主と従者の檻に、世界で一番甘い誓いを
迎賓館の大食堂を改装した特設会議室は、まるで処刑場のような重苦しい沈黙に支配されていた。
円卓の片側に陣取るのは、隣国『クローデル王国』の全権特使たちだ。
彼らは昨日、国王アルフレッドから「軍師が目覚めたら国境線がどうなるか分からない」と脅しつけられ、一睡もできぬままこの朝を迎えていた。
だが、彼らも一国の命運を背負う老練な政治家たちだ。心の中では「いくら魔王と言えど、過労で倒れたばかりの病み上がり。
言葉の刃も鈍っているはずだ」と、微かな希望に縋(すが)り付いていた。
その淡い期待は、重い樫の扉が開かれた瞬間に、粉々に打ち砕かれることになる。
「――お待たせいたしました、諸侯」
室内に響き渡ったのは、地響きのように低く、一切の揺らぎのない冷徹な足音。
入ってきたアルヴィーノは、黒銀の軍帽を小脇に抱え、長身の身体に漆黒の軍服を完璧に着こなしていた。
その紫の瞳は、病み上がりどころか、底知れない魔力と冷徹な知性を湛えてギラギラと昏(くら)い光を放っている。
ルミの看病によって心身ともに「完全回復」した魔王の覇気は、部屋の空気を一瞬で氷点下へと叩き落とした。
アルフレッドが中央の席に腰掛け、その右隣にアルヴィーノが漆黒の影のように控える。
「さて、クローデル王国の特使諸君」
アルフレッドはいつもの柔和な笑みを浮かべつつも、その青い瞳には一切の妥協を許さない王の光を宿していた。
「昨日は私の不手際で会議を中断してしまって申し訳なかった。我が国の軍師もご覧の通り、すっかり『任務』を終えて復帰した。……さあ、君たちが提示した、鉱山採掘権の譲渡と関税引き下げの補正案について、続きを始めようか」
クローデルの筆頭特使である老貴族が、引きつった笑みを浮かべながら、震える手で書類を差し出した。
「は、はい……我が国としては、両国の永続的な友好のため、国境沿いの魔鉱石採掘権の五割を我が国に委ねていただきたい。これこそが、平等の極みであると……」
「平等、ですか」
アルヴィーノが、低く、冷ややかな声でその言葉を遮った。
彼が手元のアタッシュケースから取り出したのは、クローデル側が提出した要求書の倍以上の厚みがある、血のように赤い表紙のファイルだった。
それをドン、と机上に叩きつける。
「話になりませんね。……諸侯、貴国は我が国がヴァレンティ家の粛清に追われていたこの数日間、国境付近の警戒兵力を密かに三割増員させていますね? さらには、我が国の流通が滞るのを見越し、魔鉱石の市場価格を不当に吊り上げる操作を行った形跡がある。……これのどこが『友好』ですか。ただの火事場泥棒だ」
「な、何をおっしゃる! それは正当な市場競争であり――」
「黙れ」
アルヴィーノが冷たく一喝した瞬間、室内のランタンの炎が恐怖したように一斉に縮んだ。彼の放つ圧倒的な威圧感 が、特使たちの心臓を物理的に締め付ける。
「貴国が我が国の足元を見て動いていたことは、全てこちらの諜報部が掴んでいます。……陛下、これ以上の不毛な対話は、我が国の時間の搾取に他なりません。これより、我が国からの『最終通告』を申し渡します」
アルヴィーノは赤いファイルを指先で開き、憐れむような視線を特使たちに向けた。
「第一に、国境沿いの魔鉱石採掘権は、今この瞬間を以て『我が国が十割を独占』する。第二に、貴国から我が国へ流入する全権商業商品の関税を、現行の倍に引き上げる。第三に、この条件に不服がある場合、我が国は『安全保障上の脅威』と見なし、国境に配備されている第一・第三魔導軍団に、即座の進軍命令を下す」
「ば、馬鹿な!? そんな無茶苦茶な条件、呑めるはずが――!」
