記憶の檻に世界で一番甘い初恋を-7日ごとに貴方に恋する-

それから、ルミが目を覚ますことはなかった。

医師や専門家を邸宅に呼びつけ、考えうる限りの処置を尽くしたが、ルミの深い眠りは揺るがなかった。アルヴィーノは、仕事のすべてを放棄した。精鋭部隊による敵の殲滅など、彼にとってはもうどうでもいい些末事に過ぎなかった。
ただ、ベッドの傍らに座り、冷たくなっていくルミの手を握りしめ、自分を責め続けた。

(私が守ると決めたのに。私の強欲さが、この子を壊したんだ……)

冷徹な投資家の仮面など、とっくの昔に剥がれ落ちていた。アルヴィーノの顔には疲労が刻まれ、その紫の瞳は、まるで死を待つ獣のように淀んでいた。

そして3日目の夜。
わずかにルミの長い睫毛が震えた。

「……ルミ?」

アルヴィーノは息を呑み、力なく握りしめていたルミの手をそっと撫でる。
ルミの瞳が、ゆっくりと開かれた。光のなかった瞳に、微かな生気が戻る。しかし、それはかつての、アルヴィーノを慕って潤んでいた瞳ではなかった。

「……ルミ?」

アルヴィーノが恐る恐る、縋るような声で問いかける。
ルミは、自分を見下ろすアルヴィーノをじっと見つめた。その瞳には、恐怖も、愛着も、なにも宿っていない。ただ、深い霧の中にあるかのような、無機質な静けさがあるだけだった。

ルミは小さく首を傾げ、困惑したように、しかし酷く澄んだ声で問い返した。

「……あなたは、だれですか?」

心臓が、握り潰されるような錯覚を覚えた。
「自分はだれなのか」というアルヴィーノの問いに対しても、ルミはただ「わかりません」と、人形のように静かに首を振るだけだった。

まるで、絶対記憶(カメラアイ)という名のHDDが、過負荷により物理的にクラッシュし、すべてのデータが不可逆的にフォーマットされてしまったかのように。

「ここ、は……? 俺は、なにを、しているのですか……?」

ルミの口から紡がれる言葉は、あまりにも無垢で、あまりにも他人行儀だった。
これまで積み重ねてきた甘い記憶も、一緒に食べたマカロンの味も、自分が何者で、誰を愛していたのかという記憶すらもすべてが消えていた。

アルヴィーノの手の中で、ルミの指先が、ただのプラスチックの人形のように冷たく震える。
アルヴィーノの愛がルミを救ったのではなく、ルミの脳は、そのあまりの情報の濁流に耐えきれず、生き残るために「自分自身を消去する」という最終手段を選んだのだ。

「ルミ……?」

絞り出すようなアルヴィーノの声に、ルミはただ、純粋な好奇心と、かすかな怯えを混ぜた瞳で彼を見つめ返すだけだった。
それは、地獄から帰ってきたのではなく、アルヴィーノが最も恐れていた「何も持たない空っぽの存在」として、ただそこにいるという残酷な現実だった。
前の会社の残党はすべて、社会的に息の根を止めた。ルミを縛るデータも、彼らを追い詰めるための暗号も、すべてはアルヴィーノの手によって跡形もなく消え去った。

けれど、引き換えに支払った代償は、あまりにも大きすぎた。ルミの頭の中からは、あの地獄の記憶だけでなく、自分と紡いだ甘くて幸せな日々の記憶まで、綺麗に消え去ってしまったのだから。

「アルヴィーノ、ルミくんが目を覚ましたって聞いて――」

そこへ、心配のあまり駆けつけてきたアルフレッドが、息を切らせて寝室のドアを開けた。
いつもなら軽薄な笑みを浮かべている彼の手は微かに震えており、その表情にはかつてない焦燥が張り付いている。

しかし、ベッドの上に座るルミの、あまりにも「真っ白な」視線に触れた瞬間、アルフレッドもまた、言葉を失ってその場に立ち尽くした。

「あ……あなたは……?」

金髪の優しいお兄ちゃんを見ても、ルミはただ、不思議そうに瞬きをするだけだ。そこに、かつてアルフレッドに耳打ちされて「おねがい」をしていた、あの愛らしい少年の面影はカケラも残っていなかった。

「……兄上、静かにしろ。ルミが混乱する」

アルヴィーノは、冷たく、けれど張り裂けそうなほど悲痛な声で兄を制すると、再びルミの方へと向き直った。
そして、自分が世界で一番恐れていた現実に指先を震わせながら、それを隠すように、ゆっくりとルミの青白い頬に手を添える。

ルミは一瞬、びくっとその華奢な身体を硬くした。しかし、頬に触れる手のひらから伝わってくる圧倒的な温かさと、どこか本能の奥底を揺さぶるような、上質な煙草と香水の匂いに、不思議と拒絶はしなかった。

「……お前は、ルミだ」

アルヴィーノは、自分の記憶を一つずつルミの空っぽな脳内へ分け与えるように、一語一語、噛み締めるように語りかける。

「お前は、私の大切な秘書であり……私の、世界のすべてだ。私はアルヴィーノ。お前をこの世の誰よりも愛し、守る男だ」
「アル……ヴィーノ、さん?」

ルミはその名前を、生まれたばかりの赤ん坊が初めて言葉を発するように、ぎこちなく口の中で転がした。
頭の中の記憶には、やはり何も残っていない。何も見えない。

けれどその名前を呼んだ瞬間、なぜか胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように熱くなった。

「俺、なにも……おぼえて、ないです。あなたのことも、自分のことも、なにも……」

悲しそうに、申し訳なさそうに長い睫毛を伏せるルミ。
その姿を見た瞬間、アルヴィーノの胸の奥で、ドス黒い絶望が静かに『歓喜』へと反転した。

ふっと、その端正な顔にどこか狂気すら孕んだ、けれど最高に愛おしそうな笑みが浮かぶ。

「構わない。言ったでしょう? 最初から全部やり直すと」

アルヴィーノはルミの小さな身体を、再びその逞しい腕の中へと強く、深く、抱きすくめた。
骨がきしむほどの質量で、けれど二度と手放さないと誓うように。

「薄汚いビジネスの泥も、お前を苦しめた過去の傷も、すべて消えたのならむしろ好都合です。今の貴方は、正真正銘、何にも染まっていない真っ白な私のもの。……貴方のその空っぽになった綺麗な頭に、今日からまた、私との記憶だけを敷き詰めていけばいいだけです。他のゴミなど、一切必要ない」

抱きしめられた胸の中で、ルミはトク、トク、と規則正しく響く、心地よい心音を聞いていた。
記憶は完全に消去されていても、身体が、魂が、この腕の中こそが世界で一番安全な場所だと知っているかのように、ルミの強張っていた力が自然と抜けていく。

「……うん。俺、あなたのこと、いっぱいはじめて覚えるね」

泥を洗い流され、純白の繭へと戻った可憐な男の娘。
そして、その喪失を「好都合だ」と微笑み、より深い執着と歪んだ独占欲で、一から自分だけの雛として飼い慣らそうとする冷徹なCEO。

2人の関係は、過去のすべてを消し去った特等席で、本当の意味で、新しく、そしてより深く歪に始まりを告げるのだった。
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