主と従者の檻に、世界で一番甘い誓いを
魔王の夜、天使の朝 〜最愛のために世界を壊す王族たちと、毛布を掛ける愛しき人〜①
重厚な静寂が、新王の執務室を支配していた。
窓外から差し込む薄明はすでに夕刻の訪れを告げており、琥珀色の光線が室内に浮遊する微細な塵を照らし出している。
だが、その美しさを享受するだけの余裕は、主たるアルフレッド・レイストールには残されていなかった。
机の上に整然と、しかし凶悪な質量を持って積み上げられた執務書類の山。
それは弟である第二王子アルヴィーノが、二週間の「代理国王」期間中に私情と冷酷さの赴くままに断行した、貴族社会への大粛清の「爪痕」そのものであった。
「――ここまでだ」
アルフレッドは羽ペンを置き、眉間を深く指で揉みほぐした。
碧眼の奥に宿る色彩は、かつての朗らかな第一王子のそれではない。
対話による解決を重んじ、善性のみで国を導こうとした男は、すでに数々の辛酸を舐め、冷徹な現実を知る「王」へと変貌を遂げていた。
だが、どれほど彼が王としての威厳を身につけようとも、肉体的な限界と処理能力には限界がある。
アルフレッドは机上の呼び鈴を鳴らし、控えていた側近に低く冷徹な声を掛けた。
「アルヴィーノをこれへ。――強制召喚だ。拒否は一切認めない。来ないと言うのなら、近衛を総動員してでも連れてこい」
実の弟であり、今や周辺各国から「魔王」と恐れられる軍師を、力ずくで引きずり出す。
それは常人であれば正気を疑う命令だったが、現在のアルフレッドの瞳には、一切の躊躇いがなかった。
---
数刻の後、執務室の重厚な二重扉が静かに開いた。
現れたのは、漆黒の軍服を隙なく着こなした青年、アルヴィーノ・レイストールだった。
少し癖のある紫の髪が、微かな苛立ちを示すかのように揺れている。細く切れ長の深い紫色の瞳は、冷徹な光を湛えたまま、机の上の書類の山と、そこに佇む実の兄を冷ややかに射抜いた。
「……何のご用でしょうか、陛下」
敬語を使ってはいるものの、その声には明らかな不快感が滲んでいた。
彼にとって、この時間は最愛の伴侶であるルミと私室で過ごすはずの、何にも代えがたい時間だったのだ。
それをこのような、かつて嫌悪すら抱いた兄の呼び出しによって遮られた。
不服という二文字では生温いほどの拒絶が、その佇まいから放射されている。
アルフレッドは弟の放つ威圧感を完全に無視し、静かに立ち上がった。
そして、扉の前に立つ近衛兵たちに向けて、厳かに告げる。
「扉を閉めろ。そして、外から施錠しろ。私が許可を出すまで、第二王子をこの部屋から一歩も出してはならない」
ガチャン、と重々しい金属音が響き、錠が下りる。
アルヴィーノの眉が、ピクリと不機嫌そうに跳ね上がった。
「これは何の真似ですか。私は軍師であり、貴方の隠し刃。このような内政の雑務に時間を割くほど、暇ではないのですが」
「暇ではないのは私の方だ、アルヴィーノ」
アルフレッドの声は低く、そして信じがたいほどに冷徹だった。
彼は机の上の膨大な書類の束を、容赦なく叩く。
「君が『代理国王』として玉座に座った二週間、そしてその後にルミくんを連れて行った南方のバカンス。その裏で、どれほどの混沌がこの国に生じたか、まさか忘れたとは言わせない。不正を働いた貴族の更地化、無能な役人の即時解雇、さらには君の暴走を止めようとルミくんに縋った者たちへの永久追放……。これらすべての法的手続き、領地再編、そして新たな人事の決裁が、誰の元に集まると思っている」
「使えない駒を排除しただけです。王国の新体制を確固たるものにするため、むしろ私に感謝していただきたいものですね」
アルヴィーノはふん、と鼻で笑い、傲然と言い放った。
自身の手を汚すことなく国を最適化させたという自負。そこには一抹の罪悪感すら存在しない。
「感謝なら、この処理がすべて終わった後言葉だけでしてやる」
アルフレッドは歩を進め、弟の目の前で足を止めた。
二人の間に、目に見えない火花が散る。
魔力においても武力においても、アルフレッドは弟に劣る。
