記憶の檻に世界で一番甘い初恋を-7日ごとに貴方に恋する-
それから、数週間の時が流れた。
ルミの日常は完全に『安全領域』の中にあった。
寸分違わぬ温度で淹れるようになったコーヒー。
瑞々しく葉を広げる観葉植物たち。
そして、何かに怯えることなく身を委ねられるソファの心地よさ。
かつて剥き出しのレンズのように傷つき、擦り切れていたルミの瞳は、いまやその穏やかな日常の機微だけを大切に記録し続けていた。
そんなある日の午後。
デスクに向かっていたアルヴィーノが、不意に一枚の書類をルミへと差し出した。
「ルミ、これを」
「……あ、はい」
差し出された上質な紙を受け取った瞬間、ルミの胸が小さな高揚感で跳ね上がった。
そこに並んでいたのは、何十人もの顔写真と、それに付随する詳細なプロフィール。
名前、所属、経歴――かつて悪徳企業で強制的に詰め込まれていたような、文字と数字の羅列だった。
(ついに……! ついに俺の能力が、アルヴィーノさんの役に立つんだ……!)
ずっと、ただ守られているだけのような毎日に、どこか申し訳なさを感じていた。
だからこそ、ルミの心には純粋な喜びが湧き上がる。
この情報を頭に焼き付けて、アルヴィーノのビジネスに貢献するんだ。どんなに複雑なデータでも、一度見れば忘れない。
頭が痛くなっても、今度こそ完璧に役目を果たしてみせる。
ルミは真剣な眼差しで、網膜の裏へ文字を焼き付けるように書類に目を通し始めた。
「この情報を使って、何をするんですか……? 俺、頑張って全員分、完璧に覚えますから……っ」
健気に己の価値を証明しようと、拳をぎゅっと握りしめて見上げるルミ。
しかし、そんなルミの熱意を遮るように、アルヴィーノは低く、酷く冷徹な声を響かせた。
「勘違いしないでいただきたい。それをあなたに渡したのは、ビジネスに使用するためではありません」
「え……?」
ルミの手がピタリと止まる。
アルヴィーノはデスクから立ち上がると、ルミの前に歩み寄り、その細い肩を大きな手で引き寄せた。
紫の瞳の奥に、昏く、容赦のない光が宿る。
「そこに並んでいるのは、レイストール・ホールディングス、あるいは私個人に対して害意を持つ可能性のある人間や、過去に不審な動きを見せた者たちのリストです」
アルヴィーノの指先が、書類の一端を冷たく指し示す。
「私はあなたに、その顔と名前を『防衛』のために記憶してほしいのです。そこに書いてある奴らには、私以外の場所で絶対に近づかないこと。もし万が一、会社のロビーや街中で彼らを見かけたら、すぐにその場を離れ、私か護衛に連絡しなさい」
「……俺を、守るため……?」
「当然です」
アルヴィーノはルミの頬に手を添え、逃がさないように目線を固定した。
「あなたのその稀有な能力を、再び汚らわしい大人たちに利用させるつもりはありません。あなたが覚えるべきは、自らの身を守るための境界線だけだ。……いいですね?」
自分の能力を道具として搾取するのではなく、ただ「自分の安全を確保するため」に記憶を使えという主人の命令。
そのあまりにも過保護で、しかし逃れることを許さない絶対的な独占欲に、ルミは胸の奥を熱くしながら、こくりと深く頷くのだった。
都心の夜景が、窓の外で宝石を散らしたように瞬いている。
レイストール邸の書斎からは、深夜にも関わらず、アルヴィーノがキーボードを叩く硬質な音が途切れることなく響いていた。
