主と従者の檻に、世界で一番甘い誓いを
王宮の魔王と純白の天使 〜二ヶ月限りの甘やかなバカンス〜⑤
南国への滞在も、ついに最後の一日となった。
明日には愛しい伴侶と共にレイストール王国へ帰国せねばならない。
だというのに、非情にも最終日の午前中には、まだ消化すべき合同軍事演習の残務メニューが残されていた。
白亜の屋敷の私室。
アルヴィーノは鏡の前で夏用の漆黒の軍服に袖を通しながら、これ以上ないほどに不機嫌なオーラを全身から放っていた。
切れ長の紫の瞳には、冷酷な光がギラギラと渦巻いている。
「……信じられません。滞在最終日の、それもこれほど爽やかな朝を、なぜ私がルセリアの無能どものために割かねばならないのですか。国に帰ったら、この予定を組んだ外務卿の職を解いて僻地へ飛ばさねば気が済みませんね」
「あはは、アルヴィーノ様、またお顔が魔王になってるよ? 大丈夫、俺はこの二ヶ月間、アルヴィーノといっぱい海で遊べて、お祭りにも行けて、もう大満足だもん。だから、最後のお仕事もサクッと終わらせてきてね」
ルミは裾にひまわりが揺れる白いワンピース姿のまま、愛おしそうにアルヴィーノの腕に抱きついた。
この二ヶ月間で、南国の太陽を浴びてほんのり健康的な艶を帯びたルミは、すっかり旅を満喫して満ち足りた表情をしている。
最愛の伴侶の言葉に、アルヴィーノはいくらか殺気を和らげ、その水色の髪に深く口づけを落とした。
「……分かりました。残ったメニューなど、文字通り秒単位で終わらせて戻ります。待っていてください、私の天使」
翻る漆黒のマントと共に、軍師が凄まじい覇気を纏って出撃していくのを見送った後、ルミは楽しげに机の上へ向かった。
そこには、この二ヶ月間でアルヴィーノと一緒に砂浜で拾い集めた、色とりどりの綺麗な貝殻や、ガラスの欠片がずらりと並んでいる。
「よし……アルヴィーノが帰ってくるまでに、頑張って作っちゃおう!」
ルミが決意したのは、この旅行の間、自分をたくさん幸せにしてくれた偉大な軍師へのプレゼント――手作りの「貝殻の勲章」だった。
ルミは小さな手で丁寧に貝殻を選別し、心を込めて細工を始めた。
---
一方、ルセリア共和国の広大な臨海演習場。
そこに張り詰めていたのは、緊張感などという生易しいものではなく、「完全な死の恐怖」だった。
指揮台の上に立つアルヴィーノの周囲からは、地鳴りのような威圧感が立ち上っている。
最終日だというのにルミと離され、一秒ごとに最愛の伴侶との時間を奪われているという事実が、軍師の理性を完璧に引き裂いていた。
すなわち、今日のアルヴィーノはただの「八つ当たりの塊」である。
「――全軍、動きが鈍すぎます。その程度の練度でよく我が国の『刃』たる私を呼び出せましたね。本日は最終日ですので、甘えは一切許しません。死に物狂いでかかってきなさい」
冷徹極まる怒号が響き渡る。ルセリアの将兵たちは、初手から放たれる圧倒的な魔王のプレッシャーに、早くも胃を押さえてガタガタと震えていた。
しかも、今日のアルヴィーノはいつもと違った。
「座学や陣形展開の確認など、もはや時間の無駄です。最終日ですから……この私が直接、貴方方の相手をして差し上げましょう。ほら、得物を構えなさい。使えない駒は盤上から力ずくで叩き割るのみです」
「な、何だって――っ!?」
ルセリアの将軍が顔を真っ青にして絶叫した。世界最強と名高い「魔王」が直接実演の相手をするなど、もはや演習ではなくただの公開処刑である。
しかし、アルヴィーノの紫の瞳は完全に本気だった。逆らえば本当にこの場でルセリア軍が物理的に更地化される。
「ひ、ひいいぃっ! 散開しろ! 盾を構えろぉ!」
悲痛な叫びと共に、兵士たちが一斉にアルヴィーノを包囲するように突撃する。
しかし、軍服のボタンを一つも崩さないまま、アルヴィーノは冷ややかに鼻で笑った。
「――無駄です」
