主と従者の檻に、世界で一番甘い誓いを
凍てつく国境(さいはて)の、甘き新婚旅行(ハネムーン)①
王城の最奥、重厚な薔薇木の机に向かう若き国王アルフレッドの前に、アルヴィーノは表情ひとつ変えずに立っていた。
差し出された数葉の書状には、国内外の有力貴族から寄せられた令嬢たちの釣書が並んでいる。
「――すべて断れと、何度言えば理解していただけるのですか、兄上」
アルヴィーノの声音は、戦場で敵を震撼させるそれと同じく、冷徹で一切の揺らぎがない。
細く切れ長の紫の瞳が、淡々とした光を宿して兄を見据えていた。
周囲に他の従者や護衛がいないことを確認すると、アルフレッドは羽ペンを置き、椅子の背にもたれかかって小さく息を吐いた。
その瞬間、王としての張り詰めた威厳がふっと消え、親しみのある兄の顔が覗く。
「そんなに怖い顔しないでほしいな、アルヴィーノ。僕だってこれ、楽しんで受け取ってるわけじゃないんだよ」
一人称を「僕」に変え、肩の力を抜いた口調でアルフレッドは苦笑した。
和解を経て、二人の間でだけ許された、かつての兄弟の距離感。
しかし、アルヴィーノの冷ややかな視線は変わらない。
「お前の意思はよく分かっているよ。でもさ、これらは僕の元に届いた『臣下からの嘆願』なんだ。僕の一存ですべてを握り潰し続けたら、さすがに周りも不穏な噂を立て始める。……お前が頑なに誰も娶らない理由を、勘繰る奴が出てくるぞ」
アルフレッドの言葉は、決してからかいではない。
一国の王として、そして弟の幸せを願う兄としての、極めて現実的な忠告だった。
「主従」という仮面を被り、アルヴィーノの影に潜む水色の髪の少年――ルミの存在。
もし彼らの真の関係が露見すれば、ルミの身に危険が及ぶのは火を見るより明らかだった。
「……私の身辺については、私が完璧に処理します。これ以上の婚姻の儀に関する書状は、私の執務室に届く前にすべて破棄してください」
「無茶言わないおくれよ。僕がどれほどお前たちの盾になろうとしても、限界はあるんだから」
アルヴィーノは僅かに眉をひそめた。
普段であれば、これほどの執拗な縁談など、冷酷にあしらい、己の任務を着実にこなすだけで済む話だった。
しかし、今の彼には、どうしてもこの状況を看過できない理由があった。
原因は、昨夜の執務室での一幕にある。
完璧な従者としてアルヴィーノの背後に控えていたルミが、机に積み上がった釣書の束を片付ける際、ほんの一瞬だけ、悲しげに、そして酷く怯えたように視線を落としたのだ。
「王子様は、やっぱり凄くモテるんだね」と、無理に無邪気な笑みを浮かべてみせたその声が、微かに震えていたのをアルヴィーノは聞き逃さなかった。
研究所でボロ雑巾のように扱われ、世界に絶望していたルミ。
ようやく築き上げた二人の絶対的な絆――【伴侶】という誓いがあってもなお、ルミの心の根底には消えない傷痕が眠っている。
ルミを不安にさせる要素は、たとえ実の兄であろうと、国家の都合であろうと、容赦なく排除する。
「兄上」
アルヴィーノの瞳の奥に、禁術をも操る強大な魔力が、静かに、しかし悍ましく揺らめいた。
室内の気温が数度下がったかのような錯覚を覚えるほどの殺気。
「私は貴方の刃だ。貴方の玉座を血で汚さぬために、この身を捧げている。……ですが、私の唯一の対価に手を触れるというのであれば、その刃がどこに向くか、保障はいたしかねます」
それは、実の兄に対する明確な脅迫だった。
並の人間であれば気圧され、命乞いをするほどの殺気。
しかしアルフレッドは、怯むことなくそれを受け止め、やがて、深く重い溜息をついた。
「相変わらず、ルミくんのことになると容易く狂犬になるね、お前は」
アルフレッドは引き出しから一通の、既に蝋封が押された書状を取り出し、机の上に滑らせた。
その表情は、先ほどまでのフランクなものから、どこか真摯な、兄としての温かみを帯びている。
「……僕だって、君たちの関係を邪魔するつもりは毛頭ないよ。むしろ、これ以上周囲が騒がしくなれば、僕の政務にも支障が出る。だからさ、これを使ってほしいんだ」
アルヴィーノは不審そうにその書状に目を落とした。
「来月、北方の国境付近にある王家直轄領で、大規模な演習を行う。軍師である君には、その指揮とその後の領地査察を命じる。期間は二ヶ月だ」
「……それが、この縁談と何の関係が?」
「その査察には、君の『私属の従者』も当然、同行していい。国境の直轄領は、王都の貴族どもの目が完全に届かない場所だ。そこで君たちがどう過ごそうと、僕の耳には何も入ってこない。――それから、王都に残る僕に来る君への縁談だけどね」
アルフレッドは悪戯っぽく、しかし冷徹な光を宿した笑みを浮かべた。
「『第二王子は現在、国境の軍務と領地改革に全力を注いでおり、婚姻を考える余地はない。成果を上げるまでは、如何なる縁談も受け付けない』って、僕が公言しておく。これなら貴族どもも大義名分の前に黙るしかない。君が現地で成果を上げ続ける限り、この猶予はいくらでも引き延ばせる」
王都の喧騒から二人を遠ざけ、誰の目も気にすることなく【伴侶】として過ごせる時間と場所を、王の権限で保障するという、兄からの最大の配慮だった。