ルミはリビングの深々としたソファに身を沈め、手元のティーカップを眺めながら、ぽつりと小さな独り言をこぼした。
「……守られてばっかりだなぁ、俺」
自分にできることは、コーヒーを淹れることと、水やりをして、こうして大人しく待っていることだけ。
かつて過酷な環境でボロボロになるまで働かされていた自分にとっては、この平穏は夢のようであり、同時に、自分の無力さを突きつけられるようなもどかしさでもあった。
その時、リビングの奥から柔らかな足音が近づいてきた。
「やあ、ルミくん。まだ起きていたのかい?」
アルフレッドだった。
上着を脱いだラフなシャツ姿の彼は、ソファの隣に腰を下ろすと、慈しむような眼差しをルミへと向けた。
「仕事の方はどうだい? 慣れたかな」
「……うん、問題ないよ。アルヴィーノさんも、すごく優しくしてくれるし……」
ルミは膝の上で指先を弄び、少しだけ頬を染めてから、ずっと胸の奥にあった疑問を口にした。
「ねえ、アルフレッド様。……アルヴィーノさんって、元からこういう人だったの?」
自分の前で見せる過保護なまでの執着と、慈しむような手つき。
冷徹なCEOとして知られる男の、あまりにも人間味の欠けた優しさが、どこか別の生き物のように感じられることがあった。
アルフレッドは一瞬きょとんとした後、声を出さずに肩を震わせて笑った。
「まさか。あんな顔を見せるのは、君の前だけだよ」
彼は懐かしむように遠い目をする。
「昔のアルヴィーノといったら、それはもう機械のようだったよ。非効率なものは容赦なく切り捨て、情という概念を辞書から抹消したかのような男だった。冷徹なCEOとして、どれだけの企業を血祭りに上げてきたか……手段を選ばないそのやり方に、業界の人間は皆、震え上がっていたものさ」
アルフレッドの碧い瞳に、弟の過去が鮮明に浮かぶ。
「あいつにとって、他人はあくまで駒でしかなかったんだ。自分の理想を遂行するための、ただの消耗品。……それが今じゃ、君という一つの存在に、これほどまでに執着している。ルミくん、君がアルヴィーノを変えたんだよ。僕から見ても、信じられないほどの奇跡さ」
ルミは驚きで目を見開いた。
自分の知る「アルヴィーノ」とは全く別の、氷のように冷たい破壊者の姿。
それを自分だけが知っているという事実は、ルミの胸の奥を、畏怖とも喜びともつかない複雑な感情で満たしていく。
自分は、この冷酷な男を狂わせた存在なのだ。
ソファに深く沈み込みながら、ルミはその重い事実に、どこか心地よい背徳感を感じるのだった。
ルミの日常は完全に『安全領域』の中にあった。
寸分違わぬ温度で淹れるようになったコーヒー。
瑞々しく葉を広げる観葉植物たち。
そして、何かに怯えることなく身を委ねられるソファの心地よさ。
かつて剥き出しのレンズのように傷つき、擦り切れていたルミの瞳は、いまやその穏やかな日常の機微だけを大切に記録し続けていた。
そんなある日の午後。
デスクに向かっていたアルヴィーノが、不意に一枚の書類をルミへと差し出した。
「ルミ、これを」
「……あ、はい」
差し出された上質な紙を受け取った瞬間、ルミの胸が小さな高揚感で跳ね上がった。
そこに並んでいたのは、何十人もの顔写真と、それに付随する詳細なプロフィール。
名前、所属、経歴――かつて悪徳企業で強制的に詰め込まれていたような、文字と数字の羅列だった。
(ついに……! ついに俺の能力が、アルヴィーノさんの役に立つんだ……!)
