主と従者の檻に、世界で一番甘い誓いを

凍てつく国境(さいはて)の、甘き新婚旅行(ハネムーン)③

甘く穏やかだった直轄領での日々に、突如として冷たい影が差し込んだ。
​原因は、北方の国境を挟んだ隣国の、不穏かつ急速な軍隊の集結だった。
アルフレッドが懸念していた「他国の影」が、ついに具体的な脅威となって動き出したのだ。
​午前中の演習を終えて執務室に戻ってきたアルヴィーノは、漆黒の豪華な軍服のボタンを緩めることもなく、机の上に広げられた巨大な国境地図をじっと見つめていた。
その細く切れ長の紫の瞳は、ここ数日、戦場を統べる冷酷な軍師のそれへと完全に逆戻りしている。

​「……不可解ですね。この兵力配置では、我が方の防壁を突破することは不可能なはず。何を企んでいる……」

​チェスの駒を地図の上に置きながら、アルヴィーノは滅多に見せない険しい表情で眉をひそめていた。
禁術である極大魔法すら操る彼であっても、敵の意図が見えない現状は、盤面を膠着させる困難な壁となっていた。
​完璧な従者として部屋の隅に控えていたルミは、そんなアルヴィーノの姿を、胸が締め付けられるような思いで見つめていた。
手元では、あの夜から少しずつ編み進めていた水色の毛糸に針を通している。
最初は不格好だった編み目も、今では随分と綺麗に揃うようになっていた。

​(アルヴィーノ、すごく難しいお顔をしてる……。俺、魔法の使い方も分からないし、チェスも弱いから、お仕事のことは何も助けてあげられないなぁ……)

​ルミは心配そうに視線を落とし、ただ、彼のために編んでいるマフラーに、少しでも自分の温もりが宿るようにと祈りながら、静かに手を動かし続けることしかできなかった。
​その日を境に、アルヴィーノの帰りが遅い日々が始まった。
​敵の動向を探るための斥候の指揮、防衛線の再構築、現地の将官たちとの深夜に及ぶ軍議。
アルヴィーノは「王の冷たき刃」としての重責を完璧に遂行するため、文字通り不眠不休で執務室や前線に張り付き、主寝室へ戻ってくることがほとんどなくなってしまった。
​最初の数日は、ルミも「アルヴィーノの邪魔をしちゃいけない」と健気にロッキングチェアで編み物をしながら待っていた。けれど、夜が更けても、日付が変わっても、部屋の扉が開くことはない。
​やがてルミは、広いベッドで一人きりで眠る日が多くなった。
​王都にいた頃なら、これが普通だったはずだ。
主従の仮面を被り、ただ耐えるだけの夜。
けれど、毎晩のようにアルヴィーノの絶対的な愛に包まれ、彼の体温を感じて眠る悦びを知ってしまったルミの身体は、一人きりのベッドの寒さに耐えられないようになっていた。

​(寂しいよ……アルヴィーノ……)

​ある夜、時計の針が深夜の二時を回った頃。
暖炉の火も小さくなり、冷気が忍び寄る寝室のベッドの中で、ルミはついに寂しさに押しつぶされてしまった。
​研究所でボロ雑巾のように扱われ、誰の温もりも知らなかった頃の、あの暗く冷たい孤独が脳裏をよぎる。
アルヴィーノが言葉でどれだけ「お前だけを選んだ」と言ってくれても、こうして一人きりになると、心の奥底に眠る「置いていかれる恐怖」が、どうしても首をもたげてしまうのだ。
​ルミは枕元に手を伸ばした。そこには、アルヴィーノが以前この部屋に脱ぎ捨てていった、漆黒の古い上着が置かれていた。
​ルミはその上着をぎゅっと胸元に抱きしめた。
生地からは、上質な香香と、大好きなアルヴィーノの仄かな体温の残痕のような香りがした。