「……随分と、私に都合の良い提案ですね」
アルヴィーノの殺気が霧散し、警戒を含んだ声に戻る。
「代わりに、私に何を要求されるつもりですか」
アルフレッドは椅子の背を正し、真っ直ぐに弟を見つめた。
「北方の国境は、未だ不穏な動きを見せる他国の影がある。そこを完全に掌握し、我が国の絶対的な防壁とすること。……それと、もうひとつ」
王は一瞬だけ、かつて傷つけ合った過去を悔いるような、痛みを帯びた目を生真面目に向けた。
「君がルミくんを失えば、君は本当にただの『慈悲なき魔王』に戻ってしまう。僕は、この国の王として君の力を必要としているけど、兄として、再び暗闇に落ちる姿は見たくないんだ。……ルミくんを、不安から守り通して。それが僕の条件だ」
沈黙が室内を支配した。
アルヴィーノは、机の上の書状を静かに手に取り、懐へと収めた。
「御意のままに、陛下。北方の憂いは、私が完璧に断ち切ってみせましょう」
完璧な臣下としての礼を執り、アルヴィーノは翻って執務室を後にした。
アルフレッドの「兄としての不器用な優しさ」をその胸に仕舞い込み、彼は足早に廊下を進む。
向かう先は、己の帰りを自室で待っているであろう、水色の髪の少年の元だ。
(ルミ……もう、貴方が怯える必要はない。私が貴方だけの、唯一の場所を守り続ける)
漆黒の軍服を翻し、冷酷無比な軍師は、己の愛する伴侶の元へと歩みを進めた。
◆
アルヴィーノが王の執務室でアルフレッドと対峙しているその頃、第二王子の広大な私室は、重苦しいほどの静寂に包まれていた。
ルミは、部屋の隅にある大きな長椅子のフチにちょこんと腰掛け、自身の細い指先をじっと見つめていた。
いつものようにアルヴィーノが選んでくれた、真っ白で幾重にもレースが重ねられたお気に入りのロリータ服を着ている。
けれど、いつもならその裾を揺らして無邪気に部屋を跳ね回るはずのルミの身体は、今は小さく縮こまったまま動かない。
透き通るような水色の瞳が、部屋の机の上に、もうそこにはない「あるもの」の残像を追うように彷徨った。
「……また、たくさんあったなぁ」
ぽつり、と零れた独り言は、広い室内の静寂に溶けて消えた。
ルミが思い出していたのは、昨夜、アルヴィーノの執務机にうずたかく積まれていた、きらびやかな装飾が施された書状の山――貴族の令嬢たちの釣書だ。
主従の仮面を被っている以上、ルミは完璧な従者として、それらを片付けなければならなかった。
書状に添えられた写真や肖像画に描かれた女性たちは、誰もが身分が高く、美しく、そして何より、アルヴィーノの隣に立つに相応しい「普通の」人間たちだった。
ルミの胸の奥が、きゅう、と締め付けられるように痛む。
自分は、闇魔法の実験体としてボロ雑巾のように扱われていた過去を持つ身だ。
アルヴィーノに救われ、彼の絶対的な【伴侶】として魂を誓い合った。その絆に嘘偽りがないことは、誰よりもルミ自身が分かっている。
アルヴィーノが自分に注いでくれる執着も、冷酷な仮面の裏にある深い愛も、すべて信じている。
けれど、信じていることと、不安にならないことは別だった。
(アルヴィーノ様は、すごく綺麗で、頭が良くて、本当はとってもお優しい王子様だから……みんなが好きになっちゃうのは、当たり前なんだよね)
王宮の廊下を歩けば、誰もがアルヴィーノの漆黒の軍服姿に圧倒され、憧れと畏怖の視線を送る。
そんな彼が、連日届く美しい令嬢たちとの縁談をすべて断り続けてくれていることも知っていた。
知っているからこそ、申し訳なさと、底知れない恐怖が首をもたげる。
(俺が、男の子だから。……普通の女の子みたいに、表立ってアルヴィーノ様の隣を歩けないから。俺のせいで、アルヴィーノ様に迷惑をかけてるんじゃないかな)
もし、自分が完璧な貴族の令嬢だったなら、アルヴィーノはこんな風に世界を欺き、兄である王と揉める必要もなかったのではないか。
研究所の暗闇から引っ張り上げてくれたアルヴィーノ。
彼を失うことは、ルミにとって再びあの光のない地獄に落ちることと同義だった。
どれだけ言葉を重ねられても、心を閉ざしていた頃の「いつかまた捨てられるかもしれない」という恐怖の根っこは、ルミの心の奥底でいまだに静かに脈打っている。
「だめだなぁ、俺。アルヴィーノ様を困らせたくないのに……」
ルミは水色の長い髪を揺らし、自身の細い両腕で身体をきつく抱きしめた。
昨夜、釣書を見て一瞬だけ表情を曇らせてしまった。
すぐにいつものように無邪気な笑顔を作って「モテるんだね」と冗談めかして言ったけれど、アルヴィーノの鋭い紫の瞳は、ルミの僅かな動揺を見逃していなかったはずだ。
だからこそ、今日もアルヴィーノはあの縁談を撥ね退けるために、アルフレッドの元へ向かったのだ。
自分の弱さが、彼の足を引っ張っている。そう思うと、胸が潰れそうだった。
その時、カチャリ、と静かに部屋の扉の鍵が開く音がした。
ルミは弾かれたように顔を上げた。
入ってきたのは、見紛うはずもない、漆黒の豪華な軍服を纏った青年。
癖のある紫の髪を僅かに揺らし、切れ長の瞳で室内を見渡したアルヴィーノは、長椅子の上で固まっているルミの姿を捉えると、その冷徹な顔をふっと和らげた。
