主と従者の檻に、世界で一番甘い誓いを

凍てつく国境(さいはて)の、甘き新婚旅行(ハネムーン)④

軍議を終え、王宮の最奥にある王の執務室。
他の将兵や文官たちがすべて退室し、重厚な扉が完全に閉められると、室内の空気はふっと和らいだ。
​アルフレッドは王の衣装の肩を回しながら椅子の背にもたれかかり、何とも言えない楽しげな笑みを浮かべた。

​「いやぁ、お疲れ様、アルヴィーノ。北方の国境掌握に関する正式な報告書、確かに受け取ったよ。完璧な仕事だ、さすが僕の冷たき刃だね」
​「……当然のことをしたまでです、兄上」

​アルヴィーノは漆黒の軍服の襟元を正し、冷徹な声音で応じる。
しかし、アルフレッドの視線が自分の首元――軍服の隙間から僅かに覗く、水色のマフラー――に注がれていることに気づき、僅かに眉をひそめた。

​「それでさ、報告書の内容は文句なしなんだけど……さっきの廊下での『報告』も、なかなか刺激的だったよ」

​ニヤニヤと意地の悪い笑みを隠そうともせず、アルフレッドが身を乗り出す。

​「『アルヴィーノ!』だってさ。いやー、僕も一瞬耳を疑っちゃった。あの冷酷無比な軍師様が、王宮の真ん中で可憐な男の娘の従者くんに呼び捨てにされてるんだ。周りの将兵たちの顔、見た? みんな生きた心地がしてなかったよ」
​「……兄上」

​アルヴィーノは細く切れ長の紫の瞳を険しく尖らせた。
普段なら並の人間が気絶するほどの威圧感を放つところだが、相手はすべてを知っている実の兄だ。
しかも、自分がルミを甘やかし、直轄領でどんな風に過ごさせていたのかが完全に露呈してしまっている。
​さすがのアルヴィーノも、耳の後ろが僅かに熱くなるのを感じ、いたたまれないように視線を斜め下へと外した。

​「……ルミが気を抜いていただけです。あちらの地では、二人きりの時間はそのように呼ぶようにしてましたので」
​「そっかー。でもまさかあんな大勢の前で呼ばれるなんて思ってもみなかったでしょ?」
「ええ」
「そうだろうね。でも正直なところ、嬉しかった、かな?」

​図星を突かれ、アルヴィーノは小さく舌打ちをしたい衝動に駆られた。
否定などできるはずがなかった。
王宮内でのあのハプニングは確かに肝が冷えたし、ルミをパニックにさせてしまったのは可哀想だったが、大廊下に響いた「アルヴィーノ!」という無邪気な声は、彼の胸の奥をこれ以上ないほど甘く満たしたのだ。

​「……嬉しかったですよ。何か問題でも?」

​観念して開き直った弟の言葉に、アルフレッドは「うわぁ、直球だ」と、呆れたように、けれど嬉しそうに声を立てて笑った。

​「問題なんてないさ。君がルミくんのおかげで、ただの『慈悲なき魔王』にならずに済んでるんだから、兄としては大歓迎だよ。王宮の連中もみんな『あ、そっか……そういうことか』って生暖かい目で納得してたしね。僕が上手く揉み消しておいたから、ルミくんにも気に病まないように伝えておいてよ」
​「……配慮には感謝します」

​アルヴィーノは一つ、深く息を吐き、乱れた心を落ち着かせた。
そして、懐から一枚のチェスの駒を取り出し、アルフレッドの薔薇木の机の上へとコツン、と静かに置いた。
​その紫の瞳が、ふっと冷徹で、なおかつ強欲な光を宿す。

​「――ところで、兄上」
​「ん? 何だい、急に真面目な顔をして」

​アルヴィーノは机の上の駒を指先で弄びながら、じっと兄を見据えた。

​「次の遠征、あるいは地方への領地査察の予定は、いつになりそうですか?」
​「……えっ?」
​「私の『私属の従者』を伴い、王都の貴族どもの目が完全に届かない場所へ赴く必要のある任務のことです。明日からでも構いませんが。どこか不穏な動きを見せている国境や、改革の必要な直轄領はありませんか?」