​「う、ぅ……ひくっ……」

​その香りに触れた瞬間、堰を切ったように涙が溢れ出た。
ルミはアルヴィーノの服に顔を埋め、水色の長い髪を乱しながら、声を押し殺して泣きじゃくった。

​「アルヴィーノ……アルヴィーノ……会いたいよぉ……っ」

​泣いたら彼を困らせてしまう。
お仕事で大変な彼に、迷惑をかけたくない。そう思えば思うほど涙は止まらず、ルミは漆黒の生地を涙で濡らしながら、小さな身体を丸めて震えていた。
​どれほど絆を深めても、どれほど【伴侶】として結ばれても、ルミにとってアルヴィーノは世界のすべてだった。
彼がいない夜は、ルミにとって光を失った世界と同じだった。
​ルミはアルヴィーノの服を強く、強く抱きしめながら、一人きりの冷たいベッドの中で、いつまでも涙を流し続けることしかできなかった。

膠着していた戦況が動いたのは、その日の黎明だった。

​「――そうか、囮は別動隊ではなく、本隊の進軍速度そのものだったか」

​執務室の机を囲み、アルヴィーノの細く切れ長な紫の瞳が、冷徹な光を宿して地図の一点を射抜いた。
隣国が仕掛けた巧妙な布陣の綻び、その「壁」の正体を、彼の明晰な頭脳がついに暴いたのだ。
盤面が見えれば、あとは「慈悲なき軍師」の独壇場である。

​「これより、我が極大魔法をもって敵の退路を完全に遮断します。全軍、私の合図と同時に包囲網を展開し、一兵たりとも逃すな」

​張り詰めた空気の中、将官たちに冷酷なまでの的確な指示を飛ばす。ようやくすべてを解決するための、最後の手筈が整った。
​出発の直前、身支度を整えるために一瞬だけ主寝室に戻ったアルヴィーノを、ルミはいつも通り「完璧な従者」として送り出そうとした。

​「いってらっしゃい、アルヴィーノ……。お気をつけて」

​いつものように健気に微笑もうとするルミ。
しかし、その顔を見た瞬間、アルヴィーノの胸に鋭い痛みが走った。
水色の長い髪に隠されたその顔は、連日泣き腫らしたせいで目が赤く潤み、目の下には痛々しいほど濃い隈が浮かんでいたのだ。
小さな身体はどこか弱々しく震えている。

​「ルミ、貴方――」
「だ、大丈夫だから! ちょっと、寝不足なだけ。お仕事、頑張ってね、アルヴィーノ」

​ルミは慌てて引きつった笑みを浮かべ、アルヴィーノを促すように背中を押した。
今、彼が国家の命運を賭けた重大な局面に立っていることを分かっているからこそ、自分の寂しさで彼の足を引っ張るわけにはいかなかった。
​アルヴィーノは、そのルミの想いをすべて察しながらも、唇を噛み締めて翻った。
今ここで敵を完全に根絶やしにすることこそが、ルミとの絶対的な安息を取り戻す唯一の方法だと知っていたからだ。

​「……待っていなさい、ルミ」

​一言だけ残し、漆黒の豪華な軍服を翻して、アルヴィーノは戦場へと赴いた。
​◇
​それからさらに、丸一日。
アルヴィーノの帰りを待つ夜が、再びルミに訪れた。

​(また……今日も、帰ってこないんだよね……)

​暖炉の火が消えかかり、冷気が部屋を支配していく。
ルミはすっかり冷たくなってしまった広いベッドの中で、以前アルヴィーノが置いていった漆黒の上着をきつく、引きちぎらんばかりに抱きしめていた。
​一度溢れ出した孤独と恐怖は、もうルミの小さな力では抑え込めなかった。

​「う、く……っ、あ、アルヴィーノ……っ」

​冷たい静寂の中、シーツに涙が吸い込まれていく。
研究所の暗闇で、ただ痛みに耐えていたあの頃の自分が、頭の裏で「ほら、やっぱりお前は一人だ」と囁くような気がしてならなかった。
どんなに愛されても、彼がいない時間はルミをかつての「ボロ雑巾」だった絶望へと引き戻してしまう。

​「会いたい……会いたいよ、アルヴィーノ……俺を、ひとりにしないで……」

​声を押し殺し、身体を丸めて泣きじゃくる。
連日の涙で腫れ上がった目が、さらに熱く痛んだ。
​その時だった。
​バタン、と、この静かな屋敷には不釣り合いなほど激しい音を立てて、主寝室の重厚な扉が開け放たれた。