「……ルミ。ただいま戻りました」
その声を聞いた瞬間、ルミの心を満たしていた暗雲が、嘘のように引き裂かれていく。
ルミは長椅子から飛び降りると、白いレースの裾を翻し、一目散に彼の元へと駆け出した。
「王子様……っ!」
仮面を脱ぎ捨て、心からの感情を爆発させたルミは、アルヴィーノの胸へと真っ直ぐに飛び込んでいった。
漆黒の軍服に、純白のレースと水色の長い髪が鮮やかに重なった。
アルヴィーノは、その細い身体を壊れ物を扱うように、けれど二度と離さないと言わんばかりの強い力で抱きしめ返した。
その長い指先が、ルミの背中を優しくあやすように撫でる。
誰も入れないこの私室だけが、冷酷な軍師がただの「男」に戻れる唯一の聖域だった。
「ただいま、ルミ。……そんなに寂しがらせてしまいましたか」
「寂しかった……ううん、寂しくない。王子様が、あの、お見合いのお話のことで、また怒りに行っちゃったから……俺、心配で」
アルヴィーノの胸に顔を埋めたまま、ルミのくぐもった声が響く。
アルヴィーノはルミを優しく引き剥がすと、その透き通るような水色の瞳を覗き込んだ。
そして、そのふっくらとした頬に大きな手を添え、親指で愛おしそうに撫でる。
「怒りに行ったわけではありませんよ。……ただ、少し兄上を脅し、今後の手回しをしてきただけです」
「お、脅したの……?」
目を丸くするルミに、アルヴィーノはふっと微かに、しかし酷く端正な笑みを浮かべてみせた。
「ええ。もう王都から、あの鬱陶しい釣書が届くことはありません。兄上が公式に、私に婚姻の意思がないことを宣言してくださることになりました。――それと、ルミ」
アルヴィーノは言葉を区切り、ルミの小さな両手をそっと包み込む。
「来月から二ヶ月間、北方の国境にある王家直轄領への赴任が決まりました。大規模な軍事演習の指揮と、領地の査察を命じられたのです。……当然、私の『私属の従者』として、貴方も連れて行きます」
「国境に……? 二人で、行くの?」
「そうです。あそこは王都の貴族どもの目が完全に届かない場所だ、と兄上が言っていました。王都にいる時のように、過度な主従の芝居をする必要もありません。あちらにいる間は、ずっと貴方のそばにいます」
それを聞いたルミの表情が、一瞬だけ、ぱあっと明るくなった。
誰の目も気にせず、大好きなアルヴィーノの隣にいられる。
それは何よりも望んでいた、夢のような時間だった。
けれど、すぐにルミの水色の瞳に、翳りが差す。
きゅっと唇を噛み締め、嬉しそうな、それでいて酷く申し訳なさそうな顔でアルヴィーノを見上げた。
「……ごめんね、王子様。俺が、男の子で、普通の女の子みたいに王子様の奥さんになれないから……。俺のせいで、王子様をお仕事で遠くに生かせちゃったり、お兄様を困らせちゃったり、したんだよね……?」
消え入りそうな声。
ルミの手が、申し訳なさそうに微かに震える。
アルヴィーノはその手をぎゅっと握り締め、ルミの視線に合わせるように少し腰を落とした。
切れ長の紫の瞳には、冷酷さなど微塵もなく、ただ深い慈愛だけが満ちている。
「ルミ、私を模範的な『第二王子』に仕立て上げたいのですか?」
「えっ……? ち、違う、そんなの嫌だけど……」
「なら、申し訳なく思う必要など何一つありません。私は最初から、王族としての義務にも、貴族の令嬢にも、塵ほどの興味も抱いていない。私が選んだのは、世界でただ一人、お前だけです」
アルヴィーノはルミの額に、そっと自身の額を重ねた。心地よい体温が交わる。
「お前が私の伴侶でいてくれるから、私は『王の刃』として正気でいられる。これは兄上への貸しであり、国境の掌握という任務の対価として、私が我が儘を通した結果です。お前が気にする必要はどこにもないのですよ、ルミ」
「王子様……」
真っ直ぐに紡がれる絶対的な愛の言葉に、ルミの胸の奥の不安が、今度こそ完全に溶けていく。
水色の瞳に涙を滲ませながらも、ルミは嬉しそうに、何度も何度も小さく頷いた。
「うん……! ありがとう、王子様。俺、王子様についていく。どこまでも一緒に行く!」
「ええ。では、数日後には出発ですから、さっそく準備を始めましょうか。あちらは少々冷え込みますから、暖かい仕立ての服を選ばなくては」
日常のトーンを取り戻したアルヴィーノが、部屋の大きな衣裳箪笥を開ける。
そこには、アルヴィーノの漆黒の軍服とは対照的な、ルミのための可憐で白いロリータ服が何着も美しく並んでいた。
アルヴィーノが「これはどうですか」「あちらの夜着にはこれがいい」と、ルミの服を真剣に選び始める。普段の冷徹な軍師からは想像もつかないその光景に、ルミはトランクを広げながら、ふと頬を赤らめた。
衣服や日用品を詰め込みながら、ふたりの距離が自然と近くなる。誰の目も気にせず、ふたりきりで過ごす二ヶ月の遠征。
「……ねぇ、王子様」
「何ですか、ルミ」
「なんだか、これって……」
ルミはトランクのフチをぎゅっと掴み、上目遣いでアルヴィーノを見つめた。
赤くなった耳を隠すように、水色の長い髪を少し揺らす。
「まるで……その、新婚旅行、みたいだね……っ」
恥ずかしさに耐えかねたように、ルミはぽんと顔を真っ赤にして、持っていた白いレースのショールで顔を半分隠してしまった。