だが、今の彼には「レイストール新王」としての、退けぬ矜持があった。
「これは命令だ、アルヴィーノ。兄として、そしてお前の主君たる王としてのな。この書類の山をすべて片付け終わるまで、君をこの部屋から出すつもりはない。当然、ルミくんの元へ返すこともな」
ルミ、という名を口にした瞬間、アルヴィーノの紫色の瞳が、極大魔法を発動させる直前のような、昏く危険な光を帯びた。
周囲の空気が、肌を刺すような魔圧で凍りつく。
「……私を脅迫するおつもりですか、陛下。いくら新王とはいえ、私をここに繋ぎ止められると?」
「繋ぎ止められるさ。力ずくではない方法でね」
アルフレッドは懐から、一通の、いや、紐で縛られた厚い一束の封書を取り出し、アルヴィーノの眼前に突きつけた。
それは、王都の有力貴族たちから毎日のように届く、第二王子アルヴィーノへの「婚約の釣書」の山だった。
「お前がどれほど拒もうと、王族としての義務を完全に免除したわけではない。現在もお前との結びつきを求め、見目麗しく高貴な令嬢たちの写真と身上書が、山のように届いている。……これをどうするかは、私の裁量一つだ」
アルヴィーノの表情が、目に見えて険悪なものへと変わる。
「……私がそれらすべてを灰にすると知っていて、そのようなものを出すのですか」
「灰にするのは君の自由だ。だが、私は王として、その中から最も執念深く、最もお前にとって『煩わしい』貴族の令嬢を選び、正式なお見合いの席をセッティングすることができる。公務としてな。……一度や二度ではない。この書類が片付かない腹いせに、週に三度はその席を設けてもいい」
アルフレッドの碧眼には、一切の冗談がなかった。限界を迎えた人間の執念が、そこには宿っていた。
「そうなれば、君がどれほどルミくんを溺愛していようとも、表舞台では『主従』として振る舞わねばならない以上、ルミくんの耳にもその話は届く。彼がどれほど心を痛めるか、君なら容易に想像がつくだろう?」
「――アルフレッド」
ついに敬語が外れ、アルヴィーノの口から地を這うような声が漏れた。
お前、と、かつてのように兄を睨みつける。その感情は、激しい不服と、最愛の存在を盾に取られたことへの憤怒に染まっていた。
ルミを悲しませることだけは、世界の何が滅びようとも許容できない。
アルフレッドは、アルヴィーノの唯一にして絶対の弱点がどこにあるかを、完璧に理解して立ち回っていた。
長い、刺すような沈黙が室内の空気を支配した。
アルヴィーノの拳が、軍服の袖の中で固く握り締められ、微かに震える。
全属性の魔法を操り、禁術すら無詠唱で放つ「魔王」が、ただ一人の男の「脅迫」によって、完全に退路を断たれていた。
「……分かりました」
極夜の底のような声で、アルヴィーノは呟いた。
「そこまでして私を酷使したいのであれば、従いましょう。ただし――」
アルヴィーノはアルフレッドを冷酷に睨み据え、机へと歩み寄った。
「夜明けまでに終わらせます。それ以上、私をあの子から引き離す時間は、一秒たりとも認めない」
「望むところだ。手際だけは、お前が世界で一番信頼できるからね」
アルフレッドは深く息を吐き出し、自らも席に戻った。
始まったのは、二人の王族による冷徹なまでの「戦い」だった。
羽ペンが羊皮紙を引っ掻く硬い音だけが、密室に響き渡る。
アルヴィーノは凄まじい速度で書類に目を通し、容赦のない減点方式で裁可を下していく。
その冷徹な判断力と頭脳は、まさに戦場を統治する軍師のそれだった。
己の私情のため、そして何より、冷たい監獄のようなこの部屋から一刻も早く抜け出し、愛しい伴侶の温もりを抱きしめるために。
魔王は、己を縛る「王の命令」という鎖を噛み締めながら、深夜の執務室で冷たい刃のようにペンを走らせ続けるのだった。
◆
夜明けまでに終わらせる――その傲岸な宣言が、いかに傲慢な机上の空論であったか。
それを思い知らされるのに、さほどの時間は必要なかった。
時計の秒針が刻む重苦しい音だけが、深夜の執務室に響いている。