​まさかの逆要求に、アルフレッドは一瞬だけ目を丸くし――それから、顔を引きつらせて苦笑した。

​「おいおい、帰ってきたばかりじゃないか。それに僕、君たちがいない二ヶ月間、連日届くお見合いの釣書を大義名分並べて握り潰すのに死ぬほど奔走したんだよ? 少しは僕を休ませてほしいよ」
​「兄上の政務の都合など、私の知ったことではありません。……ルミと誰の目も気にせず過ごせる場所があるのなら、私は喜んで貴方の刃となり、どんな敵でも灰にしてみせます」

​真顔で恐ろしいほどの熱意を語る弟に、アルフレッドは深く、重い溜息をついた。
かつての憎み合っていた頃が嘘のように、今の弟はルミのことになると容易く我が儘な狂犬になる。

​「まだ検討中だよ、検討中。そんなにすぐ次の遠征なんて作ったら、それこそ貴族たちに怪しまれるだろう? ……まぁ、今回の北方の成果があまりにも見事だったから、いずれまた、アルヴィーノにしか頼めない大きな任務を作ってあげるよ」
​「……なるべく、早めにお願いします」

​アルヴィーノは完璧な臣下としての礼を執り、満足したように翻って執務室を後にした。
​扉が閉まる音を聞きながら、アルフレッドは「本当に、人使いの荒い弟だ……」と呟き、机の上の書類に視線を落とした。
​一方、足早に廊下を進むアルヴィーノの胸中にあるのは、すでに次の任務の戦略でもなく、兄への態度でもなかった。
ただ、さっき王宮で真っ赤になって震えていた、愛しい伴侶の顔だけだ。

​(ルミ……。今夜は部屋で、あの声で、気が済むまで私の名前を呼んでもらいましょう)

​漆黒の軍服を翻し、冷酷無比な軍師は、己の愛する伴侶が待つ自室へと、少しだけ歩調を速めて向かうのだった。

アルヴィーノが王の執務室でアルフレッドと対峙しているその頃、第二王子の広大な私室では、ルミがパニックのどん底にいた。

​「どうしよう……っ、どうしよう……!!」

​ルミは水色の長い髪をくしゃくしゃにかきむしりながら、部屋の中を右往左往していた。
ベッドの上には、直轄領から持ち帰った荷物がまだ半分ほど残されたままだが、とても荷解きに集中できる状態ではない。
​大廊下で、あろうことか周囲に将兵がたくさんいる前で、大好きな彼を呼び捨てにしてしまった。
あの瞬間の、周囲の時が止まったかのような静寂と、将兵たちの驚愕の表情が脳裏に焼き付いて離れない。

​(俺のせいで、アルヴィーノが『不敬な従者をのさばらせている』って言われちゃうかもしれない……! お兄様にだって、迷惑をかけちゃったかも……っ)

​王都に戻ったら完璧な主従を演じる。
そう二人で約束したはずなのに、直轄領での甘く幸せな二ヶ月間に慣れきってしまったせいで、一瞬の気の緩みが取り返しのつかない事態を招いてしまった。
ルミはベッドのフチに腰掛け、自身の白いロリータ服の裾をぎゅっと握りしめて、今にも泣き出しそうな顔でうつむいた。
​その時、カチャリと静かに鍵が開き、重厚な扉が開いた。

​「ただいま戻りました、ルミ」

​入ってきたのは、漆黒の豪華な軍服を纏ったアルヴィーノ。
ルミは弾かれたように立ち上がると、一目散に彼の元へと駆け寄り、その場で深く頭を下げた。

​「アルヴィーノ様……っ! ごめんなさい、ごめんなさい……っ! 俺、あんなところで、いつもの癖で、アルヴィーノって呼んじゃって……! 王子様の立場を悪くしちゃったよね……っ?」

