記憶の檻に世界で一番甘い初恋を-7日ごとに貴方に恋する-

「もっと、お役に立ちたいな……」

アルヴィーノが会議のために席を外した最高経営責任者室で、ルミはポツリと呟いた。
記憶を失って以来、毎日アルヴィーノに抱きしめられ、「賢い」「優秀な秘書だ」と甘やかされている。
けれど、ルミの純粋な心の奥には、小さな焦燥感があった。お水を運んだり、プリンの名前を覚えたりするだけじゃなくて、もっと大好きなアルヴィーノの力になりたい、もっとたくさん褒めてもらいたい。

そんな健気な思いを胸に、ルミはトコトコと廊下へ出て、自分にできる「お仕事」を探し始めてしまった。

それが、最悪の出会いを引き寄せる。

「おや……? 君は確か、社長が囲っている……」

役員フロアの陰から声をかけてきたのは、どす黒い野心を瞳に宿した、社内の反主流派の取締役だった。
彼は、近頃アルヴィーノが裏で進めている大規模な組織粛清を察知し、なんとかして社長の座からアルヴィーノを蹴落とそうと、必死に弱みを探していた男だった。

「あ……こんにちは」

ルミはぺこりと頭を下げた。
相手がアルヴィーノに敵意を向けている悪党だとも知らず、無垢な水色の瞳で見上げる。
男は、ルミのそのあまりにも「空っぽ」で無防備な様子を見て、社内の噂を思い出した。

(噂通り、あの拉致事件のせいで本当に記憶が飛んで、使い物にならなくなっているらしいな……。だが、待てよ。この出来損ないの『絶対記憶(カメラアイ)』の回路がまだ生きているなら、逆に利用できるんじゃないか?)

男の唇が、歪に釣り上がる。
彼は抱えていた極秘の書類の束――アルヴィーノを陥れるために捏造した架空の背任データや、社内を混乱させるための違法なインサイダー取引のリスト――を、優しげな声を装ってルミの目の前に差し出した。

「おやおや、社長の役に立ちたいのかい? 偉いね。だったら、この書類に書かれている数字やコードを、全部その頭に『おぼえ』てごらん」
「これをおぼえたら……アルヴィーノさん、喜んでくれる?」
「ああ、喜ぶとも! これを全部覚えて社長に伝えたら、君はもっともっと褒めてもらえるし、最高の秘書になれるよ。さあ、一文字も残さず、じっくりと見なさい」
「……っ、うん! 俺、がんばる!」

ルミはぱっと顔を輝かせると、男の手から大量の書類を受け取ってしまった。

開かれた、禍々しいデータのページ。
ルミは「役に立ちたい」という一心で、その大きな水色の瞳を書類へと向けた。

その瞬間――。

バチバチと脳裏で火花が散るような感覚と共に、ルミの『絶対記憶(カメラアイ)』の回路が、本能的に、そして強制的に起動する。
視界に飛び込んできた、何万桁もの冷たい違法な数字の列、誰かを呪い、陥れるためのドス黒い文字列が、ルミの真っ白な脳内へと、容赦なく流れ込み始めた。

「……コード、X、9、0……、資産流用、口座、……株価、操作……」

無意識のうちに、ルミの薄い唇から、感情の消えた冷たい呟きが漏れ出す。
せっかくアルヴィーノが毎日毎日、プリンの甘さや抱擁の温もりで満たしてくれていたルミの綺麗な頭の中に、再び、大嫌いな大人のドス黒い泥水が、凄まじい勢いで注ぎ込まれていく。

「くくく……いいぞ、そのまま全部飲み込め……!」

下劣な大人の笑い声が響く中、ルミの水色の瞳から、またしてもすうっと生気が失われていく。
大好きな人の役に立ちたいという、その純粋すぎる想いを利用されているとも知らず、ルミは再び、冷たいデータの檻へと自ら足を踏み入れてしまうのだった。