​「ルミ――っ!」

​聞き間違えるはずのない、大好きな声。
ルミが涙に濡れた顔を跳ね上げると、そこには、息を荒く乱したアルヴィーノが立っていた。
作戦を完璧に終わらせ、本来なら戦後処理のために現地に数日は留まるべきところを、すべてを部下に力尽くで丸投げし、愛馬を限界まで飛ばして王都の兄すら驚くほどの速度で帰還したのだ。
​その漆黒の軍服には、うっすらと戦場の硝煙の香りが残っている。
しかし、アルヴィーノの紫の瞳は、ベッドの上で自分の服を抱きしめ、ボロボロになって泣いているルミの姿だけを捉えていた。

​「アルヴィ……の……?」

​幻覚を見ているのかと、ルミが水色の瞳を大きく見開いた瞬間。
アルヴィーノは凄まじい勢いでベッドへ詰め寄り、ルミの小さな身体を、その漆黒の胸の中へと力強く掻き抱いた。

​「っ……! 申し訳ありません、ルミ……! 寂しい思いをさせました、本当に、申し訳ありません……っ」

​壊れ物を扱うようだった普段の抱擁とは違う、骨がきしむほどの強い力。アルヴィーノの大きな手が、ルミの背中や水色の長い髪を、狂おしいほどの愛おしさと後悔を込めて何度も何度も撫で上げる。

​「アルヴィーノ……アルヴィーノ、本当に、アルヴィーノなの……?」
「ええ、私です。貴方を置いていくものですか。敵の脅威はすべて、私の魔法で灰にしてきました。国境の憂いはもう何もありません。……だから、もう泣かないでください」

ルミの耳元で紡がれる、低く、取り乱した声。
その胸に触れた瞬間、アルヴィーノの確かな体温と、自分を求める強烈な執着が伝わってきて、ルミの胸の奥の氷が完全に融けていくのが分かった。

​「うああん……っ、寂しかったよぉ……っ! ずっと、一人で、怖かったの……っ!」

​ルミはアルヴィーノの首にしがみつき、彼の漆黒の軍服の胸元に顔を埋めて、今度は子供のように大声で泣き声を上げた。
溜め込んでいた寂しさをすべて吐き出すように、彼の身体にすがりつく。

​「ええ、ええ。よく耐えてくれました。私の可愛いルミ……」

​アルヴィーノはルミを抱きしめたまま、連日の涙で赤く腫れ上がったルミの目元や、隈の浮かぶ頬に、何度も何度も、慈しむように熱い口づけを落とした。
その紫の瞳には、愛しい者をこれほどまでに傷つけてしまった己への怒りと、それ以上の特大の愛が揺らめいている。

​「これからは、片時も離れません。任期が終わるまでの残りの日々、毎日貴方の隣で、貴方の名前を呼んで眠ります。……だから、私を許してください、ルミ」
​「……ん、……許す、もん……っ。だから、ずっと、ここにいて……?」

​泣きじゃくりながらも、ルミは腕の中で小さく頷き、アルヴィーノの胸にさらに深く潜り込んだ。
窓の外では、北方の厳しい冬の夜が続いている。
けれど、すべてを解決して戻ってきた王の刃と、彼に命を吹き込む愛しい伴侶の間には、もう二度と、二人を隔てる冷たい孤独が忍び寄る隙間など残されていなかった。

敵の脅威が完全に灰へと帰してからの直轄領の日々は、まるで遅れを取り戻すかのように、甘く、どこまでも濃厚な幸福に満たされていた。
​アルヴィーノは約束通り、軍務以外の全ての時間をルミへと捧げた。
午前中に漆黒の軍服に身を包んで執務室へ向かう彼を、ルミは赤みの引いた綺麗な水色の瞳で見送る。
そして午後になれば、誰の目もない主寝室で、アルヴィーノは緩めた襟元にルミの細い身体を抱きすくめ、その甘い体温を飽きることなく確かめ合った。
時には、以前のように街へと繰り出し、素朴な露店で温かい菓子を買い食いしたり、誰の目も気にせず指を絡めて雪道を歩いたりもした。
​何気ない、けれど世界で一番愛おしい、普通の恋人同士のような日常。
​しかし、無情にも時間は過ぎ去っていく。
二ヶ月という任期の終わりは、もう、あと数日というところまで迫っていた。

