記憶の檻に世界で一番甘い初恋を-7日ごとに貴方に恋する-

ルミの「絶対記憶」という能力は、本人が過去を失い、どれほど純粋で無垢な子供に戻ろうとも、脳のシステムとしてあまりにも健全に、そして冷酷に機能し続けていた。

あの悪党の取締役に見せられた、数ページの禍々しい背任データ。
そしてそれより前、デスクの端からひらりと落ちたプリンのチラシを拾った時、その裏面や端に偶然印刷されていた、社内の極秘プロジェクトのマークや奇妙な数字の羅列。

ルミは「見ない」とアルヴィーノに約束したし、自分でも忘れたつもりでいた。
けれど、一度開かれた眼球が網膜の裏に焼き付けたデータは、ルミのあずかり知らぬ脳の引き出しに、一文字の狂いもなく完璧に保存されていたのだ。

そんな、ある日の午後。

アルヴィーノが急な内線対応のため、デスクをほんの数十秒だけ離れた時のことだった。
ルミは、アルヴィーノに「ここで待っていなさい」と言われたソファの上で、大人しく彼のお気に入りのクッションを抱きしめていた。けれど、ふと、デスクの上に置かれた大きなパソコンのモニターが目に入ってしまった。

いつもはルミが近づくと、アルヴィーノが素早く画面を隠すか、パスワードロックをかける。
けれどその時は、本当にわずかな油断だった。

モニターに映し出されていたのは、アルヴィーノが社内の反主流派を完全に炙り出し、一網打尽にするために構築していた、最高機密の「セキュリティ解除コード」と、監査用の「特殊なログ画面」だった。

「あ……」

ルミの水色の瞳が、無意識にその画面を捉える。

その瞬間、ルミの脳内で、眠っていたはずのジグソーパズルのピースが、凄まじい速度で火花を散らしながら噛み合い始めた。

男に見せられた捏造データ。
プリンのチラシの端にあった、奇妙な数字。
そして今、目の前のモニターに映し出されている暗号。

それらが脳内で一本の線に繋がった瞬間、ルミの頭の奥が、割れるようにズキリと痛んだ。

「これ……おじさんが、言ってた……コード、X、9、0……? でも、アルヴィーノさんの画面のは、ちがう……『アクセス、デナイド』、に、なっちゃう……?」

ルミはクッションを床に落とし、まるで吸い寄せられるようにトコトコとデスクへ歩み寄った。
小さな唇から、ルミ自身も意味の分からない専門用語や数字が、呪文のように滑り落ちる。

ルミの優秀な脳は、初期化されて真っ白になったはずのキャンバスの上で、アルヴィーノのパソコンに表示されているデータが「社内の誰かによって仕掛けられた、アルヴィーノをハッキングするための巧妙な罠(バックドア)」であることを見抜いてしまっていた。

このままアルヴィーノがこの画面で決定キーを押せば、逆にアルヴィーノの極秘データが、あの男たちの残党にすべて流出してしまう――。

「アルヴィーノさん……だめ、これ、あぶない、やつ……っ」

ルミの水色の瞳が、みるみるうちに恐怖と過負荷の涙で潤んでいく。
大好きな人を守りたいという本能が、ルミの小さな指を動かした。パソコンのキーボードに、おそるおそる細い指先を伸ばし――。

その時、背後から「ルミ!?」という、すべてを察したアルヴィーノの鋭い声が響いた。

「だめ……! アルヴィーノさん、これ、だめ……っ! だめなやつ、なの……っ!」

駆け寄ってきたアルヴィーノの高級なスリーピーススーツの裾を、ルミは小さな手で引きちぎらんばかりに強く握りしめ、必死に訴えかけた。

「ルミ!? 画面を見てはいけないと言ったはずだ、離れなさい!」

アルヴィーノが慌ててルミを抱き寄せ、画面を遮るようにその身体を自分の胸へと閉じ込める。しかし、すでにルミの網膜から脳内へと注ぎ込まれた情報の濁流は、止まることを知らなかった。

「う、あ……あぁぁっ……!!」

突如、ルミが短い悲鳴を上げて自分の頭を両手で抱え込んだ。
その小さな身体が激しく硬直したかと思えば、アルヴィーノの腕をすり抜けて床へと崩れ落ち、あまりの激痛にのたうち回り始める。

「頭が……あたまが、痛いよぉ……っ! 割れちゃう……なにか、いっぱい、入ってくる……!!」
「ルミ! ルミ!!」

冷徹なCEOの顔が、一瞬で恐怖に染まる。
ルミの水色の瞳は激しく左右に揺れ、薄い唇からは「コード、X、9、0……偽装ログ、書き換え……破滅、させちゃう……っ」と、ルミ自身の意志とは関係なく、脳が弾き出した危険信号がうわ言のように溢れ出していた。

なぜ、すべてを忘れたはずのルミが、再びこんな地獄のような苦しみを味わわなければならないのか。
床で泣き叫び、苦しむルミの身体を必死に抱き留めながら、アルヴィーノの超人染みた頭脳が、猛烈な速度で思考を巡らせ始めた。

(どうすればいい……! 医者を呼ぶか? いや、それでは間に合わない。ルミの脳は今、あの男の書類と、チラシの数字と、私の画面のコードを完全に結合してしまっている。なぜだ、なぜこの子は自ら進んで、こんな劇薬のようなデータを処理しようとした!?)

