主と従者の檻に、世界で一番甘い誓いを
白磁のティーカップが、ソーサーの縁と擦れ合ってチリンと繊細な音を立てる。
そこから立ち上る甘く濃厚な湯気は、執務室の冷え切った空気へと、ゆっくりと染み渡るように広がっていった。
エルザが北方ローゼンタール領から持参したという特産の蜂蜜が落とされた紅茶は、部屋全体を雪解けの季節のような、どこか懐かしく温かい香りで満たしていく。
ソファに腰掛けたルミは、最初こそ借りてきた猫のように背筋をピンと伸ばしていたものの、エルザが自ら切り分けてくれた焼き菓子を一口齧ると、「美味しい……!」と、いつもの水色の瞳をきらきらと輝かせた。
その小さな唇の端に微かなパイ生地の粉がついているのを見て、アルヴィーノは手袋を嵌めた指先でそれをそっと拭ってやる。
その一連の動作の優しさは、先ほどまで他国の特使を震え上がらせていた冷酷な「魔王」のものとは、到底信じ難いほどに穏やかだった。
その様子を、アルフレッドは自身の傷ついた右腕をかばうように椅子の肘掛けに置きながら、いつもの優しい笑みを浮かべて眺めている。
彼の青い瞳には、王としての重圧から解放された、ただの兄としての温かさが戻っていた。
「どうだい、ルミくん。エルザの持ってきた蜂蜜は格別だろう? 僕も初めて彼女の領地を訪ねた時、この味にすっかり胃袋を掴まれてしまってね。あの凍てつく北方の地で、こんなに温かくて甘いものが作られているなんて、それだけで救われたような気がしたものさ」
「まあ、アルフレッド様。またそのお話をされるのですか? ルミさんが恥ずかしがってしまいますわ」
エルザは困ったように柔らかな眉を下げて微笑みながら、手際よくアルヴィーノのカップにもお茶を注いでいく。
彼女の所作には、一切の無駄がなく、かつ相手を緊張させない包容力があった。
アルヴィーノは、いつもなら刃のように鋭いその紫の瞳を、今はすっかり穏やかに細めていた。
隣に座るルミが嬉しそうにしている、ただそれだけで、彼の心の中にある世界への敵意や警戒はすべて綺麗に消え去ってしまうのだ。
「兄上。手紙では伺っていましたが、改めてお二人の『馴れ初め』を、この軍師にも詳しくお聞かせ願いたいですね。ヴァレンティ家の粛清という、国中が血と硝煙に塗れていた最中、貴方がいつの間にローゼンタール公爵家とそれほど深い絆を結んでいたのか、国政を預かる身としては実に興味深い」
アルヴィーノが少し意地悪く、けれど深い信頼の籠った声で尋ねると、アルフレッドは降参したように両手を広げて、椅子の背もたれに身体を預けた。
「酷いな、アルヴィーノ。まるで僕が裏で不純な動機で動いていたみたいじゃないか。……事の始まりは、あの粛清の夜の直前さ。ヴァレンティ家の不穏な動きを察知したローゼンタール公爵――つまりエルザのお父上が、国境の兵力を密かに僕に預けてくれるという極秘の親書を持ってきたんだ。その使者として、命懸けで王宮に潜入してきたのが、他でもないエルザだった」
「……使者、ですか。公爵令嬢自らが、あの危険な王宮へ?」
アルヴィーノが驚きを込めてエルザを見ると、彼女は恥ずかしそうにエメラルドの瞳を少しだけ伏せた。
暖炉の炎が、彼女の美しいプラチナブロンドの髪の端を黄金色に縁取っている。
「はい。当時はまだヴァレンティの目が光っておりましたから、目立たないよう、救貧院の物資搬入の馬車に紛れ込んで参りました。……あの夜、初めてアルフレッド様とお会いした時のことは、一生忘れられません。お一人で、国を背負う冷徹な王の仮面を被ろうと必死で……けれど、その瞳の奥には、国民を誰一人見捨てたくないという、あまりにも不器用で優しい光が揺れていました。私はその光を見て、この方をお支えしようと決めたのです」
エルザはそっと手を伸ばし、アルフレッドの包帯が巻かれた右手を、自らの両手で包み込むようにして温めた。
その手付きは、まるで傷ついた小鳥を労わるかのように繊細だった。