特使たちが総立ちになり、激昂する。
しかし、アルヴィーノは軍帽の庇を指先で軽く触り、酷薄な笑みを唇の端に刻んだ。
「呑めるか、ではない。呑むのです。……貴国には、我が国の魔導軍団を押し返すだけの実力も、ヴァレンティ家をすり潰した我が国の新体制に立ち向かうだけの覚悟もないはずだ。昨日、我が国の陛下がおっしゃった言葉を忘れたわけではあるまい? ……私が目覚めた時、貴国の国境線がどうなるか、と」
その瞬間、特使たちの脳裏に、昨日アルフレッドが放った「国家テロ級の極秘任務」という勘違いの恐怖が、アルヴィーノの圧倒的な現実の武力となって直撃した。
(この男は……本当にやる。昨日まで、そのための軍事展開を極秘裏に行っていたのだ……!)と、彼らは完璧な誤認に陥った。
実際には、アルヴィーノはルミの膝の上でお粥を食べ、すやすやと眠っていただけなのだが、その「休息」こそが、今の彼の容赦ない切れ味を生み出していた。
アルフレッドは、隣で完璧に他国の心をへし折っていく弟の姿を眺めながら、顎を引いてフッと笑った。
「というわけさ。私としては、これでもかなり歩み寄ったつもりなんだけどが……。 嫌なら別に、君たちの首都のすぐ傍まで、うちの軍師が直々に挨拶に行くだけだよ」
「ひっ……、あ、合意……合意いたします……! 直ちに、本国へ批准の書状を……っ!」
筆頭特使は、まるで死刑宣告書に署名するかのような絶望の顔で、アルヴィーノが突きつけた赤い書類にサインをした。
対話ではなく、蹂躙。
ヴァレンティ家を滅ぼしたばかりの新体制の恐ろしさを、隣国にこれ以上ないほど鮮烈に焼き付ける、完全なる大勝利だった。
会合が終わり、特使たちが這うようにして去っていった迎賓館の裏手。
重い軍務を終えたアルヴィーノは、軍帽を脱ぎ、ふぅ、と小さく息を吐き出した。
「お疲れ様、アルヴィーノ。素晴らしい蹂躙っぷりだったよ。昨日ルミくんにたっぷり怒られて休んだおかげで、いつもより声のトーンが二割増しで怖かったね」
アルフレッドが馬車のステップに足をかけながら、フランクに笑いかけてくる。
「……兄上のおかげですよ。昨日の陛下の『仕込み』があったからこそ、あちらの自滅を誘えました」
「あはは……。さて、僕はこれから王宮へ戻って、この条約の事後処理の決済をしなきゃいけない。君はどうする? 昨日の今日だ、少し休んでいったらどうだい?」
アルフレッドはそう言って、迎賓館の向こうに広がる、他国の賑やかな城下町を顎で示した。
クローデル王国の首都に近いこの街は、石造りの古い街並みが美しく、中央広場には色鮮やかな露店が立ち並んでいる。
「……そうですね。ルミへのお土産と、それから……『例の件』の準備のために、少しこの街を見て回ろうと思います」
「うん、それがいい。ルミくんへのお土産選び、センスを疑われないように気をつけるんだよ? じゃあ、王宮で待ってる」
アルフレッドを乗せた馬車が、静かに去っていく。
一人残されたアルヴィーノは、軍服の上着のボタンを一つ緩め、喧騒に包まれた他国の街へと歩みを進めた。
周りの行き交う人々は、彼が先ほど一国の運命を握りつぶした「魔王」だとは気づかず、ただの背の高い、見惚れるほど端正な異国の軍人として視線を送っている。
露店に並ぶ、色とり切りのガラス細工や、見たこともない珍しい香草。
それらを見つめるアルヴィーノの紫の瞳は、先ほどまでの冷酷さは完全に消え去り、ただ一つの「水色の光」を思い出して、酷く穏やかに融けていた。
(ルミは、どの香りが好きだろうか。……それから、あの子の肌に映える、一番美しい天青色の生地を、探さねばな)
主と従者という檻の中で、誰よりも幸福な世界を作るために。