窓外はとうに深い闇に包まれ、冷徹な静寂が世界を覆っていた。
だが、室内の空気は澱み、摩擦による熱を帯びるように張り詰めている。
「……否決だ」
アルヴィーノの手元から放られた羊皮紙が、乾いた音を立てて机上に滑った。
紫の瞳には、一切の慈悲も、疲労による妥協すらもない。
鋭利な剃刀のような冷徹さで、彼は兄が差し出した決裁書を一蹴した。
「東部国境守備隊の予算補填など、言語道断。彼らが無能ゆえに生じた兵站の不備を、なぜ王室の財政から補填せねばならないのですか。使えない駒は、餓えさせてでも淘汰すべきだ」
「言葉を慎め、アルヴィーノ」
アルフレッドの、低く、しかし芯の通った声がそれを遮る。
彼の碧眼は、連夜の徹夜によって微かに血走っていたが、王としての光を失ってはいなかった。
「彼らが飢えれば、その皺寄せは国境付近の領民にいく。対話も配慮もない切り捨ては、新たな反乱の火種を産むだけだ。私は新王として、自国民の命を不毛な内政の犠牲にするつもりはない。予算は段階的に補填し、同時に監査官を送り込む。これが私の決定だ」
「甘い。反乱を起こす気力すら削ぐのが、統治というものです。貴方のその『善性』が、どれほどの遅延を生んでいるか、自覚しなさい」
「甘いのではない。お前のやり方が、あまりにも血も涙もないだけだ。ここは戦場ではない、アルヴィーノ。お前が更地にした貴族領の戦後処理をしているんだ。お前の壊したものを、私が繋ぎ合わせている。その自覚を持て」
ガチャン、とアルフレッドが羽ペンをインク壺に叩きつけるように戻した。
兄弟でありながら、決定的に相容れない二つの正義。
一方は冷酷なまでに効率と結果を求める「軍師(魔王)」であり、一方は対話と調和を重んじる「新王」である。
本来であれば、水と油のように決して交わることのない二人の思想が、この閉ざされた空間で、逃げ場もなく正面から衝突していた。
夜明けまでに終わるはずだった。
だが、アルヴィーノが「代理国王」の期間に断行した粛清の規模は、あまりにも膨大で、あまりにも根が深すぎた。
一つの領地を潰せば、それに付随する数10の商家が悲鳴を上げ、数100の領民の戸籍が浮く。
それら全ての整合性を取る作業は、まるで砂漠に水を撒き、一粒一粒の砂を数え上げるような、終わりなき無限地獄だった。
――すでに、三日目の夜を迎えている。
施錠された部屋から、二人は一歩も出ていない。
食事は扉の隙間から最低限のものが運び込まれるだけで、アルヴィーノが望むルミとの接触は、完全に断たれていた。
ルミのいない時間は、アルヴィーノにとって精神を蝕む毒でしかなかった。
今頃、あの子はどうしているだろうか。
主のいない私室で、不安に胸を痛めて泣いてはいないだろうか。
それとも、王宮の喧騒の中で、必死に自分の帰りを待っているのだろうか。
手編みの水色のマフラーの感触が、肌恋しい。あの無邪気な声で「アルヴィーノ」と名を呼ばれたい。
その激重な愛と執着が、彼を焦燥させ、イライラを極限まで高めていた。
ルミの元へ帰るための最短ルートがこの書類整理であるにもかかわらず、目の前の「兄」という障害が、いちいち自身の冷徹な裁決に異議を唱え、進行を遅らせてくる。
「……陛下」
アルヴィーノの声は、完全に温度を失っていた。
極大魔法を発動する直前の、大気が軋むような魔圧が室内に満ちていく。
「これ以上の遅延は、私の忍耐の限界を超えます。これほど非効率な作業を続けるくらいなら、この書類に関わる貴族たちを、今すぐ私が一族もろとも『排除』してきましょう。そうすれば、この紙屑はすべて無価値になり、整理する必要もなくなります」
「正気を疑うな、魔王」
アルフレッドは、弟が放つ肌を刺すようなプレッシャーを、真っ向から睨み返した。
かつての、弟の力に怯えていた第一王子ではない。
王としての威厳を纏った彼は、机を両手で激しく叩き、立ち上がった。