「あの大聖堂の夜、すべてが終わった後、この方が血と泥に塗まみれて執務室に戻っていらっしゃいました。ご自身の腕を焼いてまで掴んだ王座の重みに、その身体はひどく震えておいでで……。私は、何もお聞きしませんでした。なぜなら、私がお慕いしたのは『完璧な王』ではなく、その不器用なまでの優しさだったからです。だから、せめて冷え切ったお身体だけでも温めたいと、お節介にもスープを作ってお出ししましたの」
「あのスープの温かさで、僕は自分がまだ『人間』だってことを思い出せたんだ。冷酷な王になる必要はない、ただ、大切な人を守れる王になればいいのだと、彼女が教えてくれた」
アルフレッドは愛おしそうに、エルザの手を握り返した。
二人の間に流れる空気は、政治的な契約ではなく、確かに魂の深い部分で結ばれた本物の夫婦のそれだった。
その二人の姿を、ルミは胸がいっぱいになった様子で見つめ、それからアルヴィーノの漆黒の袖をきゅっと引いた。
その水色の瞳には、薄すらと感動の涙が浮かんでいる。
「アルヴィーノ様、よかったね。アルフレッド様にも、こんなに優しくて、ちゃんとした人が隣にいてくれて……」
「ええ、本当に……。私の過剰な警戒など、全くの杞憂でした。兄上、素晴らしい伴侶を得られましたね」
アルヴィーノはルミの頭を優しく撫で、その柔らかな髪の感触を確かめながら、前を向き直して、少しだけ真面目な軍師の、そして弟の声音で尋ねた。
「それで、公的な『婚約の儀』はいつ執り行うおつもりですか? ヴァレンティ亡き後の新体制を国内外に知らしめるためにも、その時期と規模は新国家の威信に関わりますが」
その問いに、アルフレッドは少しだけ「兄」の顔に戻って悪戯っぽく笑った。
「来月の初頭、新緑が一番美しい季節に、王宮の大聖堂で盛大に行う予定だよ。……もちろん、国内外の貴族どもを総動員した、最高に華やかで、僕たちにとっては最高に退屈な政治の場さ。新王の権威を、これでもかと見せつけてやるつもりだ」
「……なるほど。私と第一魔導軍団が、周囲の警護と不平分子の圧殺を完璧にこなしましょう。羽虫一匹、その儀式に近づけさせはしません」
アルヴィーノが冷ややかに微笑むと、アルフレッドは「頼むよ、頼もしい軍師殿」と笑い、それから一度言葉を区切った。
彼はアルヴィーノとルミの二人を、本当に慈愛に満ちた青い瞳で見つめ直す。
「でもね。その公的な儀式の『前日の夜』……大聖堂の灯りをすべて落として、僕とエルザ、そして君たち二人の、四人だけで、小さな誓いの儀式を先にやろうと思っているんだ。……エルザにも、二人の関係のことはすべて話してある。彼女も、君たちの『結びつき』を、心から祝福したいと言ってくれているからね」
「ええ」と、エルザも深く頷いた。
彼女の眼差しには、ルミへの偏見など微塵も存在しなかった。
「国法がどうあろうと、ルミさん、貴方はアルヴィーノ殿下の生涯の伴侶ですわ。それを、私たちが神の前で最初に承認いたします。歴史の教科書には残らなくても、私たちの胸の中に、それは絶対の真実として刻まれます。……ジャンが仕立てているという天青色のドレス、楽しみにしていますね?」
「あ……」
ルミは顔を真っ赤にしながらも、嬉しさに水色の瞳を潤ませて深く頷いた。
自分のような従者が、これほど高貴な人々に受け入れられ、祝福してもらえるなんて、夢にも思っていなかったのだ。
アルヴィーノは、上着のポケットの奥、心臓のすぐ側にある「星涙石」の指輪の重みを、再び確かめていた。
衣服が擦れるたび、その硬質な存在感が、彼の胸に確かな覚悟を刻みつける。
アルフレッドが歩む、祝福に満ちた公的な婚礼の道。
そして、自分たちがこの部屋の奥、あるいは静まり返った大聖堂で交わす、誰にも知られない、けれど世界で一番強固な秘密の誓い。
二人の王族がそれぞれの愛を見つけ、血に塗られたはずの王宮の中に、確かな幸福の足音が静かに、けれど確実に近づいていた。
「――心から、感謝いたします。兄上、そして……姉上」
アルヴィーノの口から自然と出たその言葉に、エルザは本当に嬉しそうに微笑み、ルミもまた、温かい紅茶を口に含んで、世界で一番幸せな笑顔を咲かせるのだった。
