水を注ぎ込んだ。……私が毎日、どれほどの愛を込めて、あの子を甘い幸福だけで満たそうとしていたかも知らずに)
思考の裏で燃え盛る怒りは、もはや熱を持たない。極限まで圧縮された殺意は、絶対零度の氷となってアルヴィーノの指先を動かしていた。
最初の一撃は、社内における反主流派の首謀者である、あの老取締役の個人資産へと向けられた。
アルヴィーノの指先が決定キーを叩くたび、画面上のグラフが恐ろしい速度で崩壊していく。男が長年、血の滲むような思いで不正に蓄財してきたスイスの隠し口座、複数のダミー会社を経由して洗浄していた数億ドルの資金ルートが、まるでドミノ倒しのように次々と遮断され、レイストール本社の管理下に強制凍結されていく。
「まずは、その汚い呼吸を支える生命線を断つ」
それだけでは終わらない。アルヴィーノは同時に、彼らが「アルヴィーノ失脚」の後に後ろ盾として頼るはずだった、国内外の有力政治家や、裏社会の闇物流組織との通信ログをすべて白日の下に晒した。
深夜2時。アルフレッド率いる国家権力の息がかかった特捜班が、都内の一等地にある老取締役の邸宅、そして彼に加担した役員たちの自宅へと一斉に突入を開始する。
彼らに与えられるのは、法的なフェアープレイではない。
「国家転覆に関わる重大なサイバーテロの容疑者」という、弁解の余地すら一切与えられない絶対的な罪状。地位も、名誉も、過去の功績も、すべてが漆黒の闇へと塗り潰されていく。明日の朝、彼らが目を覚ます頃には、彼らの名前は社会的な『死者』と同義になっているはずだった。
「兄上、進捗は」
アルヴィーノが冷たくインカムに問いかける。
『終わったよ、アルヴィーノ』
受話器の向こうから聞こえるアルフレッドの声にも、いつもの軽薄さは微塵もなかった。
『彼らの身内、親族が経営する関連企業、これまでに買い漁った資産に至るまで、すべてを差し押さえた。明日、市場が開くと同時に、彼らの息がかかった子会社は一斉に紙屑になる。……文字通り、戸籍以外に彼らを証明するものは何も残らない。もちろん、二度と日の光を浴びることもないよ』
「……当然だ。我が秘書の脳を汚した代償としては、これでもまだ生ぬるい」
『ルミくんのためなら、本当に世界を滅ぼしかねないね、お前は』
「世界など、あの子の涙一滴ほどの価値もありません」
冷酷に言い放ち、アルヴィーノは通話を切った。
最後の仕上げとして、ルミを脅かした全てのハッキングデータを、逆にその発信元へと数千倍の負荷をかけて送り返す。プログラムの暴走により、敵の拠点にあったすべてのサーバーサーバーが内部から物理的に焼き切れ、黒い煙を上げて沈黙した。
完全な圧殺。
ルミを道具として扱い、今またその能力を利用しようとした者たちは、社会の形跡ごと木っ端微塵にすり潰された。
---
すべての作業を終えた時、東の空が微かに白み始めていた。
アルヴィーノは深く息を吐き、椅子から立ち上がると、書斎を出て自らの寝室へと戻った。
ドアを静かに開けると、室内にはまだ、濃密な静寂と微かな香水の匂いが満ちている。
ベッドへ近づくと、ルミは先ほどよりもずっと穏やかな表情で、シルクのシーツに包まれて眠っていた。額の汗は引き、小さな唇からあの呪わしい数字の羅列が溢れることも、もうない。
アルヴィーノはベッドの縁に腰掛け、シーツから覗くルミの細い手首をそっと取った。
かつて鉄の手錠が嵌められていた場所を、自分の大きな掌で包み込み、体温を分け与えるように何度も擦る。
「ルミ……」
その名を呼ぶ声だけは、先ほどまで世界を破滅に導いていた男のものとは思えないほど、酷く優しく、そして狂おしいほどの情愛に満ちていた。
ゆっくりと目を向けたルミの水色の瞳が、微かに開く。長い睫毛が震え、まだ眠気の残る視線が、じっとアルヴィーノを捉えた。
「……ん……、アル、ヴィーノ、さん……?」
「ええ、私ですよ、ルミ。おはようございます」
ルミは小さく身をよじり、自らアルヴィーノの手のひらに頬を寄せてきた。その無防備で、自分を世界で一番信頼しきっている仕草。
「頭、痛いの……なくなっちゃった。あのね、夢を、みたの」
「どんな夢ですか?」
「アルヴィーノさんがね、真っ黒な悪いお化けを、ぜんぶ、やっつけてくれる夢……。だから俺、もう、こわくないの」
ルミのその無垢な言葉に、アルヴィーノの胸の奥底にある歪んだ独占欲が、歓喜の悲鳴を上げる。
何も知らなくていい。
自分がどれほどドス黒い手を血に染め、どれほどの人間を奈落へ突き落としたかなど、この青い鳥は一生知る必要はない。
「ええ、その通りです。悪いものは、私がすべてこの世から消し去りました。お前の頭の中には、もうそんなゴミは一つも残っていません」
アルヴィーノはベッドに身体を伏せ、ルミの小さな身体をシーツごと強く、深く抱きしめた。
ルミはその胸に顔を埋め、大好きな主人の香水の匂いをいっぱいに吸い込みながら、安心しきったようにふにゃりと微笑む。
「うん……。俺のあたま、今はね、アルヴィーノさんの声と……プリンの甘いのだけで、いっぱいだよ?」
「素晴らしい。それでいいのです。これからも、その綺麗な頭には、私との記憶だけを敷き詰めていきましょう」
記憶をすべて失い、自分の愛だけでしか生きられない人形となった少年。
そして、その少年を世界のすべてから隔離し、過剰なまでの狂気で一から飼い慣らしていく冷徹な男。
夜明けの光がカーテンの隙間から差し込む中、二人の歪で完璧な、新しい世界の朝が静かに始まろうとしていた。