主と従者の檻に、世界で一番甘い誓いを

凍てつく国境(さいはて)の、甘き新婚旅行(ハネムーン)②

王都を離れ、馬車が北へと進むにつれて、車窓の景色は目まぐるしく変化していった。
洗練された石造りの街並みは姿を消し、代わりに雄大な新緑の山々や、見たこともない珍しい形の高山植物が、次から次へと後ろへ流れていく。

​「わぁ……! 王子様、見て見て! あそこのお山、てっぺんに白い雲が帽子みたいに載っかってるよ! それに、あのお花……王都の庭園にはない形だね!」

​ルミは馬車のふかふかした座席から身を乗り出し、水色の長い髪を揺らしながら、窓の外に釘付けになっていた。
透き通るような水色の瞳をきらきらと輝かせ、白いレースの袖が動くたびに、まるで小さな妖精が跳ね回っているかのように可憐だ。
​王都での緊迫した空気から解放され、子供のようにワクワクしている伴侶の姿を、アルヴィーノは対面の座席から静かに見つめていた。
膝の上に置かれたチェス盤を進める手は完全に止まっている。
切れ長の紫の瞳にあるのは、戦場を統べる軍師の冷酷さではなく、ただ一人の愛しい者を慈しむ、深い熱を帯びた眼差しだった。

​「そんなに身を乗り出しては危ないですよ、ルミ。……ですが、気に入ってもらえたようで何よりです」

​アルヴィーノが声をかけると、ルミは「あ、ごめんなさい」とはにかみながら、お行儀よく座席に座り直した。
それでもまだ興奮が冷めやらないのか、胸元に手を当てて嬉しそうに息を弾ませている。

​「だって、こんなに遠くまでお出かけするの、俺、初めてだから……。空気も少しひんやりしてて、なんだか不思議な気持ち。本当に、王子様と二人で旅をしてるんだなぁって」

​無邪気に笑うルミ。
その純粋な言葉に、アルヴィーノはふっと目を細め、何かを決意したようにチェス盤を脇の卓へと片付けた。
そして、すっと座席を移動し、ルミのすぐ隣へと腰を下ろす。
​急に近づいたアルヴィーノの体温と、上質な衣服から漂う仄かな香りに、ルミは一瞬だけ、トクンと心臓を跳ねさせた。

​「王子様……?」
「ルミ。北の領地に着いた後のことですが……一つ、お前に約束してほしい、いえ、叶えてほしい願いがあります」

​アルヴィーノの声は、いつもより少しだけ低く、独占欲を孕んで響いた。

​「願い……? 俺にできることなら、なんだってするよ! 闇魔法の特訓? それとも、お部屋のお掃除?」
「いいえ、そんなことではありません。……呼び方の話です」

​アルヴィーノはルミの細い肩を引き寄せ、その水色の瞳を真っ直ぐに見据えた。

​「あちらの屋敷にいる間、二人きりの時は、私のことを『王子様』とも『様』とも呼ばないでいただきたい。……ただの『アルヴィーノ』と、敬称もなしに、名前だけで呼んでください」
​「えっ……!?」

​ルミは驚きのあまり、息を呑んで固まってしまった。
研究所から救い出されて以来、ルミにとってアルヴィーノは絶対的な「王子様」であり、それは伴侶となった今でも、深い敬意と愛着を込めた特別な呼び名だった。
それを、呼び捨てにするなんて。

​「だ、ダメだよ、そんなの……っ! いくら二人きりだからって、王子様は第二王子で、すっごく偉い人なのに。俺なんか、ただの従者なのに、呼び捨てなんて畏れ多いよ……!」
「ルミ」

​戸惑って首を横に振るルミの手を、アルヴィーノは逃がさないように強く、優しく包み込んだ。
ぐっと顔を近づけ、逃げ場をなくすようにルミを詰め寄る。

​「あちらでは世界を欺く『主従の仮面』など必要ない、と言ったはずです。それに、二人きりの時の私は、王族でも軍師でもない。ただお前を愛し、お前に生かされている、お前だけの『伴侶』です。それなのに、いつまでも立場を隔てるような呼び方をされるのは……正直に言って、酷く寂しい」
​「寂しい、って……」

