記憶の檻に世界で一番甘い初恋を-7日ごとに貴方に恋する-

レイストール最高経営責任者室。

「……遅い」

デスクの前に座るアルヴィーノは、手元の万年筆を置き、室内のアンティーククロックに目をやった。
ルミが「お水をあげてくる」と微笑み、じょうろを手に部屋を出てから、すでに二十分が経過している。
ほんの少しの廊下の往復。いつもなら、楽しげな足音と共にすぐ戻ってくるはずだった。

胸の奥を、正体不明のどす黒い不安がかすめる。
アルヴィーノが立ち上がろうとした、その瞬間だった。

「しゃ、社長……っ! 大変です……!」

秘書室の役員の一人が、ノックもそこそこに、青ざめた顔で扉を押し開けた。その手に握られていたものを見た瞬間、アルヴィーノの紫の瞳が、凍りついたように見開かれる。

それは、ルミが大切に抱えていた、パステルブルーの可愛らしいじょうろだった。
床に激しく叩きつけられたのか、美しい塗装は無惨に剥げ、歪んでいる。

「西側の非常階段の踊り場で、これが落ちているのを見つけました……! あたりには大量の水がぶちまけられており、ルミくんの姿はどこにも……」

役員の言葉が、途中で引き裂かれた。
室内の温度が、一瞬で絶対零度まで吹き飛ぶ。アルヴィーノの全身から、かつて世界を震え上がらせた、あの悍ましいまでの冷徹な殺気が溢れ出した。

「……私の、ルミに」

ガタガタと震える役員の手からじょうろを奪い取るように引き抜くと、アルヴィーノはそれを、自らの胸へと強く抱きしめた。
裏で進めていた、あの悪徳企業の買収計画。
窮地に追い込まれたネズミどもが、最後に何を仕掛けてくるかなど、あの冷徹な頭脳が察し得ないはずがなかった。

「総員に告ぐ。我が社の全情報網、および息のかかったすべての裏の組織を動かせ。一秒だ。一秒たりとも遅れるな」

アルヴィーノの紫の瞳に、見たこともないほどの狂気と、どす黒い怒りの炎が宿る。

「私の誇り高き秘書を、私の世界のすべてを汚した羽虫どもを――骨の一片すら残さず、この世から消滅させる」

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ヴァイス・ロジスティクス地下倉庫

「――さあ、起きろ。生きたハードディスク」

冷たいコンクリートの床。不規則に明滅する、濁った蛍光灯の光。
ルミが激しい頭痛と共に目を覚ました時、そこはかつて囚われていた地獄と酷似した、どこかの廃倉庫の地下室だった。

「う、あ……っ……」

頭が、割れるように痛い。
アルヴィーノに「お前を美しく装うため」と、ミリ単位までこだわって仕立ててもらった、あの真っ白で綺麗な秘書用のロリータスーツ。それが、今は冷たい泥で汚れ、乱暴に引き裂かれていた。細く、折れそうな手首には、ずっしりと重い鉄の手錠が嵌められ、擦れた皮膚から赤い血が滲んでいる。

「よくもレイストールなんかに囲い込まれてくれたな。おかげでツラを拝むまでに手間取ったぞ。だが、お前の頭の中の『宝の山』は、まだ無事なようだな」

濁った視界の先、見下ろしてくるのは、かつて自分を道具として使い潰していた前の会社の上司たち。そして、どす黒い欲望を瞳に宿した、黒いスーツの男たちだった。

「や、やめて……! 俺、もう、あなたの会社の人間じゃ、ないです……っ。アルヴィーノさんの、ところに、帰して……!」

涙を流して叫ぶルミの小さな顎を、男が壊さんばかりの力で乱暴に掴み上げた。皮手袋の無機質な感触が、ルミの肌を蹂躙する。

「黙れ! お前はただの、戸籍もないデータのゴミ箱だ。自分が人間だとでも錯覚したか? さあ、今からこの書類をすべて覚えろ。我が社を倒産に追い込んだレイストールを、逆に内部からハッキングして破滅させるための極秘コードと、裏の取引データだ。一文字も、一桁も忘れるなよ」

ドサリ、とルミの目の前に、何百ページもの禍々しいデータファイルが叩きつけられる。紙の擦れる音が、まるで死神の羽音のように地下室に響いた。

「嫌だ……見たくない、見たくない……っ!」

ルミは悲鳴を上げ、必死に瞼を閉じようとした。
これ以上、こんな汚い数字や、他人を呪うための文字を頭に入れたくない。

せっかく、せっかくアルヴィーノさんが「お前の綺麗な記憶に、あのようなゴミを残す必要はない。私との幸せな記憶だけを覚えていればいい」って、あの陽だまりのような社長室で、たくさんの幸福で頭の中を上書きしてくれたのに。

けれど、男たちは冷酷に笑いながら、ルミの細い髪を掴み、その小さな瞼を無理やり指でこじ開けた。

「見ろ!! 忘れるな!! お前の存在価値は、この眼球だけだ!!」
「あ、あああ……っ!!」

ルミの水色の瞳に、容赦なく、冷酷なデータが焼き付けられていく。
一度見たものは二度と消せない、絶対記憶の呪い。
男たちが無理やり見せてくる、何万桁もの違法な暗号、ドス黒い企業の裏金データ、レイストールを呪う文字列が、ルミの脳内へと容赦ない泥水の津波となって流れ込んでいく。

(消えちゃう……消えちゃうよぉ……っ!)

頭の中のキャパシティが、汚濁で満たされていく。
つい数時間前まで、脳内の一番温かい場所に広がっていた、アルヴィーノさんの優しい笑顔。
髪を撫でてくれた、あの低くて、愛おしそうな声。
一緒に食べた、あのブルーベリー味のマカロンの、胸が痛くなるほどの甘さ。

それらの、ルミにとって何よりも大切だった温かい記憶のピースが、暴力的なデータの洪水によって、暗い奥底へと押し流され、かき消されていく。

(アルヴィーノさん……っ、助けて、アルヴィーノさん……! 俺の頭の中が、また、真っ黒になっちゃう……!)

「よし、いいぞ。そのまま全部飲み込め! 壊れるまで詰め込め!」

下劣な大人たちの、歪んだ笑い声が地下室に木霊する。
溢れ出る涙の向こう側で、ルミの水色の瞳から、すうっとすべての生気が消え失せていく。

幸福を教えてもらったばかりの青い鳥は、再び、自らの才能という名の冷たい檻の中に、深く、深く、光の届かない底へと沈められていくのだった。
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