無詠唱で発動する中級の風魔法が、暴風となって数十人の兵士をまとめて吹き飛ばす。
砂煙が舞う中、休む間もなくアルヴィーノの周囲に無数の雷の球体が浮かび上がった。
八つ当たり全開の魔王は、一切の容赦なく、しかし彼らを「ギリギリ死なない程度」の絶妙な威力にコントロールした中級魔法を、容赦なく乱射していく。
「ぐあぁぁっ!?」
「助けてくれ、悪魔だ、本物の悪魔が怒り狂ってる……っ!!」
演習場には、雷撃に焼かれ、水流に流され、土煙に巻かれるルセリア兵の悲鳴と絶望が木霊した。
彼らは完全に、アルヴィーノの「ルミに会えないイライラ」をぶつけるためのサンドバッグと化していた。
あまりにも、あまりにも可哀想な被害者たち。
しかし、彼らが涙を流してどれほど命乞いをしようとも、軍師の猛攻は止まらない。
「あと三分で終わらせます。立てる者は前に出なさい。出ないのなら、今度は極大魔法の直撃をプレゼントしますよ」
「無茶言うな、起き上がれるわけ――ひぃぃっ! やります! やらせてくださいぃぃ!」
仕方なく、極限の恐怖の中で八つ当たりに付き合わされる演習相手。
そして約束の時間の直前。アルヴィーノは冷酷に指先をパチンと鳴らした。
「――これで終いです」
広範囲に放たれた中級の爆炎魔法が、演習場全体を容赦なく包み込む。
凄まじい衝撃波が収まったとき、演習場に立っている者はアルヴィーノただ一人だった。
周囲には、もはや煤まみれになってピクピクと痙攣しているルセリア兵たちの「生ける屍の山」が築かれている。
「……ふん。やはり、私を満足させる相手にもなり得ませんでしたね。時間の無駄でした」
一応の演習終了を確認したアルヴィーノは、汗一つかいていない漆黒の軍服を翻すと、気絶寸前のルセリアの将軍たちに一瞥もくれず、神速の足取りで演習場を後にした。
彼の頭の中は、今や「ルミ」の二文字だけで埋め尽くされていた。
---
「ルミ! 今戻りました!」
勢いよく開けられた私室の扉。
帰還したアルヴィーノを迎えたのは、机の前でパッと嬉しそうに振り返った、最愛の伴侶の笑顔だった。
「おかえりなさい、アルヴィーノ! お仕事、お疲れ様!」
「ああ、ルミ……! 貴方のいない時間は本当に地獄のようでした……っ」
すぐにルミを抱きしめようと長い腕を伸ばしたアルヴィーノだったが、ルミは「待って待って!」とそれを制し、背中の後ろに隠していたものを、誇らしげに両手で差し出した。
「これね、お留守番の間に俺が作ったの。この二ヶ月間、俺をいっぱい幸せにしてくれたアルヴィーノへの、俺からの『勲章』だよ!」
それは、純白の美しい貝殻を中心に、きらきらと光るシーグラスをあしらい、水色のリボンで結ばれた、世界に一つだけの手作りの勲章だった。
それを見た瞬間、先ほどまで演習場で世界を滅ぼさんばかりの殺気を放っていた魔王の表情が、一瞬にして消え去った。
切れ長の紫の瞳が大きく見開かれ、内側から、かつてないほどの激しい感動と溺愛の熱が溢れ出す。
「……っ、ルミ……貴方は、どこまで私を支配すれば気が済むのですか……! 国家が授けるいかなる栄誉ある勲章よりも、貴方が作ってくれたこの貝殻こそが、私の生涯で最高の至宝です」
アルヴィーノはご満悦という言葉すら生温いほどの極上の笑みを浮かべ、その手作りの勲章を愛おしそうに胸に当てた。
そして、もう我慢の限界だとばかりにルミの細い腰を引き寄せ、ベッドへと優しく押し倒した。
「あ、アルヴィーノ、勲章壊れちゃうよ……っ」
「大丈夫です、大切に外しましたから。……さあ、ルミ。明日には帰国せねばならないのですよ? この南国の最後の夜を、一秒たりとも無駄にするわけにはいきません」
漆黒の軍服が床に滑り落ち、ルミの白いワンピースがゆっくりと解かれていく。
開け放たれた窓からは、静かな波の音と、南国の心地よい夜風が吹き込んでいた。
「ルミ、貴方のすべてを私に刻み込んでください……」
「ん……っ、アルヴィーノ……大好き……っ」