そんな愛らしい伴侶の姿に、アルヴィーノは一瞬だけ目を見張り――それから、声音を一段と甘く孕ませて、嬉しそうに目を細めた。
「――確かに、そうですね」
隠されたルミの顔を覗き込むようにして、アルヴィーノはそのショール越しに、ルミの額へと優しく口づけを落とした。
「貴方を不安にさせるもののない、二人だけの、初めての旅路です。……存分に、私との時間を堪能してください、私の可愛い伴侶(ルミ)」
「……うん……っ」
照れくさそうに笑うルミの笑顔は、もう先ほどまでの陰りを一切残していなかった。
数日後の出発に向けて、静かで、けれど確かな幸福に満ちた時間が、二人のプライベートな空間を優しく満たしていった。
◆
出発の朝、王城の正面玄関には、重厚な意匠が施された漆黒の馬車が佇んでいた。
アルヴィーノは、いつも以上に厳格な、一点の曇りもない漆黒の豪華な軍服に身を包み、冷酷無比な軍師の仮面を完璧に被り直していた。
その背後には、白いロリータ服の上に、あちらの寒さに備えた上質な白い外套を羽織ったルミが、完璧な「私属の従者」として、一歩下がって静かに控えている。
二人の前には、王の衣装を纏ったアルフレッドが、護衛の騎士たちを従えて立っていた。
周囲には見送りの文官や将兵が並び、張り詰めた緊張感が漂っている。
「アルヴィーノ。北方の国境は我が国の要だ。演習の成功と、現地の確実な統治を期待しているよ」
公の場に相応しい、威厳に満ちた冷徹な声。
アルフレッドは弟へ、王としての激励の言葉をかけた。
「御意のままに、陛下。このアルヴィーノ・レイストール、貴方様の冷たき刃として、北方の憂いを根こそぎ断ち切って御覧に入れましょう」
アルヴィーノは流麗に一礼し、一切の私情を挟まない声音で応じた。
その傍らで、ルミもまた、訓練された見事な動作で深く頭を下げる。
周囲の者たちは、その徹底された主従の姿に、やはり第二王子とその従者は冷徹な絆で結ばれているのだと、改めて息を呑んでいた。
「ああ。出発してくれ」
アルフレッドの許しを得て、アルヴィーノは翻って馬車へと乗り込む。ルミがその後に続き、扉が重々しく閉められた。
御手の合図とともに、馬車がゆっくりと動き出す。
王城の重い鉄門をくぐり、二人の「新婚旅行」とも言える旅路が、ついに始まった。
◇
遠ざかっていく馬車の小さくなる轍の音を聴きながら、アルフレッドは小さく息を吐いた。
周囲の将兵たちに「各自、己の職務に戻れ」と冷徹に命じ、自身もまた、足早に王の執務室へと引き返す。
護衛を扉の外に待たせ、一人で室内に足を踏み入れた瞬間――アルフレッドは、どっと押し寄せた疲労感に、思わず自身の額を押さえた。
薔薇木の机の上には、すでに山のような書類が積み上がっている。それは全て、昨日までに届いた、あるいは今日これから処理しなければならない、貴族たちからの「第二王子の縁談に関する嘆願書」の山だった。
一人きりになった室内で、アルフレッドは素の顔に戻り、大きな溜息をついた。
「……本当に、人使いの荒い弟だよ」
ぽつり、と溢れた本音。
アルフレッドは、先ほど完璧な主従を演じていた二人の姿を思い返す。
周囲を欺く冷徹な顔の裏で、あの二人がどれほどお互いを想い合い、そしてどれほど必死に世界からその絆を隠しているか、兄である彼は痛いほど知っていた。
「『成果を上げるまでは如何なる縁談も受け付けない』って、公式に宣言しちゃったからね。……さて、これをどうやってあの欲深い貴族どもに納得させるか」
アルフレッドは机に向かい、一通の書状を手に取った。
王都の有力侯爵からのもので、第二王子の正妃の座を虎視眈々と狙っている男からの圧力が、遠回しな美辞麗句で綴られている。
アルヴィーノが北方の国境で完璧な成果を上げ、国を守る「冷たき刃」としての価値を証明し続ける。
それが、二人が王都の喧騒から逃れるための大義名分だ。
しかし、その大義名分を貴族たちの前に突きつけ、誰一人として文句を言わせないように盾となって立ち塞がるのは、王であるアルフレッドの役目だった。
「あいつが国境を掌握する二ヶ月の間、僕がこの王都の泥沼を完璧に堰き止めなきゃいけないわけだ。……もし僕が失敗してあいつらの関係がバレたら、アルヴィーノは今度こそ、この国ごと僕を滅ぼしにかかるだろうからね」
冗談めかして呟きながらも、アルフレッドの瞳には、現王としての冷徹な覚悟が宿っていた。
かつて傷つけ合い、泥沼の確執を経て、ようやく掴み取った兄弟の和解。
そして、不器用で冷酷だった弟が、ルミという唯一無二の伴侶を得て、ようやく手に入れた人間らしい幸福。
兄として、それを守り通してやるのが、過去の贖罪であり、今の自分にできる最大の情だった。
「……ま、あっちに行けば、王都の目もないし、二人で少しは甘い時間でも過ごせてるだろ。その分のツケが、全部僕に回ってきてると思えば……安いもの、かな」
アルフレッドは苦笑しながら羽ペンを手に取ると、鋭い手つきで貴族たちへの「拒絶の返答書」を執筆し始めた。
「待っててよ、アルヴィーノ、ルミくん。君たちの唯一の場所は、この僕が完璧に守ってあげるからさ」