のたうち回るルミの、涙で濡れた顔を見る。
その水色の瞳が、激痛に耐えかねて白濁しそうになりながらも、必死にアルヴィーノの姿を捉えようとしていた。

――『アルヴィーノさん、だめ、これ、あぶない、やつ……っ』

その言葉が、アルヴィーノの脳内でリフレインする。
そこで、アルヴィーノは気づいたのだ。

これは、悪党たちの強制によるものではない。
ルミのこの異常な発作はすべて、「大好きなアルヴィーノを、自分のこの小さな身体と脳を使って、何が何でも守ろうとする」という、切実で、あまりにも健気な『防衛反応』なのだと。

自分を大切にしてくれる主人が傷つくのを見たくない。その純粋すぎる本能が、眠っていた「絶対記憶」の防衛システムを無理やり叩き起こし、アルヴィーノに仕掛けられた罠を身代わりとなって検知し、噛み砕こうとした結果なのだ。

(お前は、また……。自分の身を削ってまで、私を、守ろうというのですか……!)

心臓を直に素手で握り潰されるような、凄まじい後悔と、愛おしさと、狂気がアルヴィーノの全身を駆け巡る。
このままでは、ルミの脳は再び焼き切れ、今度こそ完全に壊れてしまうかもしれない。

どうすればルミを救える?
情報を忘れさせる? 否、この子の絶対記憶は、本人の意志で消去することなどできない。
ならば、どうする――。

思考の果て。
世界最高の天才投資家であり、ルミを狂信的に愛する男が出した答えは、あまりにも歪で、けれどこれ以上ないほど確実なものだった。

「――ルミ」

アルヴィーノはのたうち回るルミの小さな身体を、力任せに、けれど壊れ物を扱うように繊細に抱き上げた。そして、暴れるその両手を手繰り寄せ、自らの首元へと導く。

「アルヴィーノ……さ、ん……っ、いたい、痛いよぉ……!」
「分かっています、ルミ。お前の脳が、私を守るために戦っているのですね。……本当によく頑張りました。お前は、世界で一番、私の役に立つ優秀な秘書だ」

アルヴィーノは激しく流れるルミの涙を唇で吸い上げると、その耳元で、低く、酷く甘い声を響かせた。

「お前のその素晴らしい脳が、私のためにデータを処理し、答えを導き出したというのならその全てを、今すぐ私に委ねなさい」

アルヴィーノの答え。
それは、ルミに記憶を『忘れさせる』ことではなく、ルミが命がけで導き出したその『危険データ』ごと、ルミの全存在を自分の狂気的な愛で「完全に包み込み、同化する」ことだった。

「ルミ、お前が今見た数字を、私に口移しで全て吐き出しなさい。お前がハッキングを検知したなら、私がその通りに敵を全滅させます。お前の脳が痛むなら、その痛みをすべて、私のこの身体に預ければいい」

アルヴィーノはルミの薄い唇を、塞ぐように激しく、深く貪った。
言葉を奪い、数字を奪い、ルミの脳を支配する恐怖のデータを、自らの存在すべてで上書きしていくかのように。

「ん……む……っ、あ……」

唇が離れた時、ルミの瞳からすうっと激しい痛みの色が引いていった。
アルヴィーノの過剰なまでの熱と、自分を全肯定してくれる絶対的な言葉が、ルミの防衛システムを「安心」という名の抱擁で包み込み、強制終了させたのだ。

「もう大丈夫です、ルミ。お前のおかげで、私は助かりました。だから、その答えはもう、私の頭の中にだけあればいい」

ぐったりとアルヴィーノの胸に倒れ込むルミの頭を、男は何度も、何度も狂おしそうに撫で回す。

能力が消えないのなら、その能力がもたらす全ての毒を、自分が代わりに飲み干して飼い慣らすまで。
ルミが自分を守ろうとするたびに、自分はさらにその上を行く過保護と独占欲で、この少年を囲い込んでいく。

「……アル、ヴィーノ、さん……お役に……立てた、の……?」

「ええ、完璧です。私の愛しい、小さな英雄(ひしょ)」

腕の中で、今度こそ完全に安心しきって眠りにつくルミを見つめながら、アルヴィーノの紫の瞳には、罠を仕掛けた社内のネズミどもを今度こそ永遠に屠るための、冷酷極まりない光が灯るのだった。
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