​「……これ、あともう少しで、終わっちゃうんだね」

​ある日の夜、暖炉のそばのロッキングチェアに座り、膝の上に広げた水色の毛糸を見つめながら、ルミがぽつりと呟いた。
その手元にあるのは、あの日から一針一針、心を込めて編み進めてきたマフラー。
不格好だった編み目も、今では見事な模様を描き、もう間もなく完成を迎えようとしている。
​書類の整理を終え、上着を脱いだシャツ姿でベッドに腰掛けていたアルヴィーノが、静かにルミへと視線を向けた。切れ長の深い紫の瞳に、寂しげな陰がよぎる。

​「……ええ。王都からの迎えの馬車が、三日後にはここに到着します」
​「王都に帰ったら……また、王子様と従者、だよね。みんなの前では、お話しするのも一歩下がって……」

​ルミは毛糸をぎゅっと握りしめ、水色の長い髪を揺らして視線を落とした。
ここにいる間、主従の仮面を脱ぎ捨てて「アルヴィーノ」と名前を呼び、伴侶として愛される喜びを知ってしまったからこそ、王都のあの息詰まる偽りの生活に戻ることが、少しだけ怖かった。
​アルヴィーノは立ち上がり、ルミの座る椅子の前で静かに膝をついた。そして、ルミの少し冷えた両手を、自身の大きな手で包み込む。

​「……帰りたくありませんね」

​低く、掠れた声音。
それは戦場を統べる軍師のものではなく、一人の男としての、本心の我が儘だった。

​「兄上には申し訳ありませんが、このまま国境の防衛を理由に、任期を半年ほど引き延ばしてやろうかと本気で考えています。王都の喧騒も、貴族どもの視線も、今の私には酷く煩わしい」
​「あはは……それはダメだよ。アルフレッド様、今頃王都で一生懸命お見合いのお話を断ってくれてるんだから、怒っちゃうよ」

ルミは無理に明るく笑ってみせたが、その水色の瞳には、アルヴィーノと同じ寂しさが滲んでいた。
アルヴィーノはそんなルミの手の甲に、切なげに唇を寄せる。

​「分かっています。……ですがルミ、形の上がどうであれ、私の魂は貴方だけのものです。王都へ戻ろうと、誰が我々の間に入ろうと、この絆が揺らぐことは決してありません」
​「うん……分かってる。アルヴィーノが俺だけを見てくれてること、もうちゃんと信じてるもん。だから……っ」

​ルミは、そこで言葉を区切ると、手元に残った最後の毛糸に、ゆっくりと針を通した。
最後の一目を丁寧に引き抜き、形を整える。

​「……できた。やっと、完成したよ、アルヴィーノ」

​ルミは嬉しそうに、けれど少し照れくさそうに、完成したばかりの水色のマフラーを両手で掲げた。
何度も何度も編み直したため、少し不揃いなところもあるけれど、ルミの純粋な愛と温もりがこれ以上ないほど詰まった、世界に一つのマフラーだった。

​「私のために……ここまで、編んでくれたのですね」
​「うん。あの日、アルヴィーノがお仕事でずっと帰ってこなくて、すごく寂しかった時……俺、これにたくさん『大好き』って気持ちを込めて編んだんだ。あっちに着いたら寒いです、ってアルヴィーノが言ってたから、これを着て、少しでもあったかくなってほしくて」

​ルミは椅子から立ち上がると、アルヴィーノの首元へ、その水色のマフラーを優しく巻きつけた。
ふわりと、ルミ自身の甘い香りと、暖炉の温もりがアルヴィーノの首元を包み込む。
​アルヴィーノは、その柔らかなマフラーに顔を埋めるようにして、深く息を吸い込んだ。
胸の奥が、熱い何かで満たされていく。
冷酷非情と呼ばれた彼の心が、この不格好で愛おしい贈り物によって、完全に支配されていた。