「お前がこれ以上暴挙に出るなら、私は今この場で、ルミくんを王都から最も遠い極寒の北方の修道院へ、一級公務として 永久に派遣する命令書を書く。お前が軍師として同行することを一切禁じてな。……私にそれをさせたくないなら、その溢れんばかりの魔力と頭脳を、この書類の精査だけに使いなさい」
「貴様……ッ!」
アルヴィーノの美しい顔が、怒りで歪んだ。
公的な場面での敬称すら投げ捨て、実の兄を殺気交じりの視線で射抜く。
だが、アルフレッドは一歩も引かなかった。胃の腑を焼くようなストレスと寝不足で、彼もまた限界だった。
お互いがお互いの最も嫌がる急所を冷酷に突き合い、淡々と、しかし確実に相手を精神的に削り合っていく。
「……ふん」
冷たい沈黙の後、アルヴィーノは吐き捨てるように息を漏らし、再び別の書類を乱暴にひったくった。
「……南部ルセリア軍の再編成案、却下です。彼らには先日の演習で徹底的な負荷をかけました。今必要なのは再編成ではなく、脱落した無能な兵の即時解雇です」
「却下だ。彼らは過酷な演習に耐え抜いたばかりだ、ここで解雇すれば軍の士気が崩壊する。減給と再訓練に留める」
「甘い。士気など、恐怖と絶対的な規律だけで統治すれば事足ります」
「それはお前のやり方だ。私の国では通用しない。……修正案を書け、アルヴィーノ」
「チッ……」
舌打ちの音が、静かな室内に不快に響く。
お互いに一歩も譲らず、しかし「終わらせる」という目的だけは一致しているがゆえに、作業自体は止まらない。
憎悪に似た苛立ちを羽ペンに込め、鋭い筆跡で羊皮紙を汚していく。
蝋燭の炎が爆ぜ、新たな芯へ取り替えられる。
終わりの見えない書類の山は、依然として机の上に君臨していた。
それはまるで、二人の王族の精神を削り取るために作られた、底なしの沼のようだった。
「……次だ、アルヴィーノ」
「……早く出しなさい、陛下。一秒でも早く、私はここを出る」
互いに視線すら合わせず、ただ冷酷な言葉の応酬と、容赦のない書類の精査だけが続いていく。
王宮の最深部、施錠された密室の中で、二人の天才は互いへのイライラを極限まで募らせながら、終わりのない地獄の底を、淡々と、這い進み続けるのだった。
重厚な静寂が、新王の執務室を支配していた。
窓外から差し込む薄明はすでに夕刻の訪れを告げており、琥珀色の光線が室内に浮遊する微細な塵を照らし出している。
だが、その美しさを享受するだけの余裕は、主たるアルフレッド・レイストールには残されていなかった。
机の上に整然と、しかし凶悪な質量を持って積み上げられた執務書類の山。
それは弟である第二王子アルヴィーノが、二週間の「代理国王」期間中に私情と冷酷さの赴くままに断行した、貴族社会への大粛清の「爪痕」そのものであった。
「――ここまでだ」
アルフレッドは羽ペンを置き、眉間を深く指で揉みほぐした。
碧眼の奥に宿る色彩は、かつての朗らかな第一王子のそれではない。
対話による解決を重んじ、善性のみで国を導こうとした男は、すでに数々の辛酸を舐め、冷徹な現実を知る「王」へと変貌を遂げていた。
だが、どれほど彼が王としての威厳を身につけようとも、肉体的な限界と処理能力には限界がある。
アルフレッドは机上の呼び鈴を鳴らし、控えていた側近に低く冷徹な声を掛けた。
「アルヴィーノをこれへ。――強制召喚だ。拒否は一切認めない。来ないと言うのなら、近衛を総動員してでも連れてこい」
実の弟であり、今や周辺各国から「魔王」と恐れられる軍師を、力ずくで引きずり出す。
それは常人であれば正気を疑う命令だったが、現在のアルフレッドの瞳には、一切の躊躇いがなかった。
---
数刻の後、執務室の重厚な二重扉が静かに開いた。
現れたのは、漆黒の軍服を隙なく着こなした青年、アルヴィーノ・レイストールだった。
少し癖のある紫の髪が、微かな苛立ちを示すかのように揺れている。細く切れ長の深い紫色の瞳は、冷徹な光を湛えたまま、机の上の書類の山と、そこに佇む実の兄を冷ややかに射抜いた。
「……何のご用でしょうか、陛下」
敬語を使ってはいるものの、その声には明らかな不快感が滲んでいた。
