主と従者の檻に、世界で一番甘い誓いを

クローデル王国の首都・中央広場は、熱気と鉱物の匂いに満ちていた。
アルヴィーノは軍服の襟を立て、極端に目立つその容姿を隠すように歩いていたが、頭の中にあるのは、我が家で待つ水色の少年のことばかりだった。
あの看病のお礼に、あの子には何を贈れば喜ぶだろうか。
やはり珍しい茶葉か、あるいは美味い菓子か――そんな思考の海を遮るようにして、不意に目の前へ艶やかな影が滑り込んできた。

「――あの、もしお時間よろしければ、少しお話しませんか?」

見上げれば、この街の着飾った数人の若い女性たちが、扇で口元を隠しながらアルヴィーノを上目遣いに見つめていた。
その頬は赤く染まり、瞳には明確な誘惑の色が浮かんでいる。
他国の人間である彼女たちにとって、目の前に立つ男は「生きる死神」ではなく、ただの最高に魅力的な異国の軍人貴族でしかなかったのだ。

「まぁ、本当に見事な漆黒の軍服……。お一人で散策ですか? よろしければ、私たちがこの街の特等席へご案内いたしますわ。美味しいお酒と、それから……もっと素敵なおもてなしを、ね?」

袖口に絡みつこうとする、甘ったるい香水の匂い。
その瞬間、アルヴィーノの紫の瞳から、ルミを想っていた「熱」が、一滴残らず消え失せた。

「――下がれ」

地響きのような低音。
それは誘いを断る人間の声ではなく、文字通り「羽虫を払い落とす」時の、絶対的な拒絶の響きだった。

「ひ……っ!?」

女性たちの身体が、恐怖で一瞬にして硬直する。
アルヴィーノの全身から、あの大聖堂の夜に数多の貴族を震え上がらせた、底冷えのするような濃密な殺気が漏れ出していた。

「私の行く手を遮るな。死にたくなければ、今すぐその不浄な手を引き、私の視界から消え失せろ」

あまりの恐怖に、女性たちは悲鳴をあげることすらできず、腰を抜かすようにしてその場にへたり込んだ。
アルヴィーノは、へたり込んだ彼女たちをただの石ころのように跨ぎ越し、一切足取りを緩めることなく歩き去っていった。

(……不快な。ルミの淹れてくれるお茶の香りが、安物の香水で穢れてしまうところだったじゃないですか)

苛立ちのままに、人混みを避けて路地裏の古い商店街へと足を踏み入れたアルヴィーノは、フン、と不機嫌そうに軍服の襟を正した。
だが、その不機嫌は、路地裏の奥に佇む一軒の古びた石工の店の前で、奇妙な予感へと変わった。
チリン、と錆びた真鍮の鈴を鳴らして店内に入る。

「おや……こいつは、滅多にお目にかかれない大層な上客だ」

薄暗い店内の奥から、片目に虫眼鏡をはめた老店主が、アルヴィーノの放つ莫大な魔力の残滓を察知して、低くしゃがれた声をあげた。
アルヴィーノは、先ほどまでの苛立ちを頭の隅へ追いやり、冷徹な声音で告げた。

「……身につける者を守り、同時に、他者からはただのガラス細工にしか見えないような、特殊な術式の刻まれた石を探している」

老店主はニヤリと意味深な笑みを浮かべ、カウンターの奥からベルベットの敷かれた重い木箱を引っ張り出してきた。
箱が開かれた瞬間、アルヴィーノの紫の瞳が、先ほどの退屈な苛立ちとは全く違う衝撃で見開かれた。
そこに鎮座していたのは、通常の魔鉱石とは一線を画す、内側から深海のような昏い青を放つ、一対の美しい指輪だった。

「こいつはね、鉱山の最深部、何百年も魔力の奔流に晒され続けた『星涙石(せいるいせき)』ってやつさ。これ自体が強力な守護の結界の核になる。だがね、面白いことに、持ち主が望めば、その輝きを完全に隠して『ありふれた安物の銀細工』に偽装する術式が最初から組み込まれているんだ。……どうだい?」

アルヴィーノは、そのうちの一回り小さな細身の指輪をそっと指先で拾い上げた。
その深く清らかな青い輝きを目にした瞬間、先ほど浴びた安物香水の不快感など、一瞬で綺麗に洗い流されていく。脳裏に鮮烈に浮かび上がったのは、あの瑞々しいルミの水色の瞳だった。
主と従者という檻の中にあって、この指輪は二人の絆を誰の目からも隠し、同時に、世界で一番安全にルミの身を守る極上の盾となる。

「……これを、いただこう」
「毎度。……そいつを贈られる相手は、果報者だね」
「いいえ」

アルヴィーノは、自分のための少し大きめの指輪と、ルミのための小さな指輪を懐へと収め、酷く穏やかな、けれど狂おしいほどの愛を込めて呟いた。

「果報者は、私の方です」

店を出たアルヴィーノの足取りは、先ほどよりもどこか確かだった。
懐に隠された二つの銀の輪。国法にも、歴史の表舞台にも決して刻まれることのない、けれど新王アルフレッドが保証してくれた「絶対の聖域」で交わされるであろう、二人だけの秘密の挙式。
「星涙石」の指輪は、いつか迎える三人だけの秘密の挙式、その特別な瞬間のために。
アルヴィーノは上着の内ポケット、自身の心臓に最も近い場所にその一対の銀の輪を深く仕舞い込み、再び活気あふれる中央広場へと視線を向けた。