何度も、何度も、壊れ物を慈しむように、けれど剥き出しの独占欲と共に重ねられる甘い重吻。
二人は互いの体温を確かめ合うように深く肌を寄せ合い、夜が明けるまで、誰にも邪魔できない甘く濃密な、最後の南国の夜を貪り尽くすのだった。
◆
南国のまばゆい太陽に別れを告げ、二人の乗った馬車はレイストール王国への帰路に就いていた。
窓の外を流れる景色は、徐々に常夏の鮮やかな原色から、見慣れた王都の穏やかな緑へと移り変わっていく。
馬車の心地よい揺れに身を任せながら、ルミは膝の上に大切に抱えた小箱をそっと撫でていた。
中には、アルヴィーノが大切に仕舞い込んだあの「貝殻の勲章」と、旅の終わりに二人で拾ったいくつかの貝殻が入っている。
「……本当に、夢みたいな二ヶ月だったなぁ」
ぽつりと言葉を漏らしたルミの隣で、アルヴィーノはすでに夏用の漆黒の軍服を隙なく纏い、いつもの冷徹な軍師の姿に戻っていた。
しかし、ルミを見つめる紫の瞳だけは、どこまでも深く、穏やかな熱を湛えている。
「楽しんでいただけたなら、無理をして予定を組ませた甲斐がありました。貴方が笑ってくれるなら、私はどのような労苦も厭いません」
「えへへ、ありがとう、アルヴィーノ。……ねぇ、次はどこに行こうか? また、二人きりで遠くに行けるかな」
無邪気に未来を語るルミの細い指先を、アルヴィーノは手袋越しにそっと包み込んだ。
公の場に近い馬車の中だからこそ、呼び方は「アルヴィーノ様」ではなくとも、指先を絡めるだけのささやかな触れ合いが、胸の奥の独占欲を静かに満たしていく。
「貴方の望む場所なら、どこへでも。東方の神秘的な古都でも、あるいは果てしない星空が見える高原でも……。私が必ず、貴方を連れていきましょう」
そんな甘やかな約束を交わしているうちに、馬車は重厚な城門をくぐり、レイストール王宮へと到着した。
---
新王アルフレッドの執務室。
そこには、約二ヶ月ぶりに見る光景が広がっていた。
相変わらずうずたかく積まれた書類の山と、その中心で万年筆を握る金髪碧眼の若き王。
ハネムーンの疲れなどとっくに吹き飛ぶほどの激務に追われているアルフレッドは、弟の姿を見るなり、深く、深い溜め息をついた。
「――戻りました、陛下。南方のルセリア共和国との合同軍事演習、および国境地帯の査察、すべて滞りなく終了いたしました」
アルヴィーノは完璧な臣下の礼をとり、一通の整然とした報告書を机に置いた。
その態度には一点の曇りもなく、冷徹な軍師そのものである。
しかし、アルフレッドは報告書に目を通すより先に、自身の額を押さえて弱り切った声をあげた。
「……滞りなく、かい? アルヴィーノ、僕の元にはすでに、ルセリアの最高指揮官から涙ながらの親書が届いているよ。『レイストールの魔王に、我が軍の誇りと精神を完膚なきまでに叩き割られた』とね。いくら示威行為を兼ねているとはいえ、最終日に中級魔法の乱射で全軍を戦闘不能にするなんて、さすがにやりすぎじゃないか?」
ルセリア側から送られてきた凄惨な現場報告を思い出し、アルフレッドの美しい顔には隠しきれない疲弊と、微かな頭痛の色が滲んでいた。外交のバランスを預かる身としては、弟の容赦のなさは胃を苛む以外の何物でもない。
だが、アルヴィーノは顔色一つ変えず、淡々と、飄々と言い放った。
「私は軍師として、我が国の隠し刃として、やるべきことを成したまでです。諸外国との力の差を明確に示すことこそが、最も確実な抑止力となる。それに、彼らの練度が私の想定を下回っていた、それだけの話です」
「君というやつは……」
すべてはルミとの時間を一秒でも早く確保するための八つ当たりであったことなど、アルフレッドには百も承知だったが、これ以上追及してもこの冷徹な弟が反省などしないことは分かっている。
アルフレッドはそれ以上言葉を続ける気力を失い、「……分かった。ゆっくり休んでおくれ」と、書類の山へ視線を戻すしかなかった。