王都に残された兄の、誰にも見せない奮闘の火蓋が、今ここに切って落とされたのだった。
王城の最奥、重厚な薔薇木の机に向かう若き国王アルフレッドの前に、アルヴィーノは表情ひとつ変えずに立っていた。
差し出された数葉の書状には、国内外の有力貴族から寄せられた令嬢たちの釣書が並んでいる。
「――すべて断れと、何度言えば理解していただけるのですか、兄上」
アルヴィーノの声音は、戦場で敵を震撼させるそれと同じく、冷徹で一切の揺らぎがない。
細く切れ長の紫の瞳が、淡々とした光を宿して兄を見据えていた。
周囲に他の従者や護衛がいないことを確認すると、アルフレッドは羽ペンを置き、椅子の背にもたれかかって小さく息を吐いた。
その瞬間、王としての張り詰めた威厳がふっと消え、親しみのある兄の顔が覗く。
「そんなに怖い顔しないでほしいな、アルヴィーノ。僕だってこれ、楽しんで受け取ってるわけじゃないんだよ」
一人称を「僕」に変え、肩の力を抜いた口調でアルフレッドは苦笑した。
和解を経て、二人の間でだけ許された、かつての兄弟の距離感。
しかし、アルヴィーノの冷ややかな視線は変わらない。
「お前の意思はよく分かっているよ。でもさ、これらは僕の元に届いた『臣下からの嘆願』なんだ。僕の一存ですべてを握り潰し続けたら、さすがに周りも不穏な噂を立て始める。……お前が頑なに誰も娶らない理由を、勘繰る奴が出てくるぞ」
アルフレッドの言葉は、決してからかいではない。
一国の王として、そして弟の幸せを願う兄としての、極めて現実的な忠告だった。
「主従」という仮面を被り、アルヴィーノの影に潜む水色の髪の少年――ルミの存在。
もし彼らの真の関係が露見すれば、ルミの身に危険が及ぶのは火を見るより明らかだった。
「……私の身辺については、私が完璧に処理します。これ以上の婚姻の儀に関する書状は、私の執務室に届く前にすべて破棄してください」
「無茶言わないおくれよ。僕がどれほどお前たちの盾になろうとしても、限界はあるんだから」
アルヴィーノは僅かに眉をひそめた。
普段であれば、これほどの執拗な縁談など、冷酷にあしらい、己の任務を着実にこなすだけで済む話だった。
しかし、今の彼には、どうしてもこの状況を看過できない理由があった。
原因は、昨夜の執務室での一幕にある。
完璧な従者としてアルヴィーノの背後に控えていたルミが、机に積み上がった釣書の束を片付ける際、ほんの一瞬だけ、悲しげに、そして酷く怯えたように視線を落としたのだ。
「王子様は、やっぱり凄くモテるんだね」と、無理に無邪気な笑みを浮かべてみせたその声が、微かに震えていたのをアルヴィーノは聞き逃さなかった。
研究所でボロ雑巾のように扱われ、世界に絶望していたルミ。
ようやく築き上げた二人の絶対的な絆――【伴侶】という誓いがあってもなお、ルミの心の根底には消えない傷痕が眠っている。
ルミを不安にさせる要素は、たとえ実の兄であろうと、国家の都合であろうと、容赦なく排除する。
「兄上」
アルヴィーノの瞳の奥に、禁術をも操る強大な魔力が、静かに、しかし悍ましく揺らめいた。
室内の気温が数度下がったかのような錯覚を覚えるほどの殺気。
「私は貴方の刃だ。貴方の玉座を血で汚さぬために、この身を捧げている。……ですが、私の唯一の対価に手を触れるというのであれば、その刃がどこに向くか、保障はいたしかねます」
それは、実の兄に対する明確な脅迫だった。
並の人間であれば気圧され、命乞いをするほどの殺気。
しかしアルフレッドは、怯むことなくそれを受け止め、やがて、深く重い溜息をついた。
「相変わらず、ルミくんのことになると容易く狂犬になるね、お前は」
アルフレッドは引き出しから一通の、既に蝋封が押された書状を取り出し、机の上に滑らせた。
その表情は、先ほどまでのフランクなものから、どこか真摯な、兄としての温かみを帯びている。
「……僕だって、君たちの関係を邪魔するつもりは毛頭ないよ。むしろ、これ以上周囲が騒がしくなれば、僕の政務にも支障が出る。だからさ、これを使ってほしいんだ」
アルヴィーノは不審そうにその書状に目を落とした。
「来月、北方の国境付近にある王家直轄領で、大規模な演習を行う。軍師である君には、その指揮とその後の領地査察を命じる。期間は二ヶ月だ」
「……それが、この縁談と何の関係が?」
「その査察には、君の『私属の従者』も当然、同行していい。国境の直轄領は、王都の貴族どもの目が完全に届かない場所だ。そこで君たちがどう過ごそうと、僕の耳には何も入ってこない。――それから、王都に残る僕に来る君への縁談だけどね」
アルフレッドは悪戯っぽく、しかし冷徹な光を宿した笑みを浮かべた。
「『第二王子は現在、国境の軍務と領地改革に全力を注いでおり、婚姻を考える余地はない。成果を上げるまでは、如何なる縁談も受け付けない』って、僕が公言しておく。これなら貴族どもも大義名分の前に黙るしかない。君が現地で成果を上げ続ける限り、この猶予はいくらでも引き延ばせる」
王都の喧騒から二人を遠ざけ、誰の目も気にすることなく【伴侶】として過ごせる時間と場所を、王の権限で保障するという、兄からの最大の配慮だった。
「……随分と、私に都合の良い提案ですね」
