主と従者の檻に、世界で一番甘い誓いを

夜の帳が完全に下り、王宮は静寂の海へと沈んでいた。
明日、国内外の諸侯を迎えて執り行われる「公式の婚約儀礼」を控え、城内は嵐の前の静けさのような厳かな空気に包まれている。
だが、その喧騒の予感から完全に隔離された大聖堂の内部は、月光だけが支配する神秘的な聖域と化していた。

高い天井へと伸びるステンドグラスから、青白い月光が幾筋もの光の帯となって降り注ぐ。
昼間、ルミたちが一生懸命に飾り付けた五千本の白百合が、夜の冷気の中でいっせいに花開き、むせ返るほどに甘く清らかな香りを堂内に満たしていた。

その中央祭壇の前。
コツ、コツ、と、いつもより微かに軽い足音が、大理石の床に静かな残響を刻んだ。

「お待たせしました。えっと……似合う、かな……?」

祭壇の陰から現れたアルフレッドが、息を呑むようにしてその足を止める。
彼の隣に寄り添うエルザもまた、両手を口元に当て、エメラルドの瞳を感動の涙で潤ませた。
そこにいたのは、昼間の「従者」の殻を完全に脱ぎ捨てた、奇跡のようなルミの姿だった。
仕立職人ジャンが持てる技術のすべてを注ぎ込んだドレスは、クローデル王国特産の極上シルクが使われていた。
ルミが動くたびに、天青色の生地が月光を浴びて、まるで穏やかな夜の海のように深く、神秘的な波紋を描いて翻る。
胸元には、エルザが贈った「星の雫」の精緻な銀刺繍が施され、ルミの透き通るような白い肌を、よりいっそう際立たせていた。
緊張のあまり、水色の瞳を潤ませてじっとアルヴィーノを見上げるその姿は、文字通り、この国で最も気高く美しい「天青の王女」そのものであった。
しかし、それ以上にアルフレッドたちを驚かせたのは、対面に立つ男の姿だった。

「……アルヴィーノ、君……」

アルフレッドの口から、驚嘆の吐息が漏れる。
そこに立っていたのは、いつも身に纏っていた、あの血と硝煙の歴史を象徴するような「漆黒の軍服」を脱ぎ捨てたアルヴィーノだった。
今夜の彼は、眩いばかりの純白を基調とした、気高き礼服に身を包んでいた。
肩から流れる白銀の飾緒、完璧に磨き上げられた銀の軍刀、そしてその白い軍帽から覗く、深い紫の双眸。
黒という仮面を捨て、無垢な白へと染まった魔王の姿は、冷酷な軍師ではなく、ただ一人の少年を一生を懸けて愛し、守り抜くことを決意した「一人の男」の、剥き出しの覚悟を体現していた。

「……綺麗です、ルミ。世界中のどんな宝石も、今の貴方の美しさの前には、ただの石ころに過ぎませんね」

アルヴィーノの声は、微かに震えていた。
いつも冷徹に戦況を分析する彼の喉が、ルミの姿を見た瞬間、歓喜と愛おしさで完全に締め付けられていたのだ。

「あ……、アルヴィーノ様……。俺、なんだか、すごくドキドキしてて……。でも、アルヴィーノ様が白いの、すっごく……カッコいい……っ」

ルミは顔を真っ赤に染めながらも、その水色の瞳を真っ直ぐにアルヴィーノへと向けた。
祭壇の上には、神への誓いを立てるための、誰もいない静かな空間が広がっている。
アルフレッドが一歩前へ出ると、国王としての、そして「兄」としての、この上なく優しい声を大聖堂に響かせた。

「神の御前において、僕たち二人の王族が、ここに集った。国法が定めた形ではないかもしれない。歴史の書物に、この夜のことは一行も残らないだろう。……だが、新王アルフレッドの名において、そして未来の王妃エルザの名において、僕たちはここに証明する。……アルヴィーノ、そしてルミ。二人の魂の結びつきは、この国が持つ、何よりも尊く、絶対の真実であることを」

エルザが優しく微笑み、二人の背中をそっと押すように深く頷いた。
アルヴィーノはゆっくりとルミの前へと進み出ると、純白の衣の裾を揺らし、大理石の床へ片膝を突いた。
王族である彼が、一人の従者の前で、完全に傅いたのだ。
上着の内ポケット、心臓の鼓動をずっと聞き続けてきたその場所に、手を伸ばす。
取り出されたベルベットの小さな箱が開かれた瞬間、堂内の月光を集めたかのように、深海のような昏い青が美しく爆ぜた。

「――星涙石」

ルミが小さく息を呑む。

「ルミ」

アルヴィーノは、手袋を外した自らの素手で、ルミの微かに震える左手をそっと包み込んだ。
肌から伝わる、愛しい少年の体温。

「公的に、貴方を私の婚約者として世界に誇ることは、今の私にはできない。貴方を『主と従者』という檻の中に閉じ込め、影の中に隠し続けねばならない我が身の無力を、どうか許してほしい。……ですが、私の魂は、私の命は、私のすべては、あの大聖堂の夜から、いいえ、貴方と出会ったその瞬間から、すでに貴方のものです」

アルヴィーノの紫の瞳から、一滴の熱い感情が零れ落ちそうになる。

「この指輪は、貴方をあらゆる悪意から守る盾となり、私たちの絆を隠す悪戯な魔法となる。……どうか、私の隣にいてほしい。表向きは主と従者のままでいい。けれど、私の生涯の唯一の伴侶として、この不器用な檻の中で、私と共に生きてくれませんか」
「アルヴィーノ様……っ」

ルミの目から、溜まっていた涙がポロポロと溢れ出し、天青色のシルクの胸元に小さな染みを作った。
けれど、その顔は、世界で一番幸せな笑顔に満ち溢れていた。

「はい……っ! 俺、どこにも行かない……! どんなに隠されても、主と従者のままでも……俺、アルヴィーノ様の従者で、アルヴィーノ様の……お嫁さん、です……!」

アルヴィーノは深く息を吐き出すと、ルミの細い左手の薬指に、深海の青を湛えた『星涙石』の指輪を静かに滑り込ませた。
サイズは、寸分の狂いもなく完璧だった。
指輪が嵌められた瞬間、石はルミの意志に応えるように一瞬だけ強く輝き、それから、周囲の目を欺くための「ありふれた安物の銀細工」へと、その輝きを密かに潜めた。
だが、輝きが消えても、そこに込められた魔王の絶対的な守護と愛は、消えることはない。
アルヴィーノは立ち上がると、自らの薬指に嵌まった、一回り大きな一対の指輪をルミに見せ、それからルミの小さな身体を、壊れ物を扱うように、けれど二度と離さないという強い力で抱きしめた。

「おめでとう、二人とも」

アルフレッドが、涙を浮かべて拍手を送る。
その隣で、エルザもまた、ハンカチで目元を押さえながら、二人の新しい家族のために祈りを捧げていた。
白百合の香りが満ちる大聖堂で、月光に照らされながら、純白の魔王と天青の王女は、静かに唇を重ねた。
明日になれば、再び冷徹な「軍師」と「従者」に戻る。
けれど、この薬指に嵌められた目に見えない繋がりがある限り、二人の檻は、世界で一番安全で、世界で一番幸福な聖域であり続けるのだ。
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