​「……暖かいですね。これ以上の宝物は、世界中のどこを探してもありません」

​アルヴィーノはマフラー越しに、ルミの細い腰を強く引き寄せ、ベッドへと押し込むようにして抱きしめた。
水色の長い髪がシーツの上に鮮やかに広がる。

​「アルヴィーノ……っ」
​「王都へ帰るまでの残り三日、このマフラーの温もりと共に、お前を片時も離さず愛し抜きましょう。そして王都へ戻った後も、誰も入れない夜の闇の中だけは……私を、アルヴィーノと呼んでください」
​「うん……っ。どこにいたって、俺たちの心は一緒だもんね。大好きだよ、アルヴィーノ……」

​ルミはアルヴィーノの首に腕を絡め、幸せそうに微笑んだ。
窓の外では、北方の厳しい冬の終わりを告げるように、静かに雪が降り積もっている。
けれど、マフラーを分け合うようにして重なり合う二人の間には、王都のどんな嵐にも負けない、絶対的な愛の熱が確かに灯っていた。

出発の朝、直轄領の屋敷は、訪れた時と同じような厳かな静寂に包まれていた。
​すべての荷物をまとめ終えた主寝室で、ルミは誰もいないことを確認してから、ぽつりと言葉を漏らした。

「本当に、もう終わっちゃうんだね……」

白いロリータ服の上に上質な外套を羽織ったルミが、寂しそうに部屋を見渡す。
この二ヶ月間、毎晩のようにアルヴィーノの名前を呼び、彼と【伴侶】として甘い時間を過ごしたこの部屋には、語り尽くせないほどの思い出が詰まっていた。

​「ええ。ですが、名残惜しむのはここまでです、ルミ」

アルヴィーノは、一点の曇りもない漆黒の豪華な軍服に身を包み、すでに完璧な「慈悲なき軍師」の表情を作っていた。
けれど、その首元には、ルミが編み上げた水色のマフラーが、軍服に隠されるようにしてしっかりと巻かれている。
​アルヴィーノはルミの元へ歩み寄り、その頬にそっと触れた。

「姿形は主従に戻ろうとも、私の心は片時もお前を離しません」
「うん……分かってる。アルヴィーノ」

二人は最後にもう一度だけ、深く愛おしい口づけを交わし、部屋を後にした。
​屋敷の前に到着した漆黒の馬車へと乗り込む。
扉が重々しく閉まり、御手の合図とともに馬車がカタゴトと動き出すと、車内は再び二人だけの聖域へと戻った。

​「最初の日は、俺、アルヴィーノの名前を呼ぶだけで心臓が爆発しそうだったんだよ」
「ふふ、そうでしたね。『王子様』と口を滑らせるたびに、お前が慌てて口を押さえる姿が、たまらなく愛らしかった」
「もうっ、アルヴィーノは意地悪ばっかり言うんだから! ……でも、一緒に街へデートに行ったの、本当に楽しかったなぁ。普通の恋人みたいに、手を繋いで歩けて」

​馬車が南へと進む中、二人は二ヶ月間の思い出を一つひとつ手繰り寄せるように話し合った。
困難な壁を乗り越えてアルヴィーノが帰ってきた夜のこと。
寂しくて彼の服を抱きしめて泣いてしまったルミを、彼が狂おしいほどの愛で包み込んでくれたこと。
暖炉のそばでマフラーを編んだ、何気ないけれど暖かかった日々のこと。

​「俺、アルヴィーノのためにマフラーを編めて、本当によかった。あっちで寂しかった気持ちも、全部宝物になっちゃった」
「貴方がくれたこの温もりがあるから、私はこれから王都のどんな泥沼に足を踏み入れようとも、冷酷な軍師を演じきることができます」

アルヴィーノはルミの手を強く握り締め、もう片方の手でルミの身体を引き寄せて、その水色の長い髪に顔を埋めた。
車内に流れるのは、どこまでも甘く、お互いへの絶対的な信頼に満ちた時間。
寂しさを分かち合いながらも、二人は「楽しかったね」と何度も笑い合った。
​しかし、無情にも馬車の速度が落ち、外の喧騒が大きくなっていく。
窓の外には、見慣れた王都の洗練された石造りの街並みと、そびえ立つ王城の美しいシルエットが広がっていた。
​ついに、馬車が完全に停止する。