彼にとって、この時間は最愛の伴侶であるルミと私室で過ごすはずの、何にも代えがたい時間だったのだ。
それをこのような、かつて嫌悪すら抱いた兄の呼び出しによって遮られた。
不服という二文字では生温いほどの拒絶が、その佇まいから放射されている。
アルフレッドは弟の放つ威圧感を完全に無視し、静かに立ち上がった。
そして、扉の前に立つ近衛兵たちに向けて、厳かに告げる。
「扉を閉めろ。そして、外から施錠しろ。私が許可を出すまで、第二王子をこの部屋から一歩も出してはならない」
ガチャン、と重々しい金属音が響き、錠が下りる。
アルヴィーノの眉が、ピクリと不機嫌そうに跳ね上がった。
「これは何の真似ですか。私は軍師であり、貴方の隠し刃。このような内政の雑務に時間を割くほど、暇ではないのですが」
「暇ではないのは私の方だ、アルヴィーノ」
アルフレッドの声は低く、そして信じがたいほどに冷徹だった。
彼は机の上の膨大な書類の束を、容赦なく叩く。
「君が『代理国王』として玉座に座った二週間、そしてその後にルミくんを連れて行った南方のバカンス。その裏で、どれほどの混沌がこの国に生じたか、まさか忘れたとは言わせない。不正を働いた貴族の更地化、無能な役人の即時解雇、さらには君の暴走を止めようとルミくんに縋った者たちへの永久追放……。これらすべての法的手続き、領地再編、そして新たな人事の決裁が、誰の元に集まると思っている」
「使えない駒を排除しただけです。王国の新体制を確固たるものにするため、むしろ私に感謝していただきたいものですね」
アルヴィーノはふん、と鼻で笑い、傲然と言い放った。
自身の手を汚すことなく国を最適化させたという自負。そこには一抹の罪悪感すら存在しない。
「感謝なら、この処理がすべて終わった後言葉だけでしてやる」
アルフレッドは歩を進め、弟の目の前で足を止めた。
二人の間に、目に見えない火花が散る。
魔力においても武力においても、アルフレッドは弟に劣る。
だが、今の彼には「レイストール新王」としての、退けぬ矜持があった。
「これは命令だ、アルヴィーノ。兄として、そしてお前の主君たる王としてのな。この書類の山をすべて片付け終わるまで、君をこの部屋から出すつもりはない。当然、ルミくんの元へ返すこともな」
ルミ、という名を口にした瞬間、アルヴィーノの紫色の瞳が、極大魔法を発動させる直前のような、昏く危険な光を帯びた。
周囲の空気が、肌を刺すような魔圧で凍りつく。
「……私を脅迫するおつもりですか、陛下。いくら新王とはいえ、私をここに繋ぎ止められると?」
「繋ぎ止められるさ。力ずくではない方法でね」
アルフレッドは懐から、一通の、いや、紐で縛られた厚い一束の封書を取り出し、アルヴィーノの眼前に突きつけた。
それは、王都の有力貴族たちから毎日のように届く、第二王子アルヴィーノへの「婚約の釣書」の山だった。
「お前がどれほど拒もうと、王族としての義務を完全に免除したわけではない。現在もお前との結びつきを求め、見目麗しく高貴な令嬢たちの写真と身上書が、山のように届いている。……これをどうするかは、私の裁量一つだ」
アルヴィーノの表情が、目に見えて険悪なものへと変わる。
「……私がそれらすべてを灰にすると知っていて、そのようなものを出すのですか」
「灰にするのは君の自由だ。だが、私は王として、その中から最も執念深く、最もお前にとって『煩わしい』貴族の令嬢を選び、正式なお見合いの席をセッティングすることができる。公務としてな。……一度や二度ではない。この書類が片付かない腹いせに、週に三度はその席を設けてもいい」
アルフレッドの碧眼には、一切の冗談がなかった。限界を迎えた人間の執念が、そこには宿っていた。
「そうなれば、君がどれほどルミくんを溺愛していようとも、表舞台では『主従』として振る舞わねばならない以上、ルミくんの耳にもその話は届く。彼がどれほど心を痛めるか、君なら容易に想像がつくだろう?」
「――アルフレッド」
ついに敬語が外れ、アルヴィーノの口から地を這うような声が漏れた。
