主と従者の檻に、世界で一番甘い誓いを
重厚な扉が幾重にも重なる「国王執務室」。
かつてヴァレンティ家の傲慢な影が蠢いていたその場所は、今や冷徹なほどに整理され、新王アルフレッドによる統治の静謐が支配していた。
アルヴィーノは、自身の背後に隠れるように歩くルミの気配を、鋭敏な感覚で捉えていた。
ルミの小さな指先が、アルヴィーノの軍服の裾をぎゅっと握りしめている。
その指先の微かな震えが、厚い生地を通して伝わってくるようだった。
「……大丈夫ですよ、ルミ。何があっても、私が貴方を守ります」
「……うん。でも、なんだか怖くて。あの人みたいな人だったら、俺、どうしようって……」
ルミの脳裏には、かつて向けられた冷酷な蔑視の眼差しが、未だに消えぬ泥のようにこびりついていた。
高位の貴族女性という存在は、ルミにとって「理不尽な悪意」と同義だったのだ。
アルヴィーノは無言で、自身の腰に帯びた軍刀の柄に、手袋を嵌めた手をそっと置いた。
その動作は、たとえ王の婚約者であろうとも、ルミに牙を剥く者があれば、即座にその喉元を噛み切るという魔王の宣戦布告であった。
扉の前に立つ衛兵が、二人の到来を告げ、巨大な扉を静かに左右へ開く。
「――お帰り、アルヴィーノ。待っていたよ」
執務室の窓を背にして立ち上がったのは、柔らかな笑みを浮かべたアルフレッドだった。
その右腕には未だ包帯が巻かれているが、その青い瞳からは、かつての迷いや重圧による濁りは完全に消え去っている。
そして、そのアルフレッドのすぐ隣に、静かに佇む一人の女性がいた。
アルヴィーノの紫の瞳が、獲物を定めるかのような鋭さで彼女を射抜く。
しかし、次の瞬間。
アルヴィーノの心に満ちていた「殺気」が、拍子抜けするほどに霧散した。
そこにいた女性――エルザ・ローゼンタールは、かつてのエレオノーラが放っていたような、男を惑わす安っぽい香水の匂いも、宝石を誇示する刺々しい輝きも、一切纏っていなかった。
彼女のプラチナブロンドは気品を保ちつつも控えめに編み込まれ、纏っている深い緑のドレスは、質の良さは一目で分かるものの、驚くほど実用的で落ち着いたデザインだった。
そして何より、彼女のエメラルドの瞳には、打算も優越感も存在しなかった。
ただ、北国の凍てつく大地で静かに花開く白百合のような、峻厳で、かつ慈愛に満ちた「真実」だけが宿っていた。
「あ……」
アルヴィーノの背後から、ルミが小さく声を漏らす。
ルミの野生に近い直感が、目の前の女性が「毒ではない」ことを、誰よりも早く察知していた。
「紹介するよ、アルヴィーノ。……そして、ルミくん。僕の婚約者となった、エルザ・ローゼンタール公爵令嬢だ。彼女には、二人のこと……そして、僕たちの『これからの国づくり』に欠かせない人たちだと伝えてあるよ」
アルフレッドが「僕」といういつも軽い口調でエルザの肩に手を置くと、彼女は一歩前へ出た。
そして、王の婚約者という立場を鼻にかけることもなく、身分の低いルミの目線に合わせるように、わずかに身体を屈めて、優しく微笑んだ。
「お初にお目にかかります。アルヴィーノ殿下……そして、貴方がルミさんですね。陛下の包帯を巻き直す時、貴方のことをいつも愛おしそうにお話しになるので、お会いできるのをずっと心待ちにしていたのですよ」
その声は、春の雪解け水のように清らかで、淀みがなかった。
エルザはそっとルミの元へ歩み寄ると、警戒して固まっているルミの小さな手を取り、自身の両手で包み込むようにして温めた。
「怖がらせてしまいましたか? 突然の呼び出しで、申し訳ありません。……アルフレッド様、お茶の準備を。これほど愛らしいお客様が震えていらっしゃるのに、執務の話を始めるなんて、王としての配慮が足りませんわ」