そこから立ち上る甘く濃厚な湯気は、執務室の冷え切った空気へと、ゆっくりと染み渡るように広がっていった。
エルザが北方ローゼンタール領から持参したという特産の蜂蜜が落とされた紅茶は、部屋全体を雪解けの季節のような、どこか懐かしく温かい香りで満たしていく。
ソファに腰掛けたルミは、最初こそ借りてきた猫のように背筋をピンと伸ばしていたものの、エルザが自ら切り分けてくれた焼き菓子を一口齧ると、「美味しい……!」と、いつもの水色の瞳をきらきらと輝かせた。
その小さな唇の端に微かなパイ生地の粉がついているのを見て、アルヴィーノは手袋を嵌めた指先でそれをそっと拭ってやる。
その一連の動作の優しさは、先ほどまで他国の特使を震え上がらせていた冷酷な「魔王」のものとは、到底信じ難いほどに穏やかだった。
その様子を、アルフレッドは自身の傷ついた右腕をかばうように椅子の肘掛けに置きながら、いつもの優しい笑みを浮かべて眺めている。
彼の青い瞳には、王としての重圧から解放された、ただの兄としての温かさが戻っていた。
「どうだい、ルミくん。エルザの持ってきた蜂蜜は格別だろう? 僕も初めて彼女の領地を訪ねた時、この味にすっかり胃袋を掴まれてしまってね。あの凍てつく北方の地で、こんなに温かくて甘いものが作られているなんて、それだけで救われたような気がしたものさ」
「まあ、アルフレッド様。またそのお話をされるのですか? ルミさんが恥ずかしがってしまいますわ」
エルザは困ったように柔らかな眉を下げて微笑みながら、手際よくアルヴィーノのカップにもお茶を注いでいく。
彼女の所作には、一切の無駄がなく、かつ相手を緊張させない包容力があった。
アルヴィーノは、いつもなら刃のように鋭いその紫の瞳を、今はすっかり穏やかに細めていた。
隣に座るルミが嬉しそうにしている、ただそれだけで、彼の心の中にある世界への敵意や警戒はすべて綺麗に消え去ってしまうのだ。
「兄上。手紙では伺っていましたが、改めてお二人の『馴れ初め』を、この軍師にも詳しくお聞かせ願いたいですね。ヴァレンティ家の粛清という、国中が血と硝煙に塗れていた最中、貴方がいつの間にローゼンタール公爵家とそれほど深い絆を結んでいたのか、国政を預かる身としては実に興味深い」
アルヴィーノが少し意地悪く、けれど深い信頼の籠った声で尋ねると、アルフレッドは降参したように両手を広げて、椅子の背もたれに身体を預けた。
「酷いな、アルヴィーノ。まるで僕が裏で不純な動機で動いていたみたいじゃないか。……事の始まりは、あの粛清の夜の直前さ。ヴァレンティ家の不穏な動きを察知したローゼンタール公爵――つまりエルザのお父上が、国境の兵力を密かに僕に預けてくれるという極秘の親書を持ってきたんだ。その使者として、命懸けで王宮に潜入してきたのが、他でもないエルザだった」
「……使者、ですか。公爵令嬢自らが、あの危険な王宮へ?」
アルヴィーノが驚きを込めてエルザを見ると、彼女は恥ずかしそうにエメラルドの瞳を少しだけ伏せた。
暖炉の炎が、彼女の美しいプラチナブロンドの髪の端を黄金色に縁取っている。
「はい。当時はまだヴァレンティの目が光っておりましたから、目立たないよう、救貧院の物資搬入の馬車に紛れ込んで参りました。……あの夜、初めてアルフレッド様とお会いした時のことは、一生忘れられません。お一人で、国を背負う冷徹な王の仮面を被ろうと必死で……けれど、その瞳の奥には、国民を誰一人見捨てたくないという、あまりにも不器用で優しい光が揺れていました。私はその光を見て、この方をお支えしようと決めたのです」
エルザはそっと手を伸ばし、アルフレッドの包帯が巻かれた右手を、自らの両手で包み込むようにして温めた。
その手付きは、まるで傷ついた小鳥を労わるかのように繊細だった。