​冷酷無比と恐れられるあのアルヴィーノが、眉を僅かにひそめ、子供が拗ねるかのような、あるいは切実に愛を乞うような目を向けている。
そんな表情を見せられて、ルミが敵うはずもなかった。

​「……でも、急にそんな、慣れないよ……」
「慣れてください。さあ、今ここで一度、練習してみましょう」

​アルヴィーノの紫の瞳が、至近距離でじっとルミの唇を見つめる。
その視線の熱さに、ルミの頬はたちまち真っ赤に染まっていく。
観念したルミは、ぎゅっと自分の服の裾を掴み、視線を泳がせながら、蚊の鳴くような声でしぶしぶと唇を動かした。

​「……ぁ、アルヴィ……」
「聞こえませんね。もう一度」
「もうっ、王子様、意地悪……!」

​ルミは恥ずかしさで涙目になりながらも、アルヴィーノの真摯な眼差しを受け止め、意を決してその名前を紡いだ。

​「――アルヴィーノ……っ」

​小さく、けれど確かに響いた、敬称のない彼の名前。
​その瞬間、アルヴィーノの胸の奥に、言葉にできないほどの甘い充足感が広がった。完璧だった軍師の表情が完全に崩れ、嬉しさを隠しきれない極上の笑みが浮かぶ。

​「……よくできました、ルミ。とても、愛らしい響きです」
「うぅ……やっぱりすごく恥ずかしい。心臓が爆発しそう……」

​ルミは両手で顔を覆って座席にしがみついてしまったが、アルヴィーノはその背中に腕を回し、愛おしさが限界を突破したように、ルミの身体を強く抱きしめた。

​「あちらに着いたら、毎日その声で、私を呼んでくださいね」
「……う、うん。アルヴィーノが、そう言うなら、頑張る……」

​まだ耳まで真っ赤にしながらも、腕の中で小さく頷くルミ。
ガタゴトと揺れる馬車の中、二人だけの甘く、少しだけ初々しい約束が、北へと向かう旅路をどこまでも暖かく彩っていた。

王都を出発してから数日。馬車はついに、北方の国境近くに位置する王家直轄領の屋敷へと到着した。
​王都の豪華絢爛な離宮とは異なり、石と頑丈な針葉樹で作られたその屋敷は、どこか無骨で落ち着いた佇まいを見せている。
窓の外には雄大な雪山が連なり、部屋の暖炉ではパチパチと心地よい音を立てて薪が燃えていた。

​「よし……これで、王子様の外套は全部おしまい、っと」

​二人きりになることを許された広大な主寝室で、ルミは大きな衣装箪笥の前に立ち、せっせと荷解きをしていた。
王都から持ってきたアルヴィーノの漆黒の軍服や、自身の白いロリータ服を丁寧に並べていく。
​部屋の机では、アルヴィーノがすでに現地の軍事資料に目を通していた。
癖のある紫の髪を僅かに揺らし、切れ長の瞳で羊皮紙を追う姿は相変わらず冷徹な軍師そのものだが、誰もいない室内ということもあり、その軍服の第一ボタンは緩められている。

​「ルミ、荷解きは急がなくていいと言ったでしょう。長旅で疲れているのですから、少し休みなさい」
「ううん、大丈夫! 乗り心地のいい馬車だったし、早くお部屋を片付けちゃいたいんだ。……あ、そうだ。王子様、明日の予定ってどうなってるの?」

​何気なく振り返りながら尋ねたルミに、アルヴィーノは資料から視線を上げ、ふっと悪戯っぽく目を細めた。

​「……ルミ?」
「えっ? あ……」

​優しく名前を呼ばれ、ルミはハッとして自分の口を手で押さえた。
道中の馬車であれほど練習したはずなのに、いざ屋敷に着いて話し始めると、長年の癖でどうしても「王子様」と口から出てしまう。

​「あぅ……ごめんなさい。ええと、明日の予定はどうなってるの? ……アルヴィーノ」

​真っ赤になって言い直したルミに、アルヴィーノは満足そうに口元を緩め、椅子から立ち上がった。ルミの元へと歩み寄り、その細い腰を後ろからそっと抱きすくめる。

​「明日は午前中に現地の将官たちとの顔合わせがありますが、午後は空けてあります。……それにしても、やはりまだ『王子様』に戻ってしまいますね」
「だって……! ずっとそう呼んでたんだもん、急に変えるなんて慣れないよぉ……」