お前、と、かつてのように兄を睨みつける。その感情は、激しい不服と、最愛の存在を盾に取られたことへの憤怒に染まっていた。
ルミを悲しませることだけは、世界の何が滅びようとも許容できない。
アルフレッドは、アルヴィーノの唯一にして絶対の弱点がどこにあるかを、完璧に理解して立ち回っていた。
長い、刺すような沈黙が室内の空気を支配した。
アルヴィーノの拳が、軍服の袖の中で固く握り締められ、微かに震える。
全属性の魔法を操り、禁術すら無詠唱で放つ「魔王」が、ただ一人の男の「脅迫」によって、完全に退路を断たれていた。
「……分かりました」
極夜の底のような声で、アルヴィーノは呟いた。
「そこまでして私を酷使したいのであれば、従いましょう。ただし――」
アルヴィーノはアルフレッドを冷酷に睨み据え、机へと歩み寄った。
「夜明けまでに終わらせます。それ以上、私をあの子から引き離す時間は、一秒たりとも認めない」
「望むところだ。手際だけは、お前が世界で一番信頼できるからね」
アルフレッドは深く息を吐き出し、自らも席に戻った。
始まったのは、二人の王族による冷徹なまでの「戦い」だった。
羽ペンが羊皮紙を引っ掻く硬い音だけが、密室に響き渡る。
アルヴィーノは凄まじい速度で書類に目を通し、容赦のない減点方式で裁可を下していく。
その冷徹な判断力と頭脳は、まさに戦場を統治する軍師のそれだった。
己の私情のため、そして何より、冷たい監獄のようなこの部屋から一刻も早く抜け出し、愛しい伴侶の温もりを抱きしめるために。
魔王は、己を縛る「王の命令」という鎖を噛み締めながら、深夜の執務室で冷たい刃のようにペンを走らせ続けるのだった。
◆
夜明けまでに終わらせる――その傲岸な宣言が、いかに傲慢な机上の空論であったか。
それを思い知らされるのに、さほどの時間は必要なかった。
時計の秒針が刻む重苦しい音だけが、深夜の執務室に響いている。
窓外はとうに深い闇に包まれ、冷徹な静寂が世界を覆っていた。
だが、室内の空気は澱み、摩擦による熱を帯びるように張り詰めている。
「……否決だ」
アルヴィーノの手元から放られた羊皮紙が、乾いた音を立てて机上に滑った。
紫の瞳には、一切の慈悲も、疲労による妥協すらもない。
鋭利な剃刀のような冷徹さで、彼は兄が差し出した決裁書を一蹴した。
「東部国境守備隊の予算補填など、言語道断。彼らが無能ゆえに生じた兵站の不備を、なぜ王室の財政から補填せねばならないのですか。使えない駒は、餓えさせてでも淘汰すべきだ」
「言葉を慎め、アルヴィーノ」
アルフレッドの、低く、しかし芯の通った声がそれを遮る。
彼の碧眼は、連夜の徹夜によって微かに血走っていたが、王としての光を失ってはいなかった。
「彼らが飢えれば、その皺寄せは国境付近の領民にいく。対話も配慮もない切り捨ては、新たな反乱の火種を産むだけだ。私は新王として、自国民の命を不毛な内政の犠牲にするつもりはない。予算は段階的に補填し、同時に監査官を送り込む。これが私の決定だ」
「甘い。反乱を起こす気力すら削ぐのが、統治というものです。貴方のその『善性』が、どれほどの遅延を生んでいるか、自覚しなさい」
「甘いのではない。お前のやり方が、あまりにも血も涙もないだけだ。ここは戦場ではない、アルヴィーノ。お前が更地にした貴族領の戦後処理をしているんだ。お前の壊したものを、私が繋ぎ合わせている。その自覚を持て」
ガチャン、とアルフレッドが羽ペンをインク壺に叩きつけるように戻した。
兄弟でありながら、決定的に相容れない二つの正義。
一方は冷酷なまでに効率と結果を求める「軍師(魔王)」であり、一方は対話と調和を重んじる「新王」である。
本来であれば、水と油のように決して交わることのない二人の思想が、この閉ざされた空間で、逃げ場もなく正面から衝突していた。
夜明けまでに終わるはずだった。
だが、アルヴィーノが「代理国王」の期間に断行した粛清の規模は、あまりにも膨大で、あまりにも根が深すぎた。
