主と従者の檻に、世界で一番甘い誓いを
アルフレッドからの連絡を文字通り断絶してから、数時間が経過していた。
私室の寝室は、時が止まったかのような静寂と、柔らかな香草の香りに包まれている。
結界の向こう側の喧騒など、ここには一切届かない。
「……アルヴィーノ様、次はお粥だよ。マルタさんに手伝ってもらって、お米をすっごく柔らかくクタクタになるまで煮たの。熱いから、俺がフーフーしてあげるね」
寝台の横にちょこんと腰掛けたルミは、小さな木製の手桶から温かいお粥をスプーンですくい、真剣な顔で息を吹きかけていた。
水色の瞳は、アルヴィーノの一挙一動を逃さまいと凝視している。
「ありがとうございます、ルミ。ですが……やはり、自分で食べられますよ? 私の手は動きますから」
布団から長い腕を出そうとするアルヴィーノだったが、ルミは「めっ!」と鋭く眉を吊り上げた。
「だめ! 今日は指一本動かしちゃだめって言ったでしょう? 俺が全部やるの。はい、あーんして」
「…………」
大陸全軍を率いる冷徹な総司令官であるアルヴィーノは、目の前の小さな看護師さんの絶対的な命令に、ただ大人しく口を開くしかなかった。
優しく口元に運ばれる、淡い塩味のお粥。
ルミが焦がさないようにずっとお鍋の前に張り付いて混ぜていたのだと、マルタから先ほど聞いた。
一口飲み下すごとに、その健気な温もりが、アルヴィーノの冷え切っていた胃腑を内側から優しく満たしていく。
「美味しいです、ルミ。貴方の淹れてくれたお茶も、このお粥も……宮廷のどんな名医の薬よりも気付けになる」
「本当……? よかった……。じゃあ、もう一口ね」
ルミは嬉しそうに目を細め、何度も何度も丁寧に、アルヴィーノの口へとお粥を運んだ。
食後には、再び新しく冷やしたタオルを額に乗せ、アルヴィーノの手をぎゅっと握る。
「ここを揉むと、頭痛が楽になるんだよね」と、マルタに教わったツボを、小さな指先で一生懸命に、じっくりと押し揉んでいく。
アルヴィーノは、ただその至福の痛みに身を委ね、ルミの顔を見つめていた。
普段なら、誰かにここまで無防備に世話を焼かれるなど、彼のプライドが絶対に許さない。
だが、ルミのこの一点の曇りもない「アルヴィーノ様を助けたい」という純粋な想いの前では、不必要な傲慢さなど、ただの塵に等しかった。
(私は……このちっぽけな腕の中に、完全に捕らえられてしまったようだ……)
それは、これ以上ないほど幸福な敗北だった。
だが、どれほど気力が充実していようとも、ルミの小さな身体は限界を迎えていた。
昨晩からの夜通しの看病、そして昼間の慣れない家事と調理の特訓。
蓄積した疲労は、アルヴィーノの呼吸が完全に安定し、熱が引いていくのを確認した瞬間、ドッとルミの瞼を重くさせた。
「あ……る、ヴィーノ様……。つぎは、お熱の……お薬、を……」
ツボを押していたルミの指先から、次第に力が抜けていく。
水色の瞳が、眠気に耐えかねて、とろんと頼りなく揺れた。
「ルミ、もう十分です。寝台に上がって、私の隣で眠りなさい」
アルヴィーノが優しく声をかけるが、ルミは「だめ……おれは、かんごし、さん……だから……」と小さく呟き、寝台の縁に頭を乗せたまま、がくりと意識を心地よい闇へと落としてしまった。
ぎゅっとアルヴィーノの指を握りしめたまま、すやすやと規則正しい寝息を立て始める。
「……本当に、敵いませんね」
アルヴィーノは上体を静かに起こすと、額のタオルを外し、寝台の横で眠りこけてしまったルミを、そっと両腕で抱き上げた。
驚くほど軽くて、温かい。
自分の布団の中にルミを滑り込ませ、その小さな身体を横たわらせる。
ルミは布団の温もりに安心したように、アルヴィーノの胸元へ自然と身体を丸め、衣服をぎゅっと掴んだまま、さらに深い眠りへと落ちていった。
アルヴィーノはその乱れた水色の髪を、指先で一本一本愛おしそうに梳いた。
その紫の瞳に宿っているのは、冷徹な軍師の光などではなく、ただ世界で一番大切な宝物を守る、深い、底なしの愛だった。
「お疲れ様、私の小さな看護師さん」
そっとその額に、愛おしさを全て込めた口づけを落とす。
トントン、と。
寝室の扉が、極めて静かに叩かれた。