​背中から伝わるアルヴィーノの心地よい体温に身を委ねながら、ルミは水色の長い髪を揺らし、恥ずかしそうに身を縮こませた。
透き通るような水色の瞳が、困ったように潤んでいる。

​「意識していないと、つい、ぽろって出ちゃうんだ。……アルヴィーノの名前、呼ぶたびに心臓がすごくドキドキして、なんだか悪いことをしてるみたいで……」
「悪いことなど何一つありません。ここは王都の貴族も、兄上の目すら届かない場所。貴方はただ、私の伴侶としてそこにいてくれればいいのです」

​アルヴィーノはルミの首筋に顔を埋め、その白い肌に愛おしそうに唇を寄せた。
普段、戦場では冷酷非情に兵を駒として扱う男が、この部屋の中では、ルミの僅かな反応一つに目を細め、甘い独占欲を隠そうともしない。

​「慣れないと言うのなら、慣れるまで何度でも教え込んで差し上げましょう。……ルミ、私の名前を」
「う、ぅ……アルヴィーノ……」

​耳元で囁かれる低い声に抗えず、ルミは顔を真っ赤に染めながら、もう一度その名前を紡いだ。敬称のない響きが室内に溶けるたび、二人の距離がさらに縮まっていくような、そんな甘い錯覚に囚われる

​「よくできました。……ご褒美を上げなくてはなりませんね」
「ふぇ? ご褒美って……んむっ、」

​振り返ろうとしたルミの唇が、アルヴィーノの優しく、けれど深い口づけによって塞がれた。
窓の外では北方の冷たい風が吹き荒れているけれど、暖炉の炎に照らされた二人の部屋は、これ以上ないほど甘く、温かい幸福感で満たされていた。
​こうして、誰の目も気にすることなく【伴侶】として過ごす、二人の特別な二ヶ月間の第一日目が、静かに更けていくのだった。

北の直轄領に到着してから、数日が瞬く間に過ぎていった。
​王家直轄領の冬は厳しく、屋敷の外には冷え冷えとした銀世界が広がっている。
けれど、一歩室内に戻れば、暖炉の薪が爆ぜる音と、お互いの体温だけがそこにあった。
​アルヴィーノには、軍師としての最低限の任務がある。
午前中は現地の将官たちを前に、漆黒の軍服を隙なく纏い、切れ長の紫の瞳で冷徹に演習の進捗を指揮していた。
使えない部下を冷酷に見切る「慈悲なき軍師」の姿は相変わらずで、現地の兵たちは彼の一言ひとことに怯え、震え上がっている。
​けれど、午後になって執務室の重い扉を閉め、二人きりになった瞬間に、その凍てつくような仮面は跡形もなく融け去るのだった。

​「アルヴィーノ、お疲れ様。あったかい紅茶、淹れたよ」

​水色の長い髪を揺らしながら、白いロリータ服を着たルミが、嬉しそうに湯気の立つカップを机に置く。
完璧な従者としての動きではあるものの、その表情は王都にいた頃のような緊張感から完全に解き放たれ、無邪気な笑顔が咲いていた。

​「ありがとうございます、ルミ。お前が淹れてくれるお茶が、一番心が落ち着きます」

​アルヴィーノは軍服の襟元を緩めると、ルミの細い手首を優しく掴み、そのまま自分の膝の上へと引き寄せた。

​「わっ……!? もう、アルヴィーノ、急に引っ張ったら危ないよ」

​ルミは驚いて水色の瞳を丸くしたが、拒むことなくアルヴィーノの胸に身体を預ける。
ここ数日で、敬称をつけずに「アルヴィーノ」と呼ぶことにも少しずつ慣れてきており、名前を呼ぶたびに頬をほんのり桜色に染める姿が、たまらなく愛らしかった。
​アルヴィーノはルミの腰に腕を回し、その白い外套の隙間から覗く細い首筋に顔を埋める。

​「午前中の退屈な会議も、こうしてお前を抱きしめる時間を思えば、いくらでも耐えられます。王都にいた頃の、あの煩わしい釣書の山に比べれば、今の暮らしは天国のようなものだ」
​「ふふ、お兄様が王都で頑張ってくれてるおかげだね」