エルザはアルフレッドを「ちゃんとした」口調でたしなめた。
その光景に、アルヴィーノは思わず目を丸くした。
あの「鉄の王」として覚醒した兄を、これほどまで自然に、かつ優しく叱れる女性がこの世に存在したのかと。
アルフレッドは降参したように両手を上げ、苦笑した。
「あはは、耳が痛いな。……ルミくん、エルザはね、僕が王座の泥に塗まみれている時に、何も言わずにスープを差し出してくれるような人なんだ。エレオノーラとは、魂の出来栄えが根本から違う。……信じてくれるかな?」
ルミは、自分の手を温めてくれているエルザの優しさに触れ、ようやく喉に詰まっていた緊張を飲み込んだ。
そして、アルヴィーノの軍服を握りしめていた手を離し、エルザの瞳を真っ直ぐに見上げた。
「……あ……。お、俺……ルミです。えっと……なんて呼べば……」
「そうだね、僕の伴侶になるってことはアルヴィーノの姉になるから……」
「お姉様……であってる……? アルヴィーノ様……」
「ええ、あってますよ。ルミ」
エルザは一瞬驚いたように目を見張り、それから、今までで一番輝かしい、満開の花のような笑顔を見せた。
「ええ。貴方のような可愛い弟ができるのなら、これほど嬉しいことはありません。……さあ、座ってください。北方の領地から取り寄せた、とっておきの蜂蜜があるのですよ。これで少し、心を温めましょう」
アルヴィーノは、鞘にかけようとしていた手を下ろし、ふっと自嘲気味に息を吐き出した。
自分がどれほど過剰な警戒をしていたか。
兄が選んだ「白百合」は、宮廷のどんな毒よりも強く、そして温かかったのだ。
執務室を支配していた重苦しい緊張は、エルザが淹れる温かいお茶の湯気と共に、静かに、そして完全に消え去っていった。
それは、血と硝煙に彩られた新王国の歴史の中で、四人の魂が初めて本当の意味で結託した、静かな夜明けの瞬間だった。
かつてヴァレンティ家の傲慢な影が蠢いていたその場所は、今や冷徹なほどに整理され、新王アルフレッドによる統治の静謐が支配していた。
アルヴィーノは、自身の背後に隠れるように歩くルミの気配を、鋭敏な感覚で捉えていた。
ルミの小さな指先が、アルヴィーノの軍服の裾をぎゅっと握りしめている。
その指先の微かな震えが、厚い生地を通して伝わってくるようだった。
「……大丈夫ですよ、ルミ。何があっても、私が貴方を守ります」
「……うん。でも、なんだか怖くて。あの人みたいな人だったら、俺、どうしようって……」
ルミの脳裏には、かつて向けられた冷酷な蔑視の眼差しが、未だに消えぬ泥のようにこびりついていた。
高位の貴族女性という存在は、ルミにとって「理不尽な悪意」と同義だったのだ。
アルヴィーノは無言で、自身の腰に帯びた軍刀の柄に、手袋を嵌めた手をそっと置いた。
その動作は、たとえ王の婚約者であろうとも、ルミに牙を剥く者があれば、即座にその喉元を噛み切るという魔王の宣戦布告であった。
扉の前に立つ衛兵が、二人の到来を告げ、巨大な扉を静かに左右へ開く。
「――お帰り、アルヴィーノ。待っていたよ」
執務室の窓を背にして立ち上がったのは、柔らかな笑みを浮かべたアルフレッドだった。
その右腕には未だ包帯が巻かれているが、その青い瞳からは、かつての迷いや重圧による濁りは完全に消え去っている。
そして、そのアルフレッドのすぐ隣に、静かに佇む一人の女性がいた。
アルヴィーノの紫の瞳が、獲物を定めるかのような鋭さで彼女を射抜く。
しかし、次の瞬間。
アルヴィーノの心に満ちていた「殺気」が、拍子抜けするほどに霧散した。
そこにいた女性――エルザ・ローゼンタールは、かつてのエレオノーラが放っていたような、男を惑わす安っぽい香水の匂いも、宝石を誇示する刺々しい輝きも、一切纏っていなかった。