魔王は一人、愛しい少年の笑顔を思い浮かべながら、賑やかな異国の街へと紛れ込んでいくのだった。
円卓の片側に陣取るのは、隣国『クローデル王国』の全権特使たちだ。
彼らは昨日、国王アルフレッドから「軍師が目覚めたら国境線がどうなるか分からない」と脅しつけられ、一睡もできぬままこの朝を迎えていた。
だが、彼らも一国の命運を背負う老練な政治家たちだ。心の中では「いくら魔王と言えど、過労で倒れたばかりの病み上がり。
言葉の刃も鈍っているはずだ」と、微かな希望に縋(すが)り付いていた。
その淡い期待は、重い樫の扉が開かれた瞬間に、粉々に打ち砕かれることになる。
「――お待たせいたしました、諸侯」
室内に響き渡ったのは、地響きのように低く、一切の揺らぎのない冷徹な足音。
入ってきたアルヴィーノは、黒銀の軍帽を小脇に抱え、長身の身体に漆黒の軍服を完璧に着こなしていた。
その紫の瞳は、病み上がりどころか、底知れない魔力と冷徹な知性を湛えてギラギラと昏(くら)い光を放っている。
ルミの看病によって心身ともに「完全回復」した魔王の覇気は、部屋の空気を一瞬で氷点下へと叩き落とした。
アルフレッドが中央の席に腰掛け、その右隣にアルヴィーノが漆黒の影のように控える。
「さて、クローデル王国の特使諸君」
アルフレッドはいつもの柔和な笑みを浮かべつつも、その青い瞳には一切の妥協を許さない王の光を宿していた。
「昨日は私の不手際で会議を中断してしまって申し訳なかった。我が国の軍師もご覧の通り、すっかり『任務』を終えて復帰した。……さあ、君たちが提示した、鉱山採掘権の譲渡と関税引き下げの補正案について、続きを始めようか」
クローデルの筆頭特使である老貴族が、引きつった笑みを浮かべながら、震える手で書類を差し出した。
「は、はい……我が国としては、両国の永続的な友好のため、国境沿いの魔鉱石採掘権の五割を我が国に委ねていただきたい。これこそが、平等の極みであると……」
「平等、ですか」
アルヴィーノが、低く、冷ややかな声でその言葉を遮った。
彼が手元のアタッシュケースから取り出したのは、クローデル側が提出した要求書の倍以上の厚みがある、血のように赤い表紙のファイルだった。
それをドン、と机上に叩きつける。
「話になりませんね。……諸侯、貴国は我が国がヴァレンティ家の粛清に追われていたこの数日間、国境付近の警戒兵力を密かに三割増員させていますね? さらには、我が国の流通が滞るのを見越し、魔鉱石の市場価格を不当に吊り上げる操作を行った形跡がある。……これのどこが『友好』ですか。ただの火事場泥棒だ」
「な、何をおっしゃる! それは正当な市場競争であり――」
「黙れ」
アルヴィーノが冷たく一喝した瞬間、室内のランタンの炎が恐怖したように一斉に縮んだ。彼の放つ圧倒的な
「貴国が我が国の足元を見て動いていたことは、全てこちらの諜報部が掴んでいます。……陛下、これ以上の不毛な対話は、我が国の時間の搾取に他なりません。これより、我が国からの『最終通告』を申し渡します」
アルヴィーノは赤いファイルを指先で開き、憐れむような視線を特使たちに向けた。
「第一に、国境沿いの魔鉱石採掘権は、今この瞬間を以て『我が国が十割を独占』する。第二に、貴国から我が国へ流入する全権商業商品の関税を、現行の倍に引き上げる。第三に、この条件に不服がある場合、我が国は『安全保障上の脅威』と見なし、国境に配備されている第一・第三魔導軍団に、即座の進軍命令を下す」
「ば、馬鹿な!? そんな無茶苦茶な条件、呑めるはずが――!」
特使たちが総立ちになり、激昂する。
しかし、アルヴィーノは軍帽の庇を指先で軽く触り、酷薄な笑みを唇の端に刻んだ。