アルヴィーノはルミを起こさないよう、音もなく寝台から抜け出すと、寝着のまま静かに扉を開けた。
そこに立っていたのは、空になった食器を引き取りに来たマルタだった。
マルタは、寝台の中で丸くなって眠るルミの姿と、すっかり顔色の良くなったアルヴィーノを見比べ、慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
「おやおや。どちらが看病されているのか、分かりませんね、殿下」
「……面目ありません、マルタ。ルミのあまりの熱心さに、完全に組み敷かれてしまいました」
アルヴィーノは少し困ったように眉を下げたが、その声には、かつてないほどの穏やかさが満ちていた。
「ルミ様は、本当に一生懸命でしたわよ。殿下が倒れられた時、ご自分の無力さを泣くのではなく、『今度は自分がお守りする』と、小さなお手を真っ赤にしながら、お茶やお粥の準備をなさっていました」
マルタはトレイを抱え直し、寝台のルミを愛おしそうに見つめる。
「あの夜、傷ついていた雛鳥は、殿下を支えるために、自ら強くあろうとなさっている。素晴らしい恋人をお持ちになりましたね、アルヴィーノ殿下」
「ええ……。そう思います」
アルヴィーノは振り返り、眠るルミの横顔をじっと見つめた。
「公的に、この手を繋ぐことは叶わない身分かもしれない。ですが……私の魂の主は、この子ただ一人です。ルミが私のために強くなろうとしてくれるのなら、私はその全てを、この命を賭して愛し、甘受する」
「ふふ、そのお言葉を聞けて安心いたしました。……今日はお仕事のことは一切忘れ、ルミ様と共に、ゆっくりとお休みくださいませ。アルフレッド陛下からの『追撃』も、私が廊下で全てせき止めておきますから」
マルタはお茶目に片目を瞑ると、静かに扉を閉めて去っていった。
再び訪れた、二人だけの静寂。
アルヴィーノは寝台へと戻り、再びルミの小さな身体をその腕の中に引き寄せた。
ルミの放つ温もりと健気な愛が、アルヴィーノの肉体と心を、完璧に癒やし、満たしていく。
不夜城の王宮の中で、この檻の内の蜜月だけは、誰にも侵せない絶対の聖域だった。
私室の寝室は、時が止まったかのような静寂と、柔らかな香草の香りに包まれている。
結界の向こう側の喧騒など、ここには一切届かない。
「……アルヴィーノ様、次はお粥だよ。マルタさんに手伝ってもらって、お米をすっごく柔らかくクタクタになるまで煮たの。熱いから、俺がフーフーしてあげるね」
寝台の横にちょこんと腰掛けたルミは、小さな木製の手桶から温かいお粥をスプーンですくい、真剣な顔で息を吹きかけていた。
水色の瞳は、アルヴィーノの一挙一動を逃さまいと凝視している。
「ありがとうございます、ルミ。ですが……やはり、自分で食べられますよ? 私の手は動きますから」
布団から長い腕を出そうとするアルヴィーノだったが、ルミは「めっ!」と鋭く眉を吊り上げた。
「だめ! 今日は指一本動かしちゃだめって言ったでしょう? 俺が全部やるの。はい、あーんして」
「…………」
大陸全軍を率いる冷徹な総司令官であるアルヴィーノは、目の前の小さな看護師さんの絶対的な命令に、ただ大人しく口を開くしかなかった。
優しく口元に運ばれる、淡い塩味のお粥。
ルミが焦がさないようにずっとお鍋の前に張り付いて混ぜていたのだと、マルタから先ほど聞いた。
一口飲み下すごとに、その健気な温もりが、アルヴィーノの冷え切っていた胃腑を内側から優しく満たしていく。
「美味しいです、ルミ。貴方の淹れてくれたお茶も、このお粥も……宮廷のどんな名医の薬よりも気付けになる」
「本当……? よかった……。じゃあ、もう一口ね」
ルミは嬉しそうに目を細め、何度も何度も丁寧に、アルヴィーノの口へとお粥を運んだ。
食後には、再び新しく冷やしたタオルを額に乗せ、アルヴィーノの手をぎゅっと握る。
「ここを揉むと、頭痛が楽になるんだよね」と、マルタに教わったツボを、小さな指先で一生懸命に、じっくりと押し揉んでいく。
アルヴィーノは、ただその至福の痛みに身を委ね、ルミの顔を見つめていた。
普段なら、誰かにここまで無防備に世話を焼かれるなど、彼のプライドが絶対に許さない。