​「……帰ってきちゃったね」

ルミは、繋いでいたアルヴィーノの手を、名残惜しそうに指先まで這わせながら、寂しそうに、けれどどこか覚悟を決めたように微笑んだ。

​「ええ。……行きましょう、ルミ」
「うん。王子様」

​その瞬間、ルミの口から紡がれたのは、完璧に調教された従者の響き。
二人は絡めていた指を、すっと、静かに離した。
​扉が開け放たれる。
馬車から降り立ったアルヴィーノの紫の瞳は、すでに戦場を統べる「慈悲なき軍師」の冷徹な光を取り戻していた。
そしてその一歩後ろには、水色の長い髪を揺らした可憐な少年ルミが、完璧な「私属の従者」として、静かに頭を下げて控えている。
​正面玄関では、この二ヶ月間、二人のために王都の泥沼を完璧に堰き止めていた現王アルフレッドが、フランクな笑みを押し殺した王の仮面を被って待っていた。

​「よく戻ったね、アルヴィーノ。北方の掌握、見事だったよ」
「御意のままに、陛下。これより再び、貴方の冷たき刃として、この身を捧げましょう」

​周囲の将兵たちがその隙のない主従の姿に息を呑む中、アルヴィーノとルミは、誰にも見えない【伴侶】という絶対的な仮面を胸の奥に深く隠し、再び王都の日常へと足を踏み入れた。
けれど、アルヴィーノの軍服の奥で息づく水色のマフラーの温もりと、繋いだ手の残痕は、二人の絆が何者にも引き裂けないことを、静かに証明し続けていた。

王都へ帰還してから、数週間が経っていた。
​王宮での日常は、北の直轄領へ行く前と何ら変わりはない。
アルヴィーノは現王アルフレッドの「冷たき刃」として、漆黒の豪華な軍服に身を包み、冷酷無比な軍師の仮面を完璧に被り直していた。
その一歩後ろには、白いロリータ服を纏った水色の髪の少年・ルミが、完璧な従者として静かに控えている。
​周囲の貴族や兵士たちは、相変わらずその張り詰めた主従の空気に気圧されていた。
……しかし、二人だけの胸の奥には、あの北の地で過ごした甘く濃厚な二ヶ月間の記憶が、確かな温もりとして今も息づいている。
​誰もいない夜の私室では、アルヴィーノは軍服の襟を緩めてルミを強く抱きしめ、ルミは彼を「アルヴィーノ」と名前だけで呼んで、あの日々のように甘い時間を過ごしていた。
​そんな、表と裏の顔を完璧に使い分けていた、ある日の午後のことである。
​王宮のきらびやかな大廊下を、アルヴィーノは数名の将兵を引き連れて足早に歩いていた。
これから始まる軍議に向けて、その切れ長の紫の瞳は冷徹そのもの。
周囲の者たちは、彼の機嫌を損ねまいと緊張の面持ちで後に続いている。
​その時、廊下の向こうから資料を抱えたルミが歩いてくるのが見えた。
いつもなら、ルミは壁際にすっと寄り、深く頭を下げて完璧に「従者」として通り過ぎるのを待つはずだった。
​しかし、その時のルミは、直前まで「今日の夜、アルヴィーノに何を作ってあげようか」と、北の地での甘い新婚生活のような思い出に完全に浸り、うっかり気を抜いてしまっていたのだ。
​大好きな漆黒の背中を見つけたルミは、王宮内であることも忘れ、夜の私室と同じ感覚のまま、弾んだ声でその背中に向かって呼びかけてしまった。

​「あ、アルヴィーノ!」

​――その瞬間、大廊下の空気が、ピキリと凍りついた。
​背後から響いた、あまりにも無邪気で、なおかつ「敬称が一切ない」愛らしい声に、引き連れられていた将兵たちは一斉に目を見開いて硬直した。
​呼び止められたアルヴィーノ自身も、流石に予想だにしていなかった事態に、端正な顔を驚きで僅かに見開いた。漆黒の軍服を翻して振り返る。

​「……っ!?」

​その視線と交わった瞬間、ルミは自分がしでかした過ちの大きさに気づき、血の気が引くのを感じた。

​(あ、やっちゃった……!! ここ、王宮の真ん中じゃん……っ!!)