「呑めるか、ではない。呑むのです。……貴国には、我が国の魔導軍団を押し返すだけの実力も、ヴァレンティ家をすり潰した我が国の新体制に立ち向かうだけの覚悟もないはずだ。昨日、我が国の陛下がおっしゃった言葉を忘れたわけではあるまい? ……私が目覚めた時、貴国の国境線がどうなるか、と」
その瞬間、特使たちの脳裏に、昨日アルフレッドが放った「国家テロ級の極秘任務」という勘違いの恐怖が、アルヴィーノの圧倒的な現実の武力となって直撃した。
(この男は……本当にやる。昨日まで、そのための軍事展開を極秘裏に行っていたのだ……!)と、彼らは完璧な誤認に陥った。
実際には、アルヴィーノはルミの膝の上でお粥を食べ、すやすやと眠っていただけなのだが、その「休息」こそが、今の彼の容赦ない切れ味を生み出していた。
アルフレッドは、隣で完璧に他国の心をへし折っていく弟の姿を眺めながら、顎を引いてフッと笑った。
「というわけさ。私としては、これでもかなり歩み寄ったつもりなんだけどが……。 嫌なら別に、君たちの首都のすぐ傍まで、うちの軍師が直々に挨拶に行くだけだよ」
「ひっ……、あ、合意……合意いたします……! 直ちに、本国へ批准の書状を……っ!」
筆頭特使は、まるで死刑宣告書に署名するかのような絶望の顔で、アルヴィーノが突きつけた赤い書類にサインをした。
対話ではなく、蹂躙。
ヴァレンティ家を滅ぼしたばかりの新体制の恐ろしさを、隣国にこれ以上ないほど鮮烈に焼き付ける、完全なる大勝利だった。
会合が終わり、特使たちが這うようにして去っていった迎賓館の裏手。
重い軍務を終えたアルヴィーノは、軍帽を脱ぎ、ふぅ、と小さく息を吐き出した。
「お疲れ様、アルヴィーノ。素晴らしい蹂躙っぷりだったよ。昨日ルミくんにたっぷり怒られて休んだおかげで、いつもより声のトーンが二割増しで怖かったね」
アルフレッドが馬車のステップに足をかけながら、フランクに笑いかけてくる。
「……兄上のおかげですよ。昨日の陛下の『仕込み』があったからこそ、あちらの自滅を誘えました」
「あはは……。さて、僕はこれから王宮へ戻って、この条約の事後処理の決済をしなきゃいけない。君はどうする? 昨日の今日だ、少し休んでいったらどうだい?」
アルフレッドはそう言って、迎賓館の向こうに広がる、他国の賑やかな城下町を顎で示した。
クローデル王国の首都に近いこの街は、石造りの古い街並みが美しく、中央広場には色鮮やかな露店が立ち並んでいる。
「……そうですね。ルミへのお土産と、それから……『例の件』の準備のために、少しこの街を見て回ろうと思います」
「うん、それがいい。ルミくんへのお土産選び、センスを疑われないように気をつけるんだよ? じゃあ、王宮で待ってる」
アルフレッドを乗せた馬車が、静かに去っていく。
一人残されたアルヴィーノは、軍服の上着のボタンを一つ緩め、喧騒に包まれた他国の街へと歩みを進めた。
周りの行き交う人々は、彼が先ほど一国の運命を握りつぶした「魔王」だとは気づかず、ただの背の高い、見惚れるほど端正な異国の軍人として視線を送っている。
露店に並ぶ、色とり切りのガラス細工や、見たこともない珍しい香草。
それらを見つめるアルヴィーノの紫の瞳は、先ほどまでの冷酷さは完全に消え去り、ただ一つの「水色の光」を思い出して、酷く穏やかに融けていた。
(ルミは、どの香りが好きだろうか。……それから、あの子の肌に映える、一番美しい天青色の生地を、探さねばな)
主と従者という檻の中で、誰よりも幸福な世界を作るために。
魔王は一人、愛しい少年の笑顔を思い浮かべながら、賑やかな異国の街へと紛れ込んでいくのだった。