---
誰もいない二人の私室へと帰還した。
部屋の鍵が厳かに閉まった瞬間、ルミは大きなトランクの前に座り込み、楽しそうに荷解きを始めた。
南国の思い出が詰まった衣服や小物を一つずつ丁寧に取り出していく。
カチャ、と背後で微かな衣擦れの音がした。
振り返るよりも早く、アルヴィーノの長い腕がルミの華奢な身体を後ろからそっと抱きすくめる。
漆黒の軍服から伝わる、慣れ親しんだ主の体温。アルヴィーノはルミの水色の長い髪にそっと顔を埋め、深く息を吸い込んだ。
「……やっと、本当に帰ってこられましたね」
「うん、おかえりなさい、アルヴィーノ。アルフレッド様、ちょっと困ってた?」
「兄上のことはどうでもいいのです。それよりも、ルミ……先ほどの馬車のなかでの約束を」
アルヴィーノはルミの身体を愛おしそうに向かい合わせると、その透き通るような水色の瞳を真っ直ぐに見つめた。
紫の瞳の奥には、剥き出しの、けれどどこか祈るような深い愛が揺れている。
「またいつか、必ず二人で旅に出ましょう。王宮の義務も、周囲の目も届かない場所へ。その時まで、この『主従の仮面』を被る日々を、どうか私と共に耐えてくれますか」
ルミは嬉しそうに微笑むと、アルヴィーノの首元に両腕を回し、その胸にそっと額を預けた。
「耐えるなんてことないよ。俺、アルヴィーノの傍にいられるなら、どんな仮面だって平気だもん。……でも、またいつか、あの青い海を一緒に見に行こうね」
「ええ、約束します、私の天使」
重なり合う二人の影に、王宮の静けさが寄り添う。
表向きは冷徹な「主と従者」に戻ろうとも、その内側で色づいた絆は、誰にも引き裂くことのできない絶対的なものとして、二人の心に深く、深く刻まれていた。
南国への滞在も、ついに最後の一日となった。
明日には愛しい伴侶と共にレイストール王国へ帰国せねばならない。
だというのに、非情にも最終日の午前中には、まだ消化すべき合同軍事演習の残務メニューが残されていた。
白亜の屋敷の私室。
アルヴィーノは鏡の前で夏用の漆黒の軍服に袖を通しながら、これ以上ないほどに不機嫌なオーラを全身から放っていた。
切れ長の紫の瞳には、冷酷な光がギラギラと渦巻いている。
「……信じられません。滞在最終日の、それもこれほど爽やかな朝を、なぜ私がルセリアの無能どものために割かねばならないのですか。国に帰ったら、この予定を組んだ外務卿の職を解いて僻地へ飛ばさねば気が済みませんね」
「あはは、アルヴィーノ様、またお顔が魔王になってるよ? 大丈夫、俺はこの二ヶ月間、アルヴィーノといっぱい海で遊べて、お祭りにも行けて、もう大満足だもん。だから、最後のお仕事もサクッと終わらせてきてね」
ルミは裾にひまわりが揺れる白いワンピース姿のまま、愛おしそうにアルヴィーノの腕に抱きついた。
この二ヶ月間で、南国の太陽を浴びてほんのり健康的な艶を帯びたルミは、すっかり旅を満喫して満ち足りた表情をしている。
最愛の伴侶の言葉に、アルヴィーノはいくらか殺気を和らげ、その水色の髪に深く口づけを落とした。
「……分かりました。残ったメニューなど、文字通り秒単位で終わらせて戻ります。待っていてください、私の天使」
翻る漆黒のマントと共に、軍師が凄まじい覇気を纏って出撃していくのを見送った後、ルミは楽しげに机の上へ向かった。
そこには、この二ヶ月間でアルヴィーノと一緒に砂浜で拾い集めた、色とりどりの綺麗な貝殻や、ガラスの欠片がずらりと並んでいる。
「よし……アルヴィーノが帰ってくるまでに、頑張って作っちゃおう!」
ルミが決意したのは、この旅行の間、自分をたくさん幸せにしてくれた偉大な軍師へのプレゼント――手作りの「貝殻の勲章」だった。
ルミは小さな手で丁寧に貝殻を選別し、心を込めて細工を始めた。
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一方、ルセリア共和国の広大な臨海演習場。