だが、ルミのこの一点の曇りもない「アルヴィーノ様を助けたい」という純粋な想いの前では、不必要な傲慢さなど、ただの塵に等しかった。
(私は……このちっぽけな腕の中に、完全に捕らえられてしまったようだ……)
それは、これ以上ないほど幸福な敗北だった。
だが、どれほど気力が充実していようとも、ルミの小さな身体は限界を迎えていた。
昨晩からの夜通しの看病、そして昼間の慣れない家事と調理の特訓。
蓄積した疲労は、アルヴィーノの呼吸が完全に安定し、熱が引いていくのを確認した瞬間、ドッとルミの瞼を重くさせた。
「あ……る、ヴィーノ様……。つぎは、お熱の……お薬、を……」
ツボを押していたルミの指先から、次第に力が抜けていく。
水色の瞳が、眠気に耐えかねて、とろんと頼りなく揺れた。
「ルミ、もう十分です。寝台に上がって、私の隣で眠りなさい」
アルヴィーノが優しく声をかけるが、ルミは「だめ……おれは、かんごし、さん……だから……」と小さく呟き、寝台の縁に頭を乗せたまま、がくりと意識を心地よい闇へと落としてしまった。
ぎゅっとアルヴィーノの指を握りしめたまま、すやすやと規則正しい寝息を立て始める。
「……本当に、敵いませんね」
アルヴィーノは上体を静かに起こすと、額のタオルを外し、寝台の横で眠りこけてしまったルミを、そっと両腕で抱き上げた。
驚くほど軽くて、温かい。
自分の布団の中にルミを滑り込ませ、その小さな身体を横たわらせる。
ルミは布団の温もりに安心したように、アルヴィーノの胸元へ自然と身体を丸め、衣服をぎゅっと掴んだまま、さらに深い眠りへと落ちていった。
アルヴィーノはその乱れた水色の髪を、指先で一本一本愛おしそうに梳いた。
その紫の瞳に宿っているのは、冷徹な軍師の光などではなく、ただ世界で一番大切な宝物を守る、深い、底なしの愛だった。
「お疲れ様、私の小さな看護師さん」
そっとその額に、愛おしさを全て込めた口づけを落とす。
トントン、と。
寝室の扉が、極めて静かに叩かれた。
アルヴィーノはルミを起こさないよう、音もなく寝台から抜け出すと、寝着のまま静かに扉を開けた。
そこに立っていたのは、空になった食器を引き取りに来たマルタだった。
マルタは、寝台の中で丸くなって眠るルミの姿と、すっかり顔色の良くなったアルヴィーノを見比べ、慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
「おやおや。どちらが看病されているのか、分かりませんね、殿下」
「……面目ありません、マルタ。ルミのあまりの熱心さに、完全に組み敷かれてしまいました」
アルヴィーノは少し困ったように眉を下げたが、その声には、かつてないほどの穏やかさが満ちていた。
「ルミ様は、本当に一生懸命でしたわよ。殿下が倒れられた時、ご自分の無力さを泣くのではなく、『今度は自分がお守りする』と、小さなお手を真っ赤にしながら、お茶やお粥の準備をなさっていました」
マルタはトレイを抱え直し、寝台のルミを愛おしそうに見つめる。
「あの夜、傷ついていた雛鳥は、殿下を支えるために、自ら強くあろうとなさっている。素晴らしい恋人をお持ちになりましたね、アルヴィーノ殿下」
「ええ……。そう思います」
アルヴィーノは振り返り、眠るルミの横顔をじっと見つめた。
「公的に、この手を繋ぐことは叶わない身分かもしれない。ですが……私の魂の主は、この子ただ一人です。ルミが私のために強くなろうとしてくれるのなら、私はその全てを、この命を賭して愛し、甘受する」
「ふふ、そのお言葉を聞けて安心いたしました。……今日はお仕事のことは一切忘れ、ルミ様と共に、ゆっくりとお休みくださいませ。アルフレッド陛下からの『追撃』も、私が廊下で全てせき止めておきますから」
マルタはお茶目に片目を瞑ると、静かに扉を閉めて去っていった。
再び訪れた、二人だけの静寂。
アルヴィーノは寝台へと戻り、再びルミの小さな身体をその腕の中に引き寄せた。
ルミの放つ温もりと健気な愛が、アルヴィーノの肉体と心を、完璧に癒やし、満たしていく。
不夜城の王宮の中で、この檻の内の蜜月だけは、誰にも侵せない絶対の聖域だった。
