主と従者の檻に、世界で一番甘い誓いを

王宮の魔王と純白の天使 〜二ヶ月限りの甘やかなバカンス〜①

夏の陽光が、レイストール王宮の白亜の回廊を白々と焼き尽くしていた。

うだるような熱気が大気を歪ませ、普段は涼やかな風が吹き抜けるはずの庭園も、今はただ沈黙して熱を蓄えている。
そんな灼熱の午後、王宮の片隅にある日陰のテラスで、ルミは腰まである水色の長い髪をふわりと揺らし、冷たい果実水を口に含んでいた。

「――まあ、海を、ですか?」

涼やかなガラスの擦れ合う音とともに声をあげたのは、長年この王宮に仕え、ルミの良き理解者でもある年配の侍女マルタだった。
ルミは白いロリータ服の裾を小さく整えながら、水色の瞳をきらきらと輝かせて頷く。

「うん! マルタ、海って本当に、見渡す限り全部が水なの? 触るとしょっぱくて、お日様の光を浴びると、宝石みたいにキラキラ光るって本当?」
「ええ、本当でございますよ。私の故郷は南方の海岸線に近うございましたが……夏の海はそりゃあ美しいものです。波の音を聴いているだけで、この不快な暑さも忘れてしまうほどに心が洗われますよ」

マルタが懐かしむように微笑みながら語る「海」の情景は、研究所という暗い檻の中で育ち、王宮の限られた世界しか知らないルミにとって、おとぎ話よりも魅力的な響きを持っていた。
見渡す限りの青。
寄せては返す波の音。
想像するだけで、じっとりと肌を打つ夏の暑さが和らぐような気がした。

「いいなぁ……俺、行ってみたい。アルヴィーノと一緒に、その海っていうのを見てみたいなぁ……」

ぽつりと呟いたルミの言葉は、熱を帯びた風に溶けて消えた。

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その日の夕暮れ。
気の遠くなるような軍務と、いまだ混迷を極める内政の処理を終えたアルヴィーノが、私室へと帰還した。
漆黒の軍服は、この酷暑の中では見るだけでも息が詰まりそうなほど重厚だが、彼の美貌には汗一つ浮いていない。
しかし、その切れ長の紫の瞳には、一日の大半を「ルミ以外の有象無象」に費やしたことへの明確な不機嫌さと疲労が滲んでいた。

「――ただいま戻りました、私の天使」

カチャリと扉の鍵が閉まった瞬間、アルヴィーノの声音から「慈悲なき軍師」の冷徹さが霧散する。
出迎えたルミが駆け寄るよりも早く、アルヴィーノは長い腕を伸ばして愛しい伴侶をその胸に抱きすくめた。
衣服越しに伝わるルミの体温と、水色の髪から漂う仄甘い香りが、乾ききったアルヴィーノの心を急速に潤していく。

「おかえりなさい、アルヴィーノ。今日もお仕事大変だった?」
「貴方のいない空間に一刻でも長く留まること自体が苦行です。……ああ、やはり貴方に触れている時だけが、私の幸福だ」

容赦なく注がれる激重な愛の言葉に、ルミは嬉しそうに頬を染め、アルヴィーノの背中に腕を回した。
ひとしきりルミの首筋に顔を埋めて「補給」を終えたアルヴィーノは、ふと、腕の中の少年が何かを言い淀んでいることに気づく。

「どうしました、ルミ。私に何かねだりたいことでも? 貴方の望みなら、何であれ叶えると誓いましょう」
「あのね……怒らないで聞いてくれる?」

ルミはアルヴィーノの胸に額を預けたまま、少し気恥ずかしそうに口を開いた。

「今日ね、マルタから『海』のお話を聞いたんだ。南の方にある、すっごく青くて、キラキラしてて、涼しい場所。……俺、アルヴィーノと一緒に、その海を見てみたい。……だめ、かな?」

上目遣いに見つめてくる水色の瞳。
その瞬間、アルヴィーノの中で何かが決定した。
ルミにとってはほんのささやかな憧れからの「おねだり」だったが、溺愛の度が過ぎる魔王にとって、それは至上命題に他ならない。

「だめなわけがないでしょう。貴方が望むなら、私は世界を青く染め変えてでも貴方に海を捧げます」
「えっ、あ、そこまでしなくていいんだけど……!」

真顔で恐ろしいことをのたまうアルヴィーノにルミが慌てたものの、時すでに遅し。
冷酷非情にして、最愛の伴侶のためなら国家の都合すら容易く踏み躙る軍師の行動力は、あまりにも迅速だった。

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翌朝。
新王アルフレッドの執務室の扉は、ノックの音もそこそこに、背筋が凍るような威圧感とともに押し開けられた。

「兄上。南方のルセリア共和国との合同軍事演習、および国境地帯の査察を私に命じてください。本日、これより出発します」

入室するなり、机に一通の「遠征嘆願書」を叩きつけたアルヴィーノを前に、アルフレッドは持っていた万年筆をぽろりと落とした。
金髪碧眼の麗しき新王の目の下には、くっきりと濃い隈が刻まれている。
前回の「代理国王事件」でアルヴィーノが更地にした主要貴族たちの戦後処理が、いまだに終わっていないのだ。