アルヴィーノの殺気が霧散し、警戒を含んだ声に戻る。
「代わりに、私に何を要求されるつもりですか」
アルフレッドは椅子の背を正し、真っ直ぐに弟を見つめた。
「北方の国境は、未だ不穏な動きを見せる他国の影がある。そこを完全に掌握し、我が国の絶対的な防壁とすること。……それと、もうひとつ」
王は一瞬だけ、かつて傷つけ合った過去を悔いるような、痛みを帯びた目を生真面目に向けた。
「君がルミくんを失えば、君は本当にただの『慈悲なき魔王』に戻ってしまう。僕は、この国の王として君の力を必要としているけど、兄として、再び暗闇に落ちる姿は見たくないんだ。……ルミくんを、不安から守り通して。それが僕の条件だ」
沈黙が室内を支配した。
アルヴィーノは、机の上の書状を静かに手に取り、懐へと収めた。
「御意のままに、陛下。北方の憂いは、私が完璧に断ち切ってみせましょう」
完璧な臣下としての礼を執り、アルヴィーノは翻って執務室を後にした。
アルフレッドの「兄としての不器用な優しさ」をその胸に仕舞い込み、彼は足早に廊下を進む。
向かう先は、己の帰りを自室で待っているであろう、水色の髪の少年の元だ。
(ルミ……もう、貴方が怯える必要はない。私が貴方だけの、唯一の場所を守り続ける)
漆黒の軍服を翻し、冷酷無比な軍師は、己の愛する伴侶の元へと歩みを進めた。
◆
アルヴィーノが王の執務室でアルフレッドと対峙しているその頃、第二王子の広大な私室は、重苦しいほどの静寂に包まれていた。
ルミは、部屋の隅にある大きな長椅子のフチにちょこんと腰掛け、自身の細い指先をじっと見つめていた。
いつものようにアルヴィーノが選んでくれた、真っ白で幾重にもレースが重ねられたお気に入りのロリータ服を着ている。
けれど、いつもならその裾を揺らして無邪気に部屋を跳ね回るはずのルミの身体は、今は小さく縮こまったまま動かない。
透き通るような水色の瞳が、部屋の机の上に、もうそこにはない「あるもの」の残像を追うように彷徨った。
「……また、たくさんあったなぁ」
ぽつり、と零れた独り言は、広い室内の静寂に溶けて消えた。
ルミが思い出していたのは、昨夜、アルヴィーノの執務机にうずたかく積まれていた、きらびやかな装飾が施された書状の山――貴族の令嬢たちの釣書だ。
主従の仮面を被っている以上、ルミは完璧な従者として、それらを片付けなければならなかった。
書状に添えられた写真や肖像画に描かれた女性たちは、誰もが身分が高く、美しく、そして何より、アルヴィーノの隣に立つに相応しい「普通の」人間たちだった。
ルミの胸の奥が、きゅう、と締め付けられるように痛む。
自分は、闇魔法の実験体としてボロ雑巾のように扱われていた過去を持つ身だ。
アルヴィーノに救われ、彼の絶対的な【伴侶】として魂を誓い合った。その絆に嘘偽りがないことは、誰よりもルミ自身が分かっている。
アルヴィーノが自分に注いでくれる執着も、冷酷な仮面の裏にある深い愛も、すべて信じている。
けれど、信じていることと、不安にならないことは別だった。
(アルヴィーノ様は、すごく綺麗で、頭が良くて、本当はとってもお優しい王子様だから……みんなが好きになっちゃうのは、当たり前なんだよね)
王宮の廊下を歩けば、誰もがアルヴィーノの漆黒の軍服姿に圧倒され、憧れと畏怖の視線を送る。
そんな彼が、連日届く美しい令嬢たちとの縁談をすべて断り続けてくれていることも知っていた。
知っているからこそ、申し訳なさと、底知れない恐怖が首をもたげる。
(俺が、男の子だから。……普通の女の子みたいに、表立ってアルヴィーノ様の隣を歩けないから。俺のせいで、アルヴィーノ様に迷惑をかけてるんじゃないかな)
もし、自分が完璧な貴族の令嬢だったなら、アルヴィーノはこんな風に世界を欺き、兄である王と揉める必要もなかったのではないか。
研究所の暗闇から引っ張り上げてくれたアルヴィーノ。
彼を失うことは、ルミにとって再びあの光のない地獄に落ちることと同義だった。
どれだけ言葉を重ねられても、心を閉ざしていた頃の「いつかまた捨てられるかもしれない」という恐怖の根っこは、ルミの心の奥底でいまだに静かに脈打っている。
「だめだなぁ、俺。アルヴィーノ様を困らせたくないのに……」
ルミは水色の長い髪を揺らし、自身の細い両腕で身体をきつく抱きしめた。
昨夜、釣書を見て一瞬だけ表情を曇らせてしまった。
すぐにいつものように無邪気な笑顔を作って「モテるんだね」と冗談めかして言ったけれど、アルヴィーノの鋭い紫の瞳は、ルミの僅かな動揺を見逃していなかったはずだ。
だからこそ、今日もアルヴィーノはあの縁談を撥ね退けるために、アルフレッドの元へ向かったのだ。
自分の弱さが、彼の足を引っ張っている。そう思うと、胸が潰れそうだった。
その時、カチャリ、と静かに部屋の扉の鍵が開く音がした。
ルミは弾かれたように顔を上げた。
入ってきたのは、見紛うはずもない、漆黒の豪華な軍服を纏った青年。
癖のある紫の髪を僅かに揺らし、切れ長の瞳で室内を見渡したアルヴィーノは、長椅子の上で固まっているルミの姿を捉えると、その冷徹な顔をふっと和らげた。
「……ルミ。ただいま戻りました」