​ルミはアルヴィーノの癖のある紫の髪にそっと触れ、優しく 撫でた。
王都では、いつ誰に見られているか分からない恐怖から、常に張り詰めていなければならなかった。
けれどここでは、廊下ですれ違う時に一瞬だけ指先を絡めることも、誰も来ない執務室でこうして抱きしめ合うことも許されている。
​何もない、けれど絶対的に平和で、お互いを【伴侶】としてただ愛し合える日常。
​ルミはアルヴィーノの胸に顔をすり寄せながら、ふと思ったことを口にした。

​「ねぇ、アルヴィーノ。……なんだか俺たち、本当の『しんこんさん』みたいだね」
​「新婚、ですか」
​「うん。朝、アルヴィーノがお仕事に行くのを見送って、お部屋を片付けて、こうやって帰ってきたら一緒にお茶を飲んで……。王都にいた時は、ずっと隠れてなきゃいけないって不安だったけど、今はお料理を作ったり、お洗濯を考えたりするのが、すごく楽しいんだ」

​そう言って、ルミは少し照れくさそうに微笑んだ。
研究所で心を閉ざしていたかつての少年が、今では一人の男の帰りを待ち、家庭的な幸せに胸を躍らせている。
​アルヴィーノはその言葉を噛み締めるように、ルミの額に深く口づけを落とした。切れ長の瞳に宿る熱は、どこまでも深く、狂おしいほどの愛に満ちている。

​「ええ、本当にその通りですね。……気が早いかもしれませんが、二ヶ月の任期が終わった後、王都へ帰りたくなくなってしまいそうです」
​「あはは、それはダメだよ。お兄様に怒られちゃう」
​「兄上の小言など、私の知ったことではありませんよ」

​アルヴィーノが真顔でそんな我が儘を言うので、ルミは声を立てて笑った。
​窓の外では冷たい北風が吹き荒び、戦火の火種を孕んだ国境の緊張感が漂っている。
けれど、この部屋の中に流れる時間は、新婚の恋人たちのようにどこまでも甘く、誰も立ち入ることのできない二人だけの聖域そのものだった。

北の直轄領に滞在して数週間。演習の合間に訪れた待望の休日は、雲ひとつない穏やかな冬晴れとなった。
​王都のように貴族の目が光る場所ではない。
この広大な直轄領の中心にある活気ある街では、漆黒の軍服を着ていないアルヴィーノが「第二王子」であると気づく者は誰もいなかった。
​今日のアルヴィーノは、上質な黒いウールのコートに身を包み、少し癖のある紫の髪を風に揺らしている。
その傍らには、白い外套のフードから水色の長い髪を覗かせたルミが、嬉しそうに並んで歩いていた。
王都では絶対に許されなかった「並んで歩く」という普通のことが、今の二人には何よりも新鮮で、愛おしい。

​「アルヴィーノ、見て! あそこのお店、湯気がすごくいっぱい出てる!」

​ルミが白い手袋に包まれた手で指差したのは、北国名物の蒸し菓子を売る露店だった。冷たい空気の中に広がる甘い香りに、ルミの水色の瞳がきらきらと輝く。

​「ふふ、美味しそうですね。ルミ、一つ買ってみましょうか」
「うん!」

​アルヴィーノが自然な動作で財布を取り出し、ふかふかの蒸し菓子を二つ買い求める。
市井の買い物など一度もしたことがなかった王子が、今やルミのためにごく普通に露店に並んでいる。
その事実だけで、ルミの胸は温かいもので満たされていった。
​半分に割ると、中からとろりとした木の実の餡が顔を出す。

​「あつ、あつ……ん、すごく甘くて美味しい! アルヴィーノも食べてみて?」
「おやおや、口元に白い粉がついていますよ」

​アルヴィーノは困ったように笑いながら、自身の指先でルミの口元を優しく拭った。
そして、ルミが差し出した菓子を一口、上品に口に含む。
「確かに、これは貴方が好みそうな味ですね」と微笑む切れ長の紫の瞳には、戦場での冷酷さなど微塵もなかった。
​街を行き交う人々は、ただの「仲睦まじい綺麗な旅人の二人連れ」として彼らを見送り、すれ違っていく。
主従の仮面も、身分の壁も、ここには存在しない。
​その後も、二人の穏やかなデートは続いた。
地元の職人が作った素朴な木彫りのブローチを見たり、北方の珍しい楽器の音色に足を止めたり。王都の洗練された夜会よりも、この泥臭くも温かい街の喧騒の方が、今の二人にはずっと心地よかった。
​ふと立ち寄った小さな雑貨屋で、ルミはあるものに目を留めた。
それは、深い紫色の上質な魔石があしらわれた、小ぶりのチェスピースの形をしたキーホルダーだった。