「……待ってくれ、アルヴィーノ。南方のルセリア? あそこは今、我が国との関係も安定しているし、合同演習の予定なんて半年先のはずだが……」
「前倒しにします。あの地域の治安維持には、私の『魔王』としての威を直に見せつけておくのが最適解だ。異論は認めません」

一切の妥協を許さない、冷徹極まる紫の瞳。
しかし、長年の付き合いであるアルフレッドには、その傲岸不遜な態度の裏にある「真の目的」が透けて見えていた。
ルセリア共和国といえば、大陸でも有数の美しい海岸線を持つ、常夏の海洋国家である。
アルフレッドは深く、深いため息をつき、頭を抱えた。

「……ルミくんだね? ルミくんが『海を見たい』とでも言ったんだろう?」
「察しが良くて助かります、陛下。ならば話は早い、すぐに可決を」
「ふざけないでおくれよ!!」

ついにアルフレッドが叫んだ。
それは王としての威厳をかなぐり捨てた、一人の兄としての、そして過労死寸前の男の悲痛な叫びだった。

「君が留守中にやらかしてくれた大粛清のせいで、僕がどれだけ不眠不休で働いているか分かっているのかい!? 地方貴族の宥め役に、新しい役人の選定、これ全部僕がやってるんだよ!?」
「それは王である貴方の仕事です」
「僕だってハネムーンの余韻も吹き飛んで、今すぐすべてを放り出してその綺麗な海に行きたいくらいだよ! なのに君は、自分だけルミくんを連れて二度目の新婚旅行に行こうだなんて……! 頼むから、せめてこの書類の山が片付くまで待ってくれ!」

アルフレッドがここまで感情を露わにするのは珍しかった。
まさに胃痛が限界突破している証拠である。
だが、慈悲なき軍師の心には、兄の涙ながらの訴えなど微塵も響かない。

「却下します。夏の海は今しかありません。私の天使が今、行きたいと仰ったのです。それを引き延ばすなど、万死に値する」
「万死するのは僕の胃だよ!!」

アルヴィーノは冷ややかに鼻で笑うと、すっと腰の剣に手をかけた。
その周囲の大気が、パチパチと極大魔法の予兆である濃密な魔力で歪み始める。

「……兄上。私は『願い出ている』のではありません。『通告』しているのです。もしこれ以上、私のルミへの奉仕を邪魔立てするというのなら……この王宮を、一度本当の『更地』に落とさねばならなくなりますが?」
「っ……!?」

笑顔のまま、一切の冗談抜きで「王宮破壊」を仄めかす弟の眼光に、アルフレッドは戦慄した。
魔力においても武力においても、この「魔王」に勝てる者はこの国に存在しない。
そして今のアルヴィーノは、ルミのためなら本当にその禁忌の力を振るいかねない狂気を孕んでいる。

「……わ、分かった。分かったから、魔法の構築を解いてくれ……。許可する、許可するから……!」

アルフレッドは震える手で承認の印を押し、書類を差し出した。
それを受け取ったアルヴィーノは、先ほどまでの凶悪な魔力を一瞬で霧散させ、完璧に洗練された一礼を披露する。

「賢明なご判断です、陛下。では、二ヶ月ほど留守にしますので。……ああ、追ってルミの分の特製水着の費用を国庫に請求しておきます。では」
「二ヶ月!? 演習は一週間で終わるよね!? あと水着って何だい、公費で落とせるわけないだろう――ちょっと、アルヴィーノ!!」

主の悲鳴を置き去りに、漆黒の軍師は翻るマントとともに、軽やかな足取りで執務室を後にした。

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数日後。
王宮の喧騒と、涙目で書類の山に埋もれるアルフレッドを遥か後方に残し、二人は南国へと向かう馬車の中にいた。
窓の外には、だんだんと高くなる空と、潮の香りを孕んだ暖かい風が吹き込み始めている。

「本当に、海に行けるんだね……! アルフレッド様、怒ってなかった?」

隣に座るルミが、嬉しそうに窓の外を指差しながら尋ねる。その純粋な水色の瞳には、これから始まる旅への期待だけが満ちていた。
アルヴィーノはルミの腰を引き寄せ、その額に優しく口づけを落とす。

「ええ、兄上も『私の代わりにルミくんを存分に楽しませてやってくれ』と、涙を流して快く送り出してくれましたよ。何も心配することはありません、私の天使」
「そっかぁ! アルフレッド様、やっぱりいいお兄ちゃんだね。帰ったら、たくさんお土産買ってこなくちゃ!」

無邪気に笑うルミの横顔を見つめながら、アルヴィーノは満足げに目を細めた。
王宮がどれほど混乱しようとも、兄の胃壁がどれほど崩壊しようとも、この愛らしい伴侶の笑顔を守るためなら、いくらでも「魔王」になってみせる。
漆黒の軍服の下、アルヴィーノはルミの手を強く、深く握り締めた。
二人の前には、間もなく、どこまでも広がる青い海が姿を現そうとしていた。
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