彼女のプラチナブロンドは気品を保ちつつも控えめに編み込まれ、纏っている深い緑のドレスは、質の良さは一目で分かるものの、驚くほど実用的で落ち着いたデザインだった。
そして何より、彼女のエメラルドの瞳には、打算も優越感も存在しなかった。
ただ、北国の凍てつく大地で静かに花開く白百合のような、峻厳で、かつ慈愛に満ちた「真実」だけが宿っていた。
「あ……」
アルヴィーノの背後から、ルミが小さく声を漏らす。
ルミの野生に近い直感が、目の前の女性が「毒ではない」ことを、誰よりも早く察知していた。
「紹介するよ、アルヴィーノ。……そして、ルミくん。僕の婚約者となった、エルザ・ローゼンタール公爵令嬢だ。彼女には、二人のこと……そして、僕たちの『これからの国づくり』に欠かせない人たちだと伝えてあるよ」
アルフレッドが「僕」といういつも軽い口調でエルザの肩に手を置くと、彼女は一歩前へ出た。
そして、王の婚約者という立場を鼻にかけることもなく、身分の低いルミの目線に合わせるように、わずかに身体を屈めて、優しく微笑んだ。
「お初にお目にかかります。アルヴィーノ殿下……そして、貴方がルミさんですね。陛下の包帯を巻き直す時、貴方のことをいつも愛おしそうにお話しになるので、お会いできるのをずっと心待ちにしていたのですよ」
その声は、春の雪解け水のように清らかで、淀みがなかった。
エルザはそっとルミの元へ歩み寄ると、警戒して固まっているルミの小さな手を取り、自身の両手で包み込むようにして温めた。
「怖がらせてしまいましたか? 突然の呼び出しで、申し訳ありません。……アルフレッド様、お茶の準備を。これほど愛らしいお客様が震えていらっしゃるのに、執務の話を始めるなんて、王としての配慮が足りませんわ」
エルザはアルフレッドを「ちゃんとした」口調でたしなめた。
その光景に、アルヴィーノは思わず目を丸くした。
あの「鉄の王」として覚醒した兄を、これほどまで自然に、かつ優しく叱れる女性がこの世に存在したのかと。
アルフレッドは降参したように両手を上げ、苦笑した。
「あはは、耳が痛いな。……ルミくん、エルザはね、僕が王座の泥に塗まみれている時に、何も言わずにスープを差し出してくれるような人なんだ。エレオノーラとは、魂の出来栄えが根本から違う。……信じてくれるかな?」
ルミは、自分の手を温めてくれているエルザの優しさに触れ、ようやく喉に詰まっていた緊張を飲み込んだ。
そして、アルヴィーノの軍服を握りしめていた手を離し、エルザの瞳を真っ直ぐに見上げた。
「……あ……。お、俺……ルミです。えっと……なんて呼べば……」
「そうだね、僕の伴侶になるってことはアルヴィーノの姉になるから……」
「お姉様……であってる……? アルヴィーノ様……」
「ええ、あってますよ。ルミ」
エルザは一瞬驚いたように目を見張り、それから、今までで一番輝かしい、満開の花のような笑顔を見せた。
「ええ。貴方のような可愛い弟ができるのなら、これほど嬉しいことはありません。……さあ、座ってください。北方の領地から取り寄せた、とっておきの蜂蜜があるのですよ。これで少し、心を温めましょう」
アルヴィーノは、鞘にかけようとしていた手を下ろし、ふっと自嘲気味に息を吐き出した。
自分がどれほど過剰な警戒をしていたか。
兄が選んだ「白百合」は、宮廷のどんな毒よりも強く、そして温かかったのだ。
執務室を支配していた重苦しい緊張は、エルザが淹れる温かいお茶の湯気と共に、静かに、そして完全に消え去っていった。
それは、血と硝煙に彩られた新王国の歴史の中で、四人の魂が初めて本当の意味で結託した、静かな夜明けの瞬間だった。