その声を聞いた瞬間、ルミの心を満たしていた暗雲が、嘘のように引き裂かれていく。
ルミは長椅子から飛び降りると、白いレースの裾を翻し、一目散に彼の元へと駆け出した。
「王子様……っ!」
仮面を脱ぎ捨て、心からの感情を爆発させたルミは、アルヴィーノの胸へと真っ直ぐに飛び込んでいった。
漆黒の軍服に、純白のレースと水色の長い髪が鮮やかに重なった。
アルヴィーノは、その細い身体を壊れ物を扱うように、けれど二度と離さないと言わんばかりの強い力で抱きしめ返した。
その長い指先が、ルミの背中を優しくあやすように撫でる。
誰も入れないこの私室だけが、冷酷な軍師がただの「男」に戻れる唯一の聖域だった。
「ただいま、ルミ。……そんなに寂しがらせてしまいましたか」
「寂しかった……ううん、寂しくない。王子様が、あの、お見合いのお話のことで、また怒りに行っちゃったから……俺、心配で」
アルヴィーノの胸に顔を埋めたまま、ルミのくぐもった声が響く。
アルヴィーノはルミを優しく引き剥がすと、その透き通るような水色の瞳を覗き込んだ。
そして、そのふっくらとした頬に大きな手を添え、親指で愛おしそうに撫でる。
「怒りに行ったわけではありませんよ。……ただ、少し兄上を脅し、今後の手回しをしてきただけです」
「お、脅したの……?」
目を丸くするルミに、アルヴィーノはふっと微かに、しかし酷く端正な笑みを浮かべてみせた。
「ええ。もう王都から、あの鬱陶しい釣書が届くことはありません。兄上が公式に、私に婚姻の意思がないことを宣言してくださることになりました。――それと、ルミ」
アルヴィーノは言葉を区切り、ルミの小さな両手をそっと包み込む。
「来月から二ヶ月間、北方の国境にある王家直轄領への赴任が決まりました。大規模な軍事演習の指揮と、領地の査察を命じられたのです。……当然、私の『私属の従者』として、貴方も連れて行きます」
「国境に……? 二人で、行くの?」
「そうです。あそこは王都の貴族どもの目が完全に届かない場所だ、と兄上が言っていました。王都にいる時のように、過度な主従の芝居をする必要もありません。あちらにいる間は、ずっと貴方のそばにいます」
それを聞いたルミの表情が、一瞬だけ、ぱあっと明るくなった。
誰の目も気にせず、大好きなアルヴィーノの隣にいられる。
それは何よりも望んでいた、夢のような時間だった。
けれど、すぐにルミの水色の瞳に、翳りが差す。
きゅっと唇を噛み締め、嬉しそうな、それでいて酷く申し訳なさそうな顔でアルヴィーノを見上げた。
「……ごめんね、王子様。俺が、男の子で、普通の女の子みたいに王子様の奥さんになれないから……。俺のせいで、王子様をお仕事で遠くに生かせちゃったり、お兄様を困らせちゃったり、したんだよね……?」
消え入りそうな声。
ルミの手が、申し訳なさそうに微かに震える。
アルヴィーノはその手をぎゅっと握り締め、ルミの視線に合わせるように少し腰を落とした。
切れ長の紫の瞳には、冷酷さなど微塵もなく、ただ深い慈愛だけが満ちている。
「ルミ、私を模範的な『第二王子』に仕立て上げたいのですか?」
「えっ……? ち、違う、そんなの嫌だけど……」
「なら、申し訳なく思う必要など何一つありません。私は最初から、王族としての義務にも、貴族の令嬢にも、塵ほどの興味も抱いていない。私が選んだのは、世界でただ一人、お前だけです」
アルヴィーノはルミの額に、そっと自身の額を重ねた。心地よい体温が交わる。
「お前が私の伴侶でいてくれるから、私は『王の刃』として正気でいられる。これは兄上への貸しであり、国境の掌握という任務の対価として、私が我が儘を通した結果です。お前が気にする必要はどこにもないのですよ、ルミ」
「王子様……」
真っ直ぐに紡がれる絶対的な愛の言葉に、ルミの胸の奥の不安が、今度こそ完全に溶けていく。
水色の瞳に涙を滲ませながらも、ルミは嬉しそうに、何度も何度も小さく頷いた。
「うん……! ありがとう、王子様。俺、王子様についていく。どこまでも一緒に行く!」
「ええ。では、数日後には出発ですから、さっそく準備を始めましょうか。あちらは少々冷え込みますから、暖かい仕立ての服を選ばなくては」
日常のトーンを取り戻したアルヴィーノが、部屋の大きな衣裳箪笥を開ける。
そこには、アルヴィーノの漆黒の軍服とは対照的な、ルミのための可憐で白いロリータ服が何着も美しく並んでいた。
アルヴィーノが「これはどうですか」「あちらの夜着にはこれがいい」と、ルミの服を真剣に選び始める。普段の冷徹な軍師からは想像もつかないその光景に、ルミはトランクを広げながら、ふと頬を赤らめた。
衣服や日用品を詰め込みながら、ふたりの距離が自然と近くなる。誰の目も気にせず、ふたりきりで過ごす二ヶ月の遠征。
「……ねぇ、王子様」
「何ですか、ルミ」
「なんだか、これって……」
ルミはトランクのフチをぎゅっと掴み、上目遣いでアルヴィーノを見つめた。
赤くなった耳を隠すように、水色の長い髪を少し揺らす。
「まるで……その、新婚旅行、みたいだね……っ」
恥ずかしさに耐えかねたように、ルミはぽんと顔を真っ赤にして、持っていた白いレースのショールで顔を半分隠してしまった。