​いつもなら「王子様」や、せめて他人の前なら「アルヴィーノ様」と呼ばなければならないのに、あの日々の癖で、完全に呼び捨てにしてしまったのだ。
ルミは抱えていた資料をぎゅっと胸元に抱きしめ、水色の瞳を泳がせながら、みるみるうちに顔を真っ赤に染めていく。
どうしよう、アルヴィーノの立場を悪くしちゃった、と完全にパニックになって震えていた。
​アルヴィーノは一瞬、冷酷な軍師としてルミを咎めるべきか、あるいは……と脳を高速で回転させた。
しかし、あまりにも分かりやすく真っ赤になって半べそをかいている我が伴侶が愛おしすぎて、いつもの冷徹な仮面が僅かにピクリと揺らいでしまう。
​周囲の将兵や文官、メイドたちは、完全に息を呑んで二人の様子を窺っていた。
冷酷非情な第二王子だ。
使えない駒はその場で見切りをつける、あの「慈悲なき軍師」である。
いくらお気に入りの私属の従者とはいえ、王宮の公衆の面前で呼び捨てにされるなど、最大の不敬。
あの少年は今ここで、冷徹に切り捨てられるのではないか――。
​全員が固唾を呑んで、アルヴィーノの唇から放たれるであろう「冷酷な一言」を待った。
​その時である。
廊下の角から、タイミングよく現王アルフレッドが、数人の側近を伴って通りかかった。

​「おや、どうしたんだい? みんなして固まって」

​アルフレッドは王の衣装を纏いながらも、どこかフランクな様子で一同を見渡す。
そして、真っ赤になって震えているルミと、珍しく言葉を詰まらせている弟アルヴィーノの姿を見て、一瞬で「すべて」を察した。

​(あー……なるほどね。北の直轄領で、よっぽど甘い二ヶ月間を過ごしてきたわけだ)

​王都で必死に縁談を握り潰していた兄は、二人の様子を「そっかー、そっかそっか」と言わんばかりの、実に生暖かい目で見つめた。
そして、ふっと、誰にも気づかれないように楽しげに口元を緩める。
​アルフレッドは、怯える周囲の将兵たちに向けて、何でもないことのように手をひらひらと振ってみせた。

​「いやぁ、北方の演習は過酷だったからね。きっと長旅の疲れか何かで、聞き間違いをしてしまったのだろう。……さあ、アルヴィーノ、軍議の時間だ。行こうか」

​王であるアルフレッドが「聞き間違い」と断定した以上、この場にいる全員が「そういうこと」にしなければならなかった。

​「……ハッ。失礼いたしました。……ルミ、その資料は後で私の執務室へ置いておきなさい」
「は、はいっ……! 失礼いたしました……!」

​アルヴィーノは一瞬だけ、ルミにしか分からないような、優しく宥めるような視線を紫の瞳に宿して、アルフレッドと共に歩き出した。
ルミは深々と頭を下げ、バクバクと鳴り止まない心臓を押さえながら、足早にその場を離れた。
​王が去り、二人の主従が離れた後。
残された王宮の民たちの間には、妙な沈黙が流れていた。
​彼らは馬鹿ではない。
ルミの声はあまりにもはっきりと響いていたし、何より、あの冷酷無比なアルヴィーノが、自分を呼び捨てにした従者を罰するどころか、明らかに動揺し、庇うような空気を醸し出していたのを、全員が目撃してしまったのだ。

​「……なぁ」
「言うな。何も言うな」
「あのお堅い第二王子殿下が、ねぇ……」
「北の領地で、一体何があったんだ……」

​王宮の民たちは、あえてそれ以上は何も言わなかった。
王が不問に付した以上、追及するのは野暮というものだ。
ただ、彼らの胸の内には、「あのがちがちに冷徹な軍師様と、可愛い男の娘の従者くんは、どうやら私たちが思っている以上の『深い関係』らしい」という事実が、確信として刻み込まれたのだった。
​周囲の「そっか、そっか……」という、生温かくも邪魔はしない無言の空気に見守られながら。
主従という仮面はほんの少しだけひび割れてしまったけれど、二人の絆の深さは、図らずも王宮の知るところとなりとなった。
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