そこに張り詰めていたのは、緊張感などという生易しいものではなく、「完全な死の恐怖」だった。
指揮台の上に立つアルヴィーノの周囲からは、地鳴りのような威圧感が立ち上っている。
最終日だというのにルミと離され、一秒ごとに最愛の伴侶との時間を奪われているという事実が、軍師の理性を完璧に引き裂いていた。
すなわち、今日のアルヴィーノはただの「八つ当たりの塊」である。
「――全軍、動きが鈍すぎます。その程度の練度でよく我が国の『刃』たる私を呼び出せましたね。本日は最終日ですので、甘えは一切許しません。死に物狂いでかかってきなさい」
冷徹極まる怒号が響き渡る。ルセリアの将兵たちは、初手から放たれる圧倒的な魔王のプレッシャーに、早くも胃を押さえてガタガタと震えていた。
しかも、今日のアルヴィーノはいつもと違った。
「座学や陣形展開の確認など、もはや時間の無駄です。最終日ですから……この私が直接、貴方方の相手をして差し上げましょう。ほら、得物を構えなさい。使えない駒は盤上から力ずくで叩き割るのみです」
「な、何だって――っ!?」
ルセリアの将軍が顔を真っ青にして絶叫した。世界最強と名高い「魔王」が直接実演の相手をするなど、もはや演習ではなくただの公開処刑である。
しかし、アルヴィーノの紫の瞳は完全に本気だった。逆らえば本当にこの場でルセリア軍が物理的に更地化される。
「ひ、ひいいぃっ! 散開しろ! 盾を構えろぉ!」
悲痛な叫びと共に、兵士たちが一斉にアルヴィーノを包囲するように突撃する。
しかし、軍服のボタンを一つも崩さないまま、アルヴィーノは冷ややかに鼻で笑った。
「――無駄です」
無詠唱で発動する中級の風魔法が、暴風となって数十人の兵士をまとめて吹き飛ばす。
砂煙が舞う中、休む間もなくアルヴィーノの周囲に無数の雷の球体が浮かび上がった。
八つ当たり全開の魔王は、一切の容赦なく、しかし彼らを「ギリギリ死なない程度」の絶妙な威力にコントロールした中級魔法を、容赦なく乱射していく。
「ぐあぁぁっ!?」
「助けてくれ、悪魔だ、本物の悪魔が怒り狂ってる……っ!!」
演習場には、雷撃に焼かれ、水流に流され、土煙に巻かれるルセリア兵の悲鳴と絶望が木霊した。
彼らは完全に、アルヴィーノの「ルミに会えないイライラ」をぶつけるためのサンドバッグと化していた。
あまりにも、あまりにも可哀想な被害者たち。
しかし、彼らが涙を流してどれほど命乞いをしようとも、軍師の猛攻は止まらない。
「あと三分で終わらせます。立てる者は前に出なさい。出ないのなら、今度は極大魔法の直撃をプレゼントしますよ」
「無茶言うな、起き上がれるわけ――ひぃぃっ! やります! やらせてくださいぃぃ!」
仕方なく、極限の恐怖の中で八つ当たりに付き合わされる演習相手。
そして約束の時間の直前。アルヴィーノは冷酷に指先をパチンと鳴らした。
「――これで終いです」
広範囲に放たれた中級の爆炎魔法が、演習場全体を容赦なく包み込む。
凄まじい衝撃波が収まったとき、演習場に立っている者はアルヴィーノただ一人だった。
周囲には、もはや煤まみれになってピクピクと痙攣しているルセリア兵たちの「生ける屍の山」が築かれている。
「……ふん。やはり、私を満足させる相手にもなり得ませんでしたね。時間の無駄でした」
一応の演習終了を確認したアルヴィーノは、汗一つかいていない漆黒の軍服を翻すと、気絶寸前のルセリアの将軍たちに一瞥もくれず、神速の足取りで演習場を後にした。
彼の頭の中は、今や「ルミ」の二文字だけで埋め尽くされていた。
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「ルミ! 今戻りました!」
勢いよく開けられた私室の扉。
帰還したアルヴィーノを迎えたのは、机の前でパッと嬉しそうに振り返った、最愛の伴侶の笑顔だった。