そんな愛らしい伴侶の姿に、アルヴィーノは一瞬だけ目を見張り――それから、声音を一段と甘く孕ませて、嬉しそうに目を細めた。
「――確かに、そうですね」
隠されたルミの顔を覗き込むようにして、アルヴィーノはそのショール越しに、ルミの額へと優しく口づけを落とした。
「貴方を不安にさせるもののない、二人だけの、初めての旅路です。……存分に、私との時間を堪能してください、私の可愛い伴侶(ルミ)」
「……うん……っ」
照れくさそうに笑うルミの笑顔は、もう先ほどまでの陰りを一切残していなかった。
数日後の出発に向けて、静かで、けれど確かな幸福に満ちた時間が、二人のプライベートな空間を優しく満たしていった。
◆
出発の朝、王城の正面玄関には、重厚な意匠が施された漆黒の馬車が佇んでいた。
アルヴィーノは、いつも以上に厳格な、一点の曇りもない漆黒の豪華な軍服に身を包み、冷酷無比な軍師の仮面を完璧に被り直していた。
その背後には、白いロリータ服の上に、あちらの寒さに備えた上質な白い外套を羽織ったルミが、完璧な「私属の従者」として、一歩下がって静かに控えている。
二人の前には、王の衣装を纏ったアルフレッドが、護衛の騎士たちを従えて立っていた。
周囲には見送りの文官や将兵が並び、張り詰めた緊張感が漂っている。
「アルヴィーノ。北方の国境は我が国の要だ。演習の成功と、現地の確実な統治を期待しているよ」
公の場に相応しい、威厳に満ちた冷徹な声。
アルフレッドは弟へ、王としての激励の言葉をかけた。
「御意のままに、陛下。このアルヴィーノ・レイストール、貴方様の冷たき刃として、北方の憂いを根こそぎ断ち切って御覧に入れましょう」
アルヴィーノは流麗に一礼し、一切の私情を挟まない声音で応じた。
その傍らで、ルミもまた、訓練された見事な動作で深く頭を下げる。
周囲の者たちは、その徹底された主従の姿に、やはり第二王子とその従者は冷徹な絆で結ばれているのだと、改めて息を呑んでいた。
「ああ。出発してくれ」
アルフレッドの許しを得て、アルヴィーノは翻って馬車へと乗り込む。ルミがその後に続き、扉が重々しく閉められた。
御手の合図とともに、馬車がゆっくりと動き出す。
王城の重い鉄門をくぐり、二人の「新婚旅行」とも言える旅路が、ついに始まった。
◇
遠ざかっていく馬車の小さくなる轍の音を聴きながら、アルフレッドは小さく息を吐いた。
周囲の将兵たちに「各自、己の職務に戻れ」と冷徹に命じ、自身もまた、足早に王の執務室へと引き返す。
護衛を扉の外に待たせ、一人で室内に足を踏み入れた瞬間――アルフレッドは、どっと押し寄せた疲労感に、思わず自身の額を押さえた。
薔薇木の机の上には、すでに山のような書類が積み上がっている。それは全て、昨日までに届いた、あるいは今日これから処理しなければならない、貴族たちからの「第二王子の縁談に関する嘆願書」の山だった。
一人きりになった室内で、アルフレッドは素の顔に戻り、大きな溜息をついた。
「……本当に、人使いの荒い弟だよ」
ぽつり、と溢れた本音。
アルフレッドは、先ほど完璧な主従を演じていた二人の姿を思い返す。
周囲を欺く冷徹な顔の裏で、あの二人がどれほどお互いを想い合い、そしてどれほど必死に世界からその絆を隠しているか、兄である彼は痛いほど知っていた。
「『成果を上げるまでは如何なる縁談も受け付けない』って、公式に宣言しちゃったからね。……さて、これをどうやってあの欲深い貴族どもに納得させるか」
アルフレッドは机に向かい、一通の書状を手に取った。
王都の有力侯爵からのもので、第二王子の正妃の座を虎視眈々と狙っている男からの圧力が、遠回しな美辞麗句で綴られている。
アルヴィーノが北方の国境で完璧な成果を上げ、国を守る「冷たき刃」としての価値を証明し続ける。
それが、二人が王都の喧騒から逃れるための大義名分だ。
しかし、その大義名分を貴族たちの前に突きつけ、誰一人として文句を言わせないように盾となって立ち塞がるのは、王であるアルフレッドの役目だった。
「あいつが国境を掌握する二ヶ月の間、僕がこの王都の泥沼を完璧に堰き止めなきゃいけないわけだ。……もし僕が失敗してあいつらの関係がバレたら、アルヴィーノは今度こそ、この国ごと僕を滅ぼしにかかるだろうからね」
冗談めかして呟きながらも、アルフレッドの瞳には、現王としての冷徹な覚悟が宿っていた。
かつて傷つけ合い、泥沼の確執を経て、ようやく掴み取った兄弟の和解。
そして、不器用で冷酷だった弟が、ルミという唯一無二の伴侶を得て、ようやく手に入れた人間らしい幸福。
兄として、それを守り通してやるのが、過去の贖罪であり、今の自分にできる最大の情だった。
「……ま、あっちに行けば、王都の目もないし、二人で少しは甘い時間でも過ごせてるだろ。その分のツケが、全部僕に回ってきてると思えば……安いもの、かな」
アルフレッドは苦笑しながら羽ペンを手に取ると、鋭い手つきで貴族たちへの「拒絶の返答書」を執筆し始めた。
「待っててよ、アルヴィーノ、ルミくん。君たちの唯一の場所は、この僕が完璧に守ってあげるからさ」
王都に残された兄の、誰にも見せない奮闘の火蓋が、今ここに切って落とされたのだった。