(さすがに、あの子に何も持たずに帰るわけにはいかないですよね)

不敬罪のギロチンを心配して今朝まで震えていた、愛しい看護師の顔が浮かぶ。
彼を安心させ、その小さな唇を喜びで綻ばせるための、もう一つの「表向きのお土産」が必要だった。
クローデル王国は鉱物だけでなく、その寒冷な気候を活かした果実の栽培でも知られている。
特に、国境沿いの高地で採れる野生のブルーベリーは、大粒で果汁が濃く、王宮の洗練された宮廷菓子とはまた違う、力強くも素朴な甘みを持っていた。
アルヴィーノは、甘い焼き菓子の香りが漂う一軒の高級製菓店の暖簾をくぐった。

「いらっしゃいませ、旦那様。本日はどのようなものを?」
「ブルーベリーを使った菓子を。酸味が強すぎず、あの子の口に合うような、最も上質なものを頼む」

「あの子」という響きに、店員は一瞬だけ目を丸くしたが、目の前の軍人のただならぬ威厳に圧倒され、すぐに極上の木箱を恭しく差し出してきた。

「それでしたら、こちらの『コンフィチュール・タルト』はいかがでしょう。今朝摘んだばかりの完熟ブルーベリーを、じっくりと蜂蜜で煮詰め、発酵バターをふんだんに使った生地で焼き上げております。高名な貴族様方も、こぞってお土産に買われる一品でございますよ」

箱を開ければ、深い藍色の宝石のような果実が、艶やかな蜜を纏ってぎっしりと敷き詰められていた。
ルミがこれを見たら、きっと目を輝かせて「美味しそう!」と歓声をあげるに違いない。

「それを。……それから、その果実に合う、苦味の少ない紅茶の茶葉も併せて用意してくれ」
「かしこまりました!」

支払いを済ませ、片手にずっしりとした木箱と茶葉の包みを抱えたアルヴィーノは、ようやく満足したように薄く微笑んだ。
懐には一生を誓うための秘められた指輪、片手には今夜の二人だけのささやかなお茶会のための甘いお菓子。
これで、魔王の帰還の準備はすべて整った。
王宮へと戻る馬車の中、アルヴィーノは一度も書類に目を落とすことなく、ただ静かに、愛しい者が待つ「檻」の扉が開く瞬間を待ち望んでいた。

夕刻の宮廷の鐘が鳴り響く頃、アルヴィーノは自身の私室の前へと辿り着いた。
いつもなら、この重い扉を開けるのは「一日の終わり」という事務的な動作でしかない。
だが今の彼にとっては、こここそが、すべての冷徹な仮面を脱ぎ捨てられる唯一の聖域だった。
カチャリ、と鍵を開け、静かに扉を押し開ける。

「――アルヴィーノ様……っ!」

パタパタと、小気味よい足音が廊下を駆けてくる。
そこにいたのは、エプロン姿のまま、水色の瞳をこれ以上ないほど輝かせたルミだった。
彼はアルヴィーノの姿を見るなり、その胸へと飛び込むようにして足を止めた。

「おかえりなさい! ……本当に、本当にもう大丈夫? どこも痛くなってない? 疲れちゃってない?」

部屋に入った一歩目で、溢れんばかりの心配の言葉がアルヴィーノを包み込む。
アルヴィーノは、手のお土産をそっとサイドテーブルに置くと、待ちかねていた愛しい身体を、今度は躊躇うことなくその長い両腕でしっかりと抱きすくめた。

「ただいま戻りました、ルミ。……貴方の言う通り、少しでも無理だと思ったらすぐに帰るつもりでしたが、ご覧の通り、至って健やかです」
「よかったぁ……。俺、お留守番中も、ずっと時計ばっかり見ちゃってて……」

ルミはアルヴィーノの胸に顔を埋め、ホッとしたように小さな肩の力を抜いた。
その時、ふわりとルミの鼻腔を、見たこともない美味しそうな、甘酸っぱい果実の香りが掠めた。

「ん……? なんだか、すっごくいい匂いがする……」
「おや、気づかれましたか。昨日、私のために命懸けで時間を勝ち取ってくれた、優秀な看護師さんへの、私からのささやかな報酬です」

アルヴィーノがサイドテーブルの木箱を示すと、ルミは「わあ……!」と声をあげて箱に駆け寄った。

「これ、ブルーベリーのタルト……!? すっごくおっきくて、キラキラしてる……!」
「クローデルの特産だそうです。退屈な会合の後、街で見つけて貴方の顔が浮かびました。一緒に淹れようと思って、苦味の少ない茶葉も買ってあります。……今夜は、これでお茶会にしましょう」
「うんっ! 俺、すぐにお湯沸かして、お茶の準備するね! アルヴィーノ様は早く軍服を脱いで、ソファでゴロゴロしてて!」

嬉しそうに木箱を抱え、キッチンへと弾むように駆けていくルミの背中を、アルヴィーノはどこまでも優しい眼差しで見つめていた。
上着のボタンを外し、懐の「星涙石」の指輪にそっと触れる。
今はまだ、このお菓子が彼への一番のお土産だ。
けれど、いつかこの部屋の奥で、あの青い輝きを彼の薬指に嵌めるその日までこの温かい日常を、何があっても守り抜こうと、魔王は静かに心に誓うのだった。
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