「――何をしている」

廊下の空気を一瞬で凍りつかせる、地獄の底から響くような低い声。
次の瞬間、突如として現れたアルヴィーノが、猛獣のような速度で男の胸ぐらを掴み、ルミの手から大量の書類を乱暴に引っぺがした。

「ひっ、しゃ、社長……っ!?」

男が悲鳴を上げる。
アルヴィーノの紫の瞳は、いまや完全な狂気と、目の前の羽虫を今すぐ肉塊に変えてやろうという絶対的な殺意で煮えたぎっていた。書類は床へ無惨にぶちまけられ、アルヴィーノは男を壁へと激しく叩きつける。

「私のルミに……その汚い手で、何を読ませようとした……っ!!」
「あ、が……っ、ち、違う、これは……!」

言い訳を紡ぐ男の喉を、アルヴィーノの手指が壊れんばかりの力で締め上げる。

しかし、アルヴィーノは背後で小さく震えるルミの気配を察し、かろうじて残った理性を振り絞って男を床へと投げ捨てた。
「レオ、連れて行け。二度と日の光を拝ませるな」と、影のように現れた部下に冷酷に命じる。
アルヴィーノはすぐさま、床に座り込んでガタガタと震えているルミの前へ膝をついた。

「ルミ……! ルミ、私を見なさい! 大丈夫だ、もう見なくていい、全て私が消してやる……っ!」

なりふり構わず、その小さな身体を壊すほどの強さで抱きしめる。
ルミの脳内では、いま注ぎ込まれたばかりの冷たい暗号や数字の列がバチバチと明滅し、過負荷で再び真っ白になりかけていた。
あの恐怖の「初期化」の悪夢が、アルヴィーノの脳裏をよぎる。

けれど、今回は違った。
まだほんの数ページしか見ていなかったこと、そして何より、自分を包み込むアルヴィーノの身体が、驚くほど熱く、必死に自分を呼んでくれていたから。

「あ……ぅ……あ……」

強迫観念のように数字を紡ごうとしていたルミの薄い唇が、ぴたりと止まる。
頭を支配しかけていた泥水のようなデータが、アルヴィーノの大きな手のひらの温もりと、彼が放つ圧倒的な過保護の熱によって、じわじわと溶かされていく。

間一髪のところで、ルミの水色の瞳に、トントンといつもの柔らかい生気が戻ってきた。

「……ぁ……」

ルミは自分をきつく抱きしめ、守ってくれている主人の顔を見上げた。
その端正な顔が、見たこともないほど恐怖に歪み、自分を失うことを心底恐れて震えているのを見て、ルミは小さな頭をこくりと傾げた。

「アル……ヴィーノ、さん……?」

その、甘くて、少しぎこちない、けれど確かに自分を呼ぶ声。

「あぁ……ルミ……っ、ルミ……!」

自分を認識してくれたことに、アルヴィーノはこれ以上ない安堵の吐息を漏らし、ルミの首筋に深く顔を埋めた。
ルミは、アルヴィーノの高級なネクタイを小さな手でぎゅっと握りしめながら、不思議そうに瞬きをする。

「ごめんなさい……。俺、アルヴィーノさんの、お役に、立ちたくて……。あの紙、おぼえたら、もっといっぱい、褒めてもらえるって……」
「そんなもの、必要ありません……! お前が覚えるべきなのは、そんな汚い数字ではない……っ。お前はただ、私の隣で、私の名前だけを呼んでいればいいのです……!」

狂おしいほどの愛をぶつけるアルヴィーノの胸の中で、ルミはトク、トクと響く激しい心音を聴いていた。
記憶はまだ空っぽに近いけれど、この人は本当に、自分のすべてを愛してくれている。

「うん……わかった。俺、もうお写真のない紙は、見ないね……?」

そう言って胸元で小さく微笑むルミを、アルヴィーノは二度と離さないと誓うように、光の差し込まない社長室へと、優しく、そして深く連れ戻していくのだった。
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