「おかえりなさい、アルヴィーノ! お仕事、お疲れ様!」
「ああ、ルミ……! 貴方のいない時間は本当に地獄のようでした……っ」
すぐにルミを抱きしめようと長い腕を伸ばしたアルヴィーノだったが、ルミは「待って待って!」とそれを制し、背中の後ろに隠していたものを、誇らしげに両手で差し出した。
「これね、お留守番の間に俺が作ったの。この二ヶ月間、俺をいっぱい幸せにしてくれたアルヴィーノへの、俺からの『勲章』だよ!」
それは、純白の美しい貝殻を中心に、きらきらと光るシーグラスをあしらい、水色のリボンで結ばれた、世界に一つだけの手作りの勲章だった。
それを見た瞬間、先ほどまで演習場で世界を滅ぼさんばかりの殺気を放っていた魔王の表情が、一瞬にして消え去った。
切れ長の紫の瞳が大きく見開かれ、内側から、かつてないほどの激しい感動と溺愛の熱が溢れ出す。
「……っ、ルミ……貴方は、どこまで私を支配すれば気が済むのですか……! 国家が授けるいかなる栄誉ある勲章よりも、貴方が作ってくれたこの貝殻こそが、私の生涯で最高の至宝です」
アルヴィーノはご満悦という言葉すら生温いほどの極上の笑みを浮かべ、その手作りの勲章を愛おしそうに胸に当てた。
そして、もう我慢の限界だとばかりにルミの細い腰を引き寄せ、ベッドへと優しく押し倒した。
「あ、アルヴィーノ、勲章壊れちゃうよ……っ」
「大丈夫です、大切に外しましたから。……さあ、ルミ。明日には帰国せねばならないのですよ? この南国の最後の夜を、一秒たりとも無駄にするわけにはいきません」
漆黒の軍服が床に滑り落ち、ルミの白いワンピースがゆっくりと解かれていく。
開け放たれた窓からは、静かな波の音と、南国の心地よい夜風が吹き込んでいた。
「ルミ、貴方のすべてを私に刻み込んでください……」
「ん……っ、アルヴィーノ……大好き……っ」
何度も、何度も、壊れ物を慈しむように、けれど剥き出しの独占欲と共に重ねられる甘い重吻。
二人は互いの体温を確かめ合うように深く肌を寄せ合い、夜が明けるまで、誰にも邪魔できない甘く濃密な、最後の南国の夜を貪り尽くすのだった。
◆
南国のまばゆい太陽に別れを告げ、二人の乗った馬車はレイストール王国への帰路に就いていた。
窓の外を流れる景色は、徐々に常夏の鮮やかな原色から、見慣れた王都の穏やかな緑へと移り変わっていく。
馬車の心地よい揺れに身を任せながら、ルミは膝の上に大切に抱えた小箱をそっと撫でていた。
中には、アルヴィーノが大切に仕舞い込んだあの「貝殻の勲章」と、旅の終わりに二人で拾ったいくつかの貝殻が入っている。
「……本当に、夢みたいな二ヶ月だったなぁ」
ぽつりと言葉を漏らしたルミの隣で、アルヴィーノはすでに夏用の漆黒の軍服を隙なく纏い、いつもの冷徹な軍師の姿に戻っていた。
しかし、ルミを見つめる紫の瞳だけは、どこまでも深く、穏やかな熱を湛えている。
「楽しんでいただけたなら、無理をして予定を組ませた甲斐がありました。貴方が笑ってくれるなら、私はどのような労苦も厭いません」
「えへへ、ありがとう、アルヴィーノ。……ねぇ、次はどこに行こうか? また、二人きりで遠くに行けるかな」
無邪気に未来を語るルミの細い指先を、アルヴィーノは手袋越しにそっと包み込んだ。
公の場に近い馬車の中だからこそ、呼び方は「アルヴィーノ様」ではなくとも、指先を絡めるだけのささやかな触れ合いが、胸の奥の独占欲を静かに満たしていく。
「貴方の望む場所なら、どこへでも。東方の神秘的な古都でも、あるいは果てしない星空が見える高原でも……。私が必ず、貴方を連れていきましょう」
そんな甘やかな約束を交わしているうちに、馬車は重厚な城門をくぐり、レイストール王宮へと到着した。
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新王アルフレッドの執務室。
