記憶の檻に世界で一番甘い初恋を-7日ごとに貴方に恋する-

書斎の扉の向こうから、またしても規則的で、しかしどこか焦燥を感じさせるほど鋭い打鍵音が響いてくる。
それまで穏やかに昔話をしていたアルフレッドが、不意にその音を聞き咎め、深く長い溜息を吐いた。

「……また、根詰めてやってるのか。あの男の悪い癖だよ」

アルフレッドは首を横に振り、少しだけ呆れたように目を細める。

「彼はね、何でも自分一人で処理し、完結させようとするんだ。僕という共同経営者がいながら、まるで世界を一人で背負っているかのようにね。……本当に、どうしようもない完璧主義者だよ」

彼がかつての「冷酷な破壊者」から変わったとはいえ、その根底にある強迫観念のようなストイックさは、今も変わっていないのかもしれない。
アルフレッドは弟を大切に想っているからこそ、その脆さを常に危惧していた。

「休めと言って素直に聞くような弟じゃない。彼にとって、休息は無駄でしかないんだろうね」

アルフレッドはそう呟いてから、ふと思い出したかのように、隣に座るルミの方をゆっくりと振り向いた。
その碧い瞳に、柔らかな悪戯心が灯る。

「ねえ、ルミくん。君からなら、話は別かもしれない」

彼はルミの肩を軽く叩き、書斎の扉を顎で指し示した。

「君が『休んでほしい』と言えば、あの頑固なアルヴィーノだって、その手をとめるんじゃないかな。僕には聞かない忠告も、君の願いなら……あるいは。一度、彼を休ませてみてくれないか?」

アルフレッドの提案に、ルミは驚きつつも、ゆっくりと書斎の扉を見つめる。
あの冷徹な主人が、自分の言葉で歩みを止めてくれるだろうか。
かつて誰にも屈しなかった彼が、自分という存在の言葉を待っていてくれるという事実は、ルミの心を、名状しがたい昂揚感で震わせた。

「……言ってみる。アルヴィーノさんが、休んでくれるかどうか……わかんないけど」

小さな声でそう言い残し、ルミは立ち上がった。
かつては自分を縛る檻の主だった男を、今度は自分が守り、そして休息へと導くために。
ルミは震える足で、書斎へと続く廊下を一歩ずつ踏みしめていった。
書斎の扉を、コン、コン、コン、と控えめに叩く。
静寂に慣らされた指先が刻むその繊細な音は、重厚な木目を抜けて、中の男へと確実に届いた。

「――入れ」

低く、硬質な声が室内から響く。
ルミは小さく息を吸い込み、ドアノブを回して静かに中へと足を踏み入れた。
広大な書斎は、マルチディスプレイの青白い光と、デスクランプの鋭い光に照らされ、まるで冷徹な頭脳の内部そのもののようだった。
デスクの向こうでは、普段の完璧な三ピーススーツを少し崩し、シャツの袖を捲り上げたアルヴィーノが、知的なブルーライトカットの眼鏡をかけて画面を凝視していた。

しかし、入ってきたのがルミだと分かった瞬間、その鋭い視線が劇的に融解する。

「……ルミ。どうしました?」

アルヴィーノは淀みのない動作で眼鏡を外してデスクに置くと、すぐに椅子から立ち上がった。
長い足で音もなく歩み寄り、扉の傍で立ち尽くしている少年の元へと真っ直ぐに向かってくる。
その紫の瞳には、深夜の業務による疲労など微塵も感じさせない、ルミを捉えて離さない深い光が宿っていた。
ルミは、自分を見下ろす主人の端正な顔を見上げ、小さく指先を弄んだ。
背後のリビングからは、アルフレッドが「頑張って」とでも言うように微笑んでいる気配が伝わってくる。