​涙をボロボロと溢れさせながら必死に謝るルミ。
しかし、アルヴィーノはそんなルミの細い肩を優しく掴むと、それ以上の言葉を優しい口づけで制した。

​「んむ……っ、」

​突然重ねられた唇の温もりに、ルミの水色の瞳が丸くなる。
ゆっくりと唇を離したアルヴィーノは、困ったように、けれどこの上なく甘く目を細めて、ルミの涙を大きな親指でそっと拭った。

​「謝る必要などどこにもありませんよ、ルミ。……むしろ、私はとても嬉しかった」
​「え……? で、でも、みんなすごくびっくりしてたよ?」
​「気にする必要はありません。兄上も『長旅の疲れによる聞き間違いだ』と、完璧に周囲を黙らせてくれましたから。王宮の者たちも、表立って私に何かを言えるような命知らずはいません」

​アルヴィーノはルミの腰に腕を回し、そのまま軽々と抱き上げてベッドへと運んだ。シーツの上に水色の長い髪が広がり、アルヴィーノはその上に覆いかぶさるようにして、ルミを見つめる。

​「それよりも、王宮の真ん中で、貴方が私の名前を呼んでくれた。……その事実だけで、私はあのはびこる有象無象の貴族どもの相手を、いくらでも耐えられる気がするのです」
​「アルヴィーノ……」
​「さあ、ここからは二人だけの時間です。王都の『主従の仮面』など、脱ぎ捨ててしまいなさい。……もう一度、私の名前を」

​至近距離で見つめてくる深い紫の瞳。
その熱い独占欲に、ルミの胸の奥がキュンと甘く疼いた。
ルミは照れくさそうに頬を赤らめながらも、彼の首に細い腕を絡める。

​「……アルヴィーノ。大好き、アルヴィーノ……っ」
​「ええ、私も愛しています、ルミ」

​夜が更けるにつれ、二人の部屋は暖炉の炎と、お互いを求め合う熱気で満たされていった。
王都の喧騒も、昼間のハプニングも、すべては二人の深い愛のスパイスに過ぎない。
漆黒の軍服と白いロリータ服がシーツの上に重なり、幾度も幾度も、お互いが唯一無二の【伴侶】であることを確かめ合うように、甘い口づけと愛の言葉が交わされた。
​◇
​深夜。
激しい情熱の余韻が残るベッドの中で、ルミはアルヴィーノの逞しい胸元に心地よく身を預けていた。
アルヴィーノの長い指先が、ルミの水色の髪を愛おしそうに何度も梳いている。

​「ねぇ、アルヴィーノ」
​「何ですか、ルミ」
​「王都に帰ってきて、昼間はちょっと怖かったけど……でも、夜にこうやってアルヴィーノと一緒になれるなら、俺、明日からも完璧な従者さん、頑張れる気がする」

​ルミがふにゃりと無邪気な笑顔を浮かべると、アルヴィーノは愛おしさが限界を超えたように、その額に優しく口づけを落とした。

​「ええ。貴方がそう言ってくれるなら、私も『王の刃』として、どんな泥沼も完璧に切り裂いてみせましょう。……それに、兄上にはもう、次の遠征をなるべく早く用意するよう、強く釘を刺しておきましたから」
​「あはは! 本当に? アルフレッド様、また困っちゃうね」

クスクスと笑い合う二人の声が、静かな室内に溶けていく。
​たとえ昼間は【主従】という冷たい仮面を被らなければならなくても、夜の闇が訪れれば、二人は世界で一番深く結ばれた【伴侶】に戻る。
その揺るぎない真実がある限り、二人の幸福が脅かされることは決してない。

​「おやすみなさい、アルヴィーノ」
​「おやすみなさい、私の可愛いルミ」

​繋いだ手の温もりを確かめ合いながら、二人は深く、心地よい眠りへと落ちていった。
王都の夜の静寂の中、愛し合う二人の物語は、これからも永遠に、甘く温かく続いていく――。
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