そこには、約二ヶ月ぶりに見る光景が広がっていた。
相変わらずうずたかく積まれた書類の山と、その中心で万年筆を握る金髪碧眼の若き王。
ハネムーンの疲れなどとっくに吹き飛ぶほどの激務に追われているアルフレッドは、弟の姿を見るなり、深く、深い溜め息をついた。
「――戻りました、陛下。南方のルセリア共和国との合同軍事演習、および国境地帯の査察、すべて滞りなく終了いたしました」
アルヴィーノは完璧な臣下の礼をとり、一通の整然とした報告書を机に置いた。
その態度には一点の曇りもなく、冷徹な軍師そのものである。
しかし、アルフレッドは報告書に目を通すより先に、自身の額を押さえて弱り切った声をあげた。
「……滞りなく、かい? アルヴィーノ、僕の元にはすでに、ルセリアの最高指揮官から涙ながらの親書が届いているよ。『レイストールの魔王に、我が軍の誇りと精神を完膚なきまでに叩き割られた』とね。いくら示威行為を兼ねているとはいえ、最終日に中級魔法の乱射で全軍を戦闘不能にするなんて、さすがにやりすぎじゃないか?」
ルセリア側から送られてきた凄惨な現場報告を思い出し、アルフレッドの美しい顔には隠しきれない疲弊と、微かな頭痛の色が滲んでいた。外交のバランスを預かる身としては、弟の容赦のなさは胃を苛む以外の何物でもない。
だが、アルヴィーノは顔色一つ変えず、淡々と、飄々と言い放った。
「私は軍師として、我が国の隠し刃として、やるべきことを成したまでです。諸外国との力の差を明確に示すことこそが、最も確実な抑止力となる。それに、彼らの練度が私の想定を下回っていた、それだけの話です」
「君というやつは……」
すべてはルミとの時間を一秒でも早く確保するための八つ当たりであったことなど、アルフレッドには百も承知だったが、これ以上追及してもこの冷徹な弟が反省などしないことは分かっている。
アルフレッドはそれ以上言葉を続ける気力を失い、「……分かった。ゆっくり休んでおくれ」と、書類の山へ視線を戻すしかなかった。
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誰もいない二人の私室へと帰還した。
部屋の鍵が厳かに閉まった瞬間、ルミは大きなトランクの前に座り込み、楽しそうに荷解きを始めた。
南国の思い出が詰まった衣服や小物を一つずつ丁寧に取り出していく。
カチャ、と背後で微かな衣擦れの音がした。
振り返るよりも早く、アルヴィーノの長い腕がルミの華奢な身体を後ろからそっと抱きすくめる。
漆黒の軍服から伝わる、慣れ親しんだ主の体温。アルヴィーノはルミの水色の長い髪にそっと顔を埋め、深く息を吸い込んだ。
「……やっと、本当に帰ってこられましたね」
「うん、おかえりなさい、アルヴィーノ。アルフレッド様、ちょっと困ってた?」
「兄上のことはどうでもいいのです。それよりも、ルミ……先ほどの馬車のなかでの約束を」
アルヴィーノはルミの身体を愛おしそうに向かい合わせると、その透き通るような水色の瞳を真っ直ぐに見つめた。
紫の瞳の奥には、剥き出しの、けれどどこか祈るような深い愛が揺れている。
「またいつか、必ず二人で旅に出ましょう。王宮の義務も、周囲の目も届かない場所へ。その時まで、この『主従の仮面』を被る日々を、どうか私と共に耐えてくれますか」
ルミは嬉しそうに微笑むと、アルヴィーノの首元に両腕を回し、その胸にそっと額を預けた。
「耐えるなんてことないよ。俺、アルヴィーノの傍にいられるなら、どんな仮面だって平気だもん。……でも、またいつか、あの青い海を一緒に見に行こうね」
「ええ、約束します、私の天使」
重なり合う二人の影に、王宮の静けさが寄り添う。
表向きは冷徹な「主と従者」に戻ろうとも、その内側で色づいた絆は、誰にも引き裂くことのできない絶対的なものとして、二人の心に深く、深く刻まれていた。