「えっと、ね……」

言い淀み、一度だけ視線を床に落とす。心臓がトクトクと早く脈打つ。
けれど、アルフレッドから聞いた「何でも一人で抱え込んでしまう」という主人の姿が頭をよぎり、ルミは意を決したように再び顔を上げた。

純白のレースの袖をきゅっと握りしめ、潤んだ瞳でアルヴィーノをじっと見つめる。

「……アルヴィーノさん。お仕事、もうおしまいにして……一緒にお休みしよ……?」

わずかに首を傾げ、縋るような上目遣いで放たれた、精一杯の“おねがい”。

その瞬間、室内の空気が一変した。

アルヴィーノの動きが完璧に止まり、その紫の瞳が大きく見開かれる。
ルミが自らに向けて放った、かつてないほどに甘く、無防備な要求。
それが、冷徹な投資家の脳内にあった「効率」や「業務」といったすべてのタスクを、一瞬で、暴力的なまでに上書きして消し去った。

「――分かりました」

短く、しかし酷く狂気を孕んだ声で応じた瞬間だった。

アルヴィーノは振り返りもせず、デスクの上の黒い端末の電源ボタンを容赦なく押し込んで叩き落とした。
保存していないデータがどうなろうと、今の彼には一瞥の価値もない。

そのままルミの元へと戻ると、驚く暇すら与えず、その細い身体を軽々と両腕で抱き上げた。

「あ……っ、アルヴィーノさん!?」
「部屋へ戻ります。これ以上の労働は、私の人生において完全に無価値となりました」

腕の中の少年を、誰にも渡さない、二度と手放さないという強固な意志で引き寄せ、アルヴィーノは大きな足取りで書斎を出た。
リビングを通り過ぎる際、ソファで待っていたアルフレッドが、あまりの速攻ぶりに言葉を失ってフリーズしているのが見えた。
アルヴィーノはその兄に視線すら向けず、ルミの水色の髪に自身の顔を埋めるようにして、二人の寝室へと繋がる廊下を、満足げに突き進んでいくのだった。
アルフレッドは、呆然と口を開けたまま立ち尽くしていた。

つい先ほどまで、あそこには世界を揺るがすような冷徹さと、効率を神格化するビジネスの権化がいたはずだった。
それが、たった一言、「一緒にお休みしよ」という少年の言葉ひとつで、すべてを投げ打って寝室へと連れ去られてしまったのだ。

「……ははっ」

重厚な寝室の扉が、カチリ、と静かに、しかし有無を言わせぬ重さで閉じられる。その乾いた音が執務室の残り香を分断し、廊下に静寂を呼び戻した。

一瞬の沈黙の後、アルフレッドの肩が小刻みに震え始めた。
笑いは、喉の奥からせり上がるような、抑えようのないものだった。

「……あのアルヴィーノが、ねぇ」

誰にも邪魔させまいと、まるで宝物を巣へと運び込む猛獣のような執着。かつての冷徹な弟の面影は微塵もなく、ただ少年に翻弄される一人の男がそこにいた。
ルミという小さな存在が、アルヴィーノという氷の城を、内側から完全に溶かし尽くしてしまったのだ。

「あんなにあからさまに『仕事なんてどうでもいい』という顔をするなんてね。……計算外にもほどがあるよ」

アルフレッドは涙を拭い、楽しそうに笑みをこぼしながら、誰もいなくなった静かな廊下を見つめた。
あの中では今、冷徹なCEOが少年の寝顔を見守りながら、ようやく手に入れた平穏に酔いしれているのだろう。それは、アルフレッドがどれほど手を尽くしても与えられなかった、弟の本当の「人間らしい」姿だった。

「さて……。明日になったら、彼はまた何事もなかったかのように冷酷な仮面を被るんだろうけれど」

アルフレッドは満足げに独りごちると、くるりと踵を返した。
あの子が、あの少年の言葉が、この巨大な権力の中枢を揺るがす唯一の鍵だ。そう確信し、彼は軽やかな足取りで廊下を去っていった。
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