​「……アルヴィーノの、瞳の色みたい」

​ぽつり、と呟いたルミの横顔を、アルヴィーノは見逃さなかった。

​「それが気に入りましたか?」
「あ、ううん! ちょっと綺麗だなって思っただけ。俺、魔力の使い方もまだよく分からないし、チェスもアルヴィーノみたいに強くないから……」

​少し気恥ずかしそうに手を引っ込めようとしたルミだったが、アルヴィーノはすかさずその手を優しく握り、店主に銀貨を支払った。

​「アルヴィーノ……?」
「貴方が私を想って目を留めてくれたものです。断る理由がありません」
​受け取った紫の魔石を、アルヴィーノはルミの手のひらにそっと載せる。
​「闇魔法の使い方は、これから私がいくらでも教えます。チェスだって、あちらにいる間にいくらでも付き合いましょう。貴方が私の伴侶である証に、それを持っていてください」

​手のひらの中で、ほんのりと温かい魔石が光を反射している。
ルミの胸の奥に、嬉しさと愛おしさが一気に込み上げてきた。

​「……うん。ありがとう、アルヴィーノ。ずっと、大事にするね」

​ルミは魔石をぎゅっと握りしめ、満面の笑みを浮かべた。
​帰り道、夕日が雪山を茜色に染める頃。
誰の目もない静かな通りに入った瞬間、アルヴィーノは差し出されたルミの手を、今度は指を絡めるようにして強く握りしめた。

​「楽しい一日でしたね、ルミ」
「うん。俺、生まれてから今日が一番幸せかもしれない……。普通の恋人みたいに、アルヴィーノの手を引っ張って歩けて、すごく嬉しかった」

​フードの隙間から覗くルミの頬は、寒さのせいだけではなく、幸福感で赤く火照っている。

​「『生まれてから一番』の記録は、これから二人でいくらでも更新していけますよ。……さあ、屋敷に帰りましょう。冷えてきましたから、今夜は一段と暖かくして過ごさなくてはなりませんね」
​「あはは、そうだね。アルヴィーノ、お部屋に戻ったら、さっきのチェス教えて?」
「ええ、喜んで。私の可愛い伴侶」

​繋いだ手の温もりを確かめ合いながら、二人はゆっくりと、自分たちの「家」である屋敷への道を歩んでいく。
つかの間の、けれど二人の生涯において決して忘れることのない、完璧な日常のひとコマだった。

北方の夜は、どこまでも深く、静かに更けていく。
外では冷たい風が針葉樹の林を揺らしているが、主寝室の中は暖炉の炎が赤々と爆ぜ、春のような温かさに包まれていた。
​パチ、パチ、と薪が心地よい音を立てる傍らで、ルミは大きな木製のロッキングチェアに深く腰掛け、小さな手を動かしていた。
膝の上に広げられているのは、柔らかな水色の毛糸。
この地に来てから、アルヴィーノのために何かを作りたいと思い立ち、現地の使用人に教わりながら始めた不慣れな編み物だった。

​「ええと……次は、こっちに針を通して……」

​完璧な従者としてのシャキッとした姿はどこへやら、白いロリータ服の裾を無造作に揺らし、水色の長い髪を肩から流して一心不乱に毛糸と格闘している。
アルヴィーノが喜んでくれる顔を想像するだけで、胸の奥がじんわりと温かくなった。
​けれど、暖炉の絶え間ない温もりと、ゆらゆらと規則正しく揺れる椅子の心地よさは、長旅や日々の充実した疲れが溜まっていたルミの身体を、次第に深い微睡みへと誘っていく。

​「……あ、だめ、起きてなきゃ……アルヴィーノが、帰ってくる……」

​こっくり、と小さな頭が揺れる。
一度はハッと水色の瞳を開けたものの、押し寄せる強烈な眠気には勝てなかった。
やがて、編みかけの毛糸を胸元に抱きしめたまま、ルミは規則正しい小さな寝息を立て始め、完全に眠りに落ちてしまった。
​カチャリ、と静かに部屋の扉が開いたのは、それから間もなくのことだった。