一つの領地を潰せば、それに付随する数10の商家が悲鳴を上げ、数100の領民の戸籍が浮く。
それら全ての整合性を取る作業は、まるで砂漠に水を撒き、一粒一粒の砂を数え上げるような、終わりなき無限地獄だった。
――すでに、三日目の夜を迎えている。
施錠された部屋から、二人は一歩も出ていない。
食事は扉の隙間から最低限のものが運び込まれるだけで、アルヴィーノが望むルミとの接触は、完全に断たれていた。
ルミのいない時間は、アルヴィーノにとって精神を蝕む毒でしかなかった。
今頃、あの子はどうしているだろうか。
主のいない私室で、不安に胸を痛めて泣いてはいないだろうか。
それとも、王宮の喧騒の中で、必死に自分の帰りを待っているのだろうか。
手編みの水色のマフラーの感触が、肌恋しい。あの無邪気な声で「アルヴィーノ」と名を呼ばれたい。
その激重な愛と執着が、彼を焦燥させ、イライラを極限まで高めていた。
ルミの元へ帰るための最短ルートがこの書類整理であるにもかかわらず、目の前の「兄」という障害が、いちいち自身の冷徹な裁決に異議を唱え、進行を遅らせてくる。
「……陛下」
アルヴィーノの声は、完全に温度を失っていた。
極大魔法を発動する直前の、大気が軋むような魔圧が室内に満ちていく。
「これ以上の遅延は、私の忍耐の限界を超えます。これほど非効率な作業を続けるくらいなら、この書類に関わる貴族たちを、今すぐ私が一族もろとも『排除』してきましょう。そうすれば、この紙屑はすべて無価値になり、整理する必要もなくなります」
「正気を疑うな、魔王」
アルフレッドは、弟が放つ肌を刺すようなプレッシャーを、真っ向から睨み返した。
かつての、弟の力に怯えていた第一王子ではない。
王としての威厳を纏った彼は、机を両手で激しく叩き、立ち上がった。
「お前がこれ以上暴挙に出るなら、私は今この場で、ルミくんを王都から最も遠い極寒の北方の修道院へ、一級公務として 永久に派遣する命令書を書く。お前が軍師として同行することを一切禁じてな。……私にそれをさせたくないなら、その溢れんばかりの魔力と頭脳を、この書類の精査だけに使いなさい」
「貴様……ッ!」
アルヴィーノの美しい顔が、怒りで歪んだ。
公的な場面での敬称すら投げ捨て、実の兄を殺気交じりの視線で射抜く。
だが、アルフレッドは一歩も引かなかった。胃の腑を焼くようなストレスと寝不足で、彼もまた限界だった。
お互いがお互いの最も嫌がる急所を冷酷に突き合い、淡々と、しかし確実に相手を精神的に削り合っていく。
「……ふん」
冷たい沈黙の後、アルヴィーノは吐き捨てるように息を漏らし、再び別の書類を乱暴にひったくった。
「……南部ルセリア軍の再編成案、却下です。彼らには先日の演習で徹底的な負荷をかけました。今必要なのは再編成ではなく、脱落した無能な兵の即時解雇です」
「却下だ。彼らは過酷な演習に耐え抜いたばかりだ、ここで解雇すれば軍の士気が崩壊する。減給と再訓練に留める」
「甘い。士気など、恐怖と絶対的な規律だけで統治すれば事足ります」
「それはお前のやり方だ。私の国では通用しない。……修正案を書け、アルヴィーノ」
「チッ……」
舌打ちの音が、静かな室内に不快に響く。
お互いに一歩も譲らず、しかし「終わらせる」という目的だけは一致しているがゆえに、作業自体は止まらない。
憎悪に似た苛立ちを羽ペンに込め、鋭い筆跡で羊皮紙を汚していく。
蝋燭の炎が爆ぜ、新たな芯へ取り替えられる。
終わりの見えない書類の山は、依然として机の上に君臨していた。
それはまるで、二人の王族の精神を削り取るために作られた、底なしの沼のようだった。
「……次だ、アルヴィーノ」
「……早く出しなさい、陛下。一秒でも早く、私はここを出る」
互いに視線すら合わせず、ただ冷酷な言葉の応酬と、容赦のない書類の精査だけが続いていく。
王宮の最深部、施錠された密室の中で、二人の天才は互いへのイライラを極限まで募らせながら、終わりのない地獄の底を、淡々と、這い進み続けるのだった。
