主と従者の檻に、世界で一番甘い誓いを

薄暗い寝室に、小鳥のさえずりが微かに響いていた。

「……っ……」

アルヴィーノは重い塗膜を引きはがすように、ゆっくりと瞼を持ち上げた。
視界に映ったのは、見慣れた自室の天蓋。
酷く頭が重く、全身の関節が鉛のように軋んでいる。
魔力を巡らせようとしても、内省した回路は空回りするばかりで、かつてないほどに肉体が衰弱していることを自覚した。

(私は……なぜここにいる……?)

記憶を遡ろうとするが、霧がかかったように朧げだった。
確か、深夜まで及んだ軍事会議所での、他国との外交文書の査定。
そこまでは覚えている。
だが、そこから先、どうやってこの部屋まで戻ってきたのか、記憶が完全に脱落していた。
無意識のうちに、己の全魔力を注ぎ込んで構築した『最も安全な聖域』へと足が向いていたのだろう。

(なんという醜態を……)

思考がハッキリするにつれ、アルヴィーノは激しい自己嫌悪に襲われた。
常に完璧であり、ルミを脅威から守る絶対的な盾でなければならないこの私が、あろうことか過労ごときで意識を失い、無防備な姿を晒して戻ってきたのだ。
もし、戻る途中で残党に襲われていたら。
もし、この姿を見てルミが怯えていたら――。

「……っ、猛省せねばならないな……」

かすれた声で呟き、起き上がろうとした、その時だった。

「う、ん……っ……」

右手に、柔らかな、けれどぎゅっとしがみつくような温もりを感じて視線を落とす。
そこには、寝台の脇にぽてんと頭を預け、アルヴィーノの大きな手を両手でしっかりと握りしめたまま、小さな寝息を立てているルミの姿があった。
その水色の髪は少し乱れ、目の下にはうっすらと、夜通し看病をしてくれたことを物語る疲労の影がある。
枕元には、ぬるくなった水が張られたボウルと、丁寧に畳まれた布。
そして、アルヴィーノが飲み下した形跡のある、微かに薬草の香りが残るカップ。

(貴方が……私を、看病してくれていたのですか……)

胸の奥から、言葉にならない熱い感情がせり上がってくる。
自分が守るべきはずの小さな硝子細工のような存在が、夜通し、この大きな身体を必死に支えてくれていたのだ。
猛省の念はどこへやら、アルヴィーノの心は、ルミの健気な愛によって瞬く間に満たされていった。
愛おしさに耐えかねて、握られた手を優しく握り返す。

「ふぇ……? ……あ、アルヴィーノ様……っ!」

その僅かな動きで、ルミが弾かれたように目を覚ました。
水色の瞳が、みるみるうちに喜びで潤んでいく。

「気がついた……!? よかった……、お熱、下がった?」

ルミは慌ててアルヴィーノの額に小さな手を伸ばし、それから自分の額とぴったりくっつけた。
熱を確かめるための、マルタ直伝の仕草だ。

「うん、まだちょっと高いけど、昨日の夜よりずっとマシになってる……。本当によかったぁ……っ」
「ルミ……。すみません、私は、貴方にこのような……」

アルヴィーノは弱った姿を見せてしまった恥じるような、申し訳なさそうな声音で顔を曇らせた。
しかし、ルミはぷくっと両頬を膨らませて、アルヴィーノの胸元を小さくポカポカと叩いた。

「もう! 謝らないで! アルヴィーノ様、毎日毎日お仕事頑張りすぎだもん。いくらアルヴィーノ様が強くてかっこよくても、ロボットじゃないんだよ? ……だから、今日はお仕事、絶対にお休みして」

水色の瞳で真っ直ぐに見つめられ、上目遣いで「おねだり」をされる。

「ですが、まだヴァレンティの戦後処理が……」
「だーめ! 今日はお布団の中で、俺が淹れるお茶を飲んで、ずっと寝てて。ね? お願い……」

小さな手が、アルヴィーノの寝着の袖をぎゅっと掴む。
その、断らせないための、けれど愛しさに満ちたおねだりに、不敗の魔王の理性が脆くも崩壊しかけた、まさにその時だった。

――ジリリリリリリッ!!!

静かな私室の壁際に据え付けられた、王宮の魔導通信機が、けたたましい音を立てて鳴り響いた。
この部屋の結界を抜けて繋がる通信など、この国にただ一人しかいない。
アルヴィーノの紫の瞳が、一瞬でいつもの冷徹な軍師のそれに切り替わる。

「……アルフレッドですね。出なければ、あの男の、ことですから、直々に、ここに、踏み込んできかね、ない……っ」

息を荒くしながらも、アルヴィーノは寝台から身体を起こし、壁の受話器へと手を伸ばした。

『――アルヴィーノ、朝早くにすまない。隣国の特使が、昨日提出した追加の補正案について今すぐ対話を求めてきている。すぐに謁見室へ向かえるか?』

スピーカーから漏れ聞こえるアルフレッドの声は、相変わらず冷徹で、容赦がなかった。

「……承知、しました。今すぐ、身支度を――」

生真面目にも了承しかけたアルヴィーノの手から、

――ガシッ!!!

と、凄まじい勢いで受話器がひったくられた。

「な……ルミ!?」

受話器を奪い取ったルミは、息を荒くして通信口に向かって叫んだ。

「アルフレッド様!! 今日はだめです!!! アルヴィーノ様は昨日からすっごいお熱でお休み中なんです! 倒れちゃったんですからね! お仕事なんか絶対に行かせません! 今日はだめーーーっ!!」
『えっ……? あ、いや、ルミ、しかし外交が――』
「だめなものはだめ!!」

――ガチャ切り。

大国の国王からの緊急要請を、ルミは一切の躊躇なく、文字通り叩き切ってみせた。

「ル、ルミ……? 今のは、さすがに、国家の、不利益に……」

青ざめてたじろぐアルヴィーノの胸元を、ルミは両手で力いっぱい押し、寝台へと強制的に押し戻した。
バフッと柔らかな枕に、魔王の頭が再度沈み込む。

「アルヴィーノ様は、ベッド!!」

ルミは腰に両手を当てて、ふん、と鼻を鳴らした。
その表情は、世界で一番強くて、世界で一番怖い看護師さんそのものだった。

「俺は今日、アルヴィーノ様の専属の看護師さんだからね! ここでずーっと、お仕事に行かないように見てるから! 治るまで、絶対にお仕事禁止!! お仕事したら怒るからね!!」
「し、しかし……」
「『しかし』じゃありません! いいから、おめめを閉じて、大人しく寝てください!」
「…………は、はい」

大陸中の軍隊を恐れおののかせる冷徹な軍師アルヴィーノ殿下は、目の前でぷんぷんと怒っている小さな少年を前に、完全にたじたじになり、布団を鼻まで引き上げて小さく頷くことしかできなかった。
法も秩序も、アルフレッドの権力すらも通用しない、この聖域の小さな絶対権力者。
アルヴィーノは、布団の中でルミの怒った顔を見つめながら、困ったような、けれどこの上なく幸せな笑みを浮かべて、ゆっくりと目を閉じるのだった。
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