「あの大聖堂の夜、すべてが終わった後、この方が血と泥に塗まみれて執務室に戻っていらっしゃいました。ご自身の腕を焼いてまで掴んだ王座の重みに、その身体はひどく震えておいでで……。私は、何もお聞きしませんでした。なぜなら、私がお慕いしたのは『完璧な王』ではなく、その不器用なまでの優しさだったからです。だから、せめて冷え切ったお身体だけでも温めたいと、お節介にもスープを作ってお出ししましたの」
「あのスープの温かさで、僕は自分がまだ『人間』だってことを思い出せたんだ。冷酷な王になる必要はない、ただ、大切な人を守れる王になればいいのだと、彼女が教えてくれた」
アルフレッドは愛おしそうに、エルザの手を握り返した。
二人の間に流れる空気は、政治的な契約ではなく、確かに魂の深い部分で結ばれた本物の夫婦のそれだった。
その二人の姿を、ルミは胸がいっぱいになった様子で見つめ、それからアルヴィーノの漆黒の袖をきゅっと引いた。
その水色の瞳には、薄すらと感動の涙が浮かんでいる。
「アルヴィーノ様、よかったね。アルフレッド様にも、こんなに優しくて、ちゃんとした人が隣にいてくれて……」
「ええ、本当に……。私の過剰な警戒など、全くの杞憂でした。兄上、素晴らしい伴侶を得られましたね」
アルヴィーノはルミの頭を優しく撫で、その柔らかな髪の感触を確かめながら、前を向き直して、少しだけ真面目な軍師の、そして弟の声音で尋ねた。
「それで、公的な『婚約の儀』はいつ執り行うおつもりですか? ヴァレンティ亡き後の新体制を国内外に知らしめるためにも、その時期と規模は新国家の威信に関わりますが」
その問いに、アルフレッドは少しだけ「兄」の顔に戻って悪戯っぽく笑った。
「来月の初頭、新緑が一番美しい季節に、王宮の大聖堂で盛大に行う予定だよ。……もちろん、国内外の貴族どもを総動員した、最高に華やかで、僕たちにとっては最高に退屈な政治の場さ。新王の権威を、これでもかと見せつけてやるつもりだ」
「……なるほど。私と第一魔導軍団が、周囲の警護と不平分子の圧殺を完璧にこなしましょう。羽虫一匹、その儀式に近づけさせはしません」
アルヴィーノが冷ややかに微笑むと、アルフレッドは「頼むよ、頼もしい軍師殿」と笑い、それから一度言葉を区切った。
彼はアルヴィーノとルミの二人を、本当に慈愛に満ちた青い瞳で見つめ直す。
「でもね。その公的な儀式の『前日の夜』……大聖堂の灯りをすべて落として、僕とエルザ、そして君たち二人の、四人だけで、小さな誓いの儀式を先にやろうと思っているんだ。……エルザにも、二人の関係のことはすべて話してある。彼女も、君たちの『結びつき』を、心から祝福したいと言ってくれているからね」
「ええ」と、エルザも深く頷いた。
彼女の眼差しには、ルミへの偏見など微塵も存在しなかった。
「国法がどうあろうと、ルミさん、貴方はアルヴィーノ殿下の生涯の伴侶ですわ。それを、私たちが神の前で最初に承認いたします。歴史の教科書には残らなくても、私たちの胸の中に、それは絶対の真実として刻まれます。……ジャンが仕立てているという天青色のドレス、楽しみにしていますね?」
「あ……」
ルミは顔を真っ赤にしながらも、嬉しさに水色の瞳を潤ませて深く頷いた。
自分のような従者が、これほど高貴な人々に受け入れられ、祝福してもらえるなんて、夢にも思っていなかったのだ。
アルヴィーノは、上着のポケットの奥、心臓のすぐ側にある「星涙石」の指輪の重みを、再び確かめていた。
衣服が擦れるたび、その硬質な存在感が、彼の胸に確かな覚悟を刻みつける。
アルフレッドが歩む、祝福に満ちた公的な婚礼の道。
そして、自分たちがこの部屋の奥、あるいは静まり返った大聖堂で交わす、誰にも知られない、けれど世界で一番強固な秘密の誓い。
二人の王族がそれぞれの愛を見つけ、血に塗られたはずの王宮の中に、確かな幸福の足音が静かに、けれど確実に近づいていた。
「――心から、感謝いたします。兄上、そして……姉上」
アルヴィーノの口から自然と出たその言葉に、エルザは本当に嬉しそうに微笑み、ルミもまた、温かい紅茶を口に含んで、世界で一番幸せな笑顔を咲かせるのだった。