​「ただいま戻りました、ルミ――」

​軍議を終え、漆黒の豪華な軍服を身に纏ったアルヴィーノが室内に足を踏み入れる。
いつもなら扉が開いた瞬間に「アルヴィーノ、おかえり!」と飛びついてくる愛しい影がないことに、切れ長の紫の瞳が小さく見開かれた。
​しかし、暖炉の前に視線を走らせた瞬間、アルヴィーノの冷徹な軍師の顔は、跡形もなく融けて消え去った。
​そこには、ロッキングチェアに埋もれるようにして眠る、愛らしい伴侶の姿があった。
暖炉のオレンジ色の光に照らされて、水色の長い髪が美しくきらめいている。
胸元に大事そうに抱えられているのは、不格好に編み進められた水色の毛糸の束。それが自分への贈り物であることは、色を見ただけで容易に想像がついた。
​アルヴィーノは足音を完全に消し、静かにルミの傍らへと歩み寄った。
軍帽を脱いで卓へ置き、膝をついて、眠るルミの顔をじっと見つめる。
​王都にいた頃のルミは、たとえ眠っている時であっても、過去の実験の恐怖や「捨てられるかもしれない」という不安から、どこか怯えたように身体を強張らせていることが多かった。
けれど今のルミは、無防備に頬を染め、安心しきった幸福そうな寝顔を見せている。
​その姿が、アルヴィーノの胸に、言葉にできないほどの深い充足感をもたらした。

​(ああ……本当に、幸せですね)

​アルヴィーノはそっと手を伸ばし、ルミの頬に触れないほどの距離で、愛おしそうにその輪郭をなぞった。
​戦場では兵を駒としか思わず、兄である王の「冷たき刃」として、幾度となくその手を血に染めてきた。
周囲からは慈悲なき怪物と恐れられ、自分自身でも、己の心はとっくに凍りついていると思っていた。
けれど、この小さな伴侶が隣にいて、自分の名前を呼んでくれるだけで、世界はこれほどまでに温かく、光に満ちたものになる。
​ルミがここでこうして、自分を信じて、安心して眠ってくれている。
ただそれだけの事実が、アルヴィーノにとって何よりも尊く、命を懸けて守るべき、たった一つの絶対的な真実だった。

​「……ん、……ぁ、アルヴィーノ……?」

​微かな衣擦れの音に気付いたのか、ルミが長い睫毛を震わせ、ゆっくりと水色の瞳を開いた。
目の前に大好きな紫の瞳があるのを見つけると、ルミはまだ夢見心地のまま、ふにゃりと無邪気な笑みを浮かべる。

​「おかえりなさい……俺、待ってたのに、寝ちゃって……」
​「ええ、ただいま戻りました。良い子で留守番ができましたね、私の可愛いルミ」

​アルヴィーノは立ち上がり、ルミの膝から編み物をそっと退けると、その小さな身体をロッキングチェアからお姫様抱まがいに軽々と抱き上げた。

​「わ、わっ……アルヴィーノ?」

​急に宙に浮いたことで完全に目が覚めたルミが、慌ててアルヴィーノの首に細い両腕を絡めつける。
アルヴィーノはルミをベッドへと優しく運び、そのまま自身も外套を脱ぎ捨てて、ルミを包み込むようにして隣に横たわった。

​「アルヴィーノ……お仕事、大変だった?」

​胸元に顔を埋めて上目遣いに聞いてくるルミに、アルヴィーノはその水色の髪に指を絡め、深く、甘い口づけを落とした。

​「貴方の寝顔を見た瞬間、全ての疲れが消え去りました。……今夜は、このまま朝まで離しませんよ」
​「ふふ、うん。ずっと一緒……」

​アルヴィーノの腕の中で、ルミは嬉しそうに目を細め、今度こそ本当に安心しきって、再び心地よい眠りへと落ちていく。
誰の目も気にすることなく、ただお互いを愛し、愛される。
北方の静かな夜の中、二人の絆は、暖炉の炎よりもずっと確かに、温かく燃え続けていた。
89/152ページ