ずっと、ただ守られているだけのような毎日に、どこか申し訳なさを感じていた。
だからこそ、ルミの心には純粋な喜びが湧き上がる。
この情報を頭に焼き付けて、アルヴィーノのビジネスに貢献するんだ。どんなに複雑なデータでも、一度見れば忘れない。
頭が痛くなっても、今度こそ完璧に役目を果たしてみせる。
ルミは真剣な眼差しで、網膜の裏へ文字を焼き付けるように書類に目を通し始めた。
「この情報を使って、何をするんですか……? 俺、頑張って全員分、完璧に覚えますから……っ」
健気に己の価値を証明しようと、拳をぎゅっと握りしめて見上げるルミ。
しかし、そんなルミの熱意を遮るように、アルヴィーノは低く、酷く冷徹な声を響かせた。
「勘違いしないでいただきたい。それをあなたに渡したのは、ビジネスに使用するためではありません」
「え……?」
ルミの手がピタリと止まる。
アルヴィーノはデスクから立ち上がると、ルミの前に歩み寄り、その細い肩を大きな手で引き寄せた。
紫の瞳の奥に、昏く、容赦のない光が宿る。
「そこに並んでいるのは、レイストール・ホールディングス、あるいは私個人に対して害意を持つ可能性のある人間や、過去に不審な動きを見せた者たちのリストです」
アルヴィーノの指先が、書類の一端を冷たく指し示す。
「私はあなたに、その顔と名前を『防衛』のために記憶してほしいのです。そこに書いてある奴らには、私以外の場所で絶対に近づかないこと。もし万が一、会社のロビーや街中で彼らを見かけたら、すぐにその場を離れ、私か護衛に連絡しなさい」
「……俺を、守るため……?」
「当然です」
アルヴィーノはルミの頬に手を添え、逃がさないように目線を固定した。
「あなたのその稀有な能力を、再び汚らわしい大人たちに利用させるつもりはありません。あなたが覚えるべきは、自らの身を守るための境界線だけだ。……いいですね?」
自分の能力を道具として搾取するのではなく、ただ「自分の安全を確保するため」に記憶を使えという主人の命令。
そのあまりにも過保護で、しかし逃れることを許さない絶対的な独占欲に、ルミは胸の奥を熱くしながら、こくりと深く頷くのだった。
都心の夜景が、窓の外で宝石を散らしたように瞬いている。
レイストール邸の書斎からは、深夜にも関わらず、アルヴィーノがキーボードを叩く硬質な音が途切れることなく響いていた。
ルミはリビングの深々としたソファに身を沈め、手元のティーカップを眺めながら、ぽつりと小さな独り言をこぼした。
「……守られてばっかりだなぁ、俺」
自分にできることは、コーヒーを淹れることと、水やりをして、こうして大人しく待っていることだけ。
かつて過酷な環境でボロボロになるまで働かされていた自分にとっては、この平穏は夢のようであり、同時に、自分の無力さを突きつけられるようなもどかしさでもあった。
その時、リビングの奥から柔らかな足音が近づいてきた。
「やあ、ルミくん。まだ起きていたのかい?」
アルフレッドだった。
上着を脱いだラフなシャツ姿の彼は、ソファの隣に腰を下ろすと、慈しむような眼差しをルミへと向けた。
「仕事の方はどうだい? 慣れたかな」
「……うん、問題ないよ。アルヴィーノさんも、すごく優しくしてくれるし……」
ルミは膝の上で指先を弄び、少しだけ頬を染めてから、ずっと胸の奥にあった疑問を口にした。
「ねえ、アルフレッド様。……アルヴィーノさんって、元からこういう人だったの?」
自分の前で見せる過保護なまでの執着と、慈しむような手つき。
冷徹なCEOとして知られる男の、あまりにも人間味の欠けた優しさが、どこか別の生き物のように感じられることがあった。
アルフレッドは一瞬きょとんとした後、声を出さずに肩を震わせて笑った。
「まさか。あんな顔を見せるのは、君の前だけだよ」
彼は懐かしむように遠い目をする。
「昔のアルヴィーノといったら、それはもう機械のようだったよ。非効率なものは容赦なく切り捨て、情という概念を辞書から抹消したかのような男だった。冷徹なCEOとして、どれだけの企業を血祭りに上げてきたか……手段を選ばないそのやり方に、業界の人間は皆、震え上がっていたものさ」
アルフレッドの碧い瞳に、弟の過去が鮮明に浮かぶ。
「あいつにとって、他人はあくまで駒でしかなかったんだ。自分の理想を遂行するための、ただの消耗品。……それが今じゃ、君という一つの存在に、これほどまでに執着している。ルミくん、君がアルヴィーノを変えたんだよ。僕から見ても、信じられないほどの奇跡さ」
ルミは驚きで目を見開いた。
自分の知る「アルヴィーノ」とは全く別の、氷のように冷たい破壊者の姿。
それを自分だけが知っているという事実は、ルミの胸の奥を、畏怖とも喜びともつかない複雑な感情で満たしていく。
自分は、この冷酷な男を狂わせた存在なのだ。
ソファに深く沈み込みながら、ルミはその重い事実に、どこか心地よい背徳感を感じるのだった。