主と従者の檻に、世界で一番甘い誓いを
「……アルヴィーノ殿下、本日午後の軍事法廷の資料ですが――」
「それは……机に、置いておいてください……」
「殿下? 顔色が酷く優れませんが……」
「問題、ありません……。下がって、いいですよ……」
いつもなら冷徹に響くアルヴィーノの低音が、今朝はかすかに掠れ、どこか視線もおぼつかなかった。
彼は一睡もせずにヴァレンティ家の戦後処理、接収した領地の軍事統治計画、さらにはアルフレッドの外交交渉への付き添いをすべて一人でこなしてきた。
いくら常人離れした魔力を持つ第二王子とはいえ、肉体は人間だ。
自らが引き絞った緊張の糸は、本人が気づかぬうちに限界を迎えていた。
そしてその夜、ついに恐れていた事態が起きる。
パタン……と、いつもより頼りない音を立てて私室の扉が開いた。
「アルヴィーノ様! おかえりなさ――」
いつものようにお盆を持って駆け寄ったルミは、その場で息を呑んだ。
入ってきたアルヴィーノは、漆黒の軍服のボタンを掛け違え、その青白い額からは尋常ではない量の汗が吹き出していた。
紫の瞳は虚ろに潤み、呼吸は浅く、今にもその場に倒れ込みそうなほど激しく肩を揺らしている。
「アルヴィーノ様……っ!?」
「あ……ルミ……。すみません、今夜は、お茶をいただく前に、少し……」
そこまで言って、アルヴィーノの大きな身体がグラリと傾いた。
「わ、わっ!!」
ルミはお盆を投げ出し、慌ててアルヴィーノの身体を小さな両腕で受け止めようとした。
けれど、自分より遥かに大きくて重い肉体を支えきれるはずもなく、二人はもつれ合うようにしてふかふかの絨毯の上へと倒れ込む。
「アルヴィーノ様! 嘘、すごく熱い……!」
衣服越しに触れたアルヴィーノの肌は、まるで燃える炭のように熱かった。
あの不敗の魔王、決して弱みを見せないアルヴィーノ殿下が、完全に意識を朦朧とさせてルミの胸元に顔を埋めたまま、ハァ、ハァと荒い息を吐き出している。
「マルタさん! マルタさーん!! ちょっと来て!!」
ルミの悲痛な叫び声に、隣室で控えていたマルタが血相を変えて飛び込んできた。
「まあ……!アルヴィーノ殿下! なんということでしょう、完全に過労による高熱ですわ!」
「どうしよう、マルタさん、アルヴィーノ様が……っ」
「落ち着いて、ルミ様! 殿下はご自身の治癒魔法で無理やり肉体の悲鳴を抑え込んでおいでだったのです。それが限界を超えて爆発したのでしょう。さあ、私と一緒に殿下を寝台へ!」
ルミは必死に涙を堪えながら、マルタと力を合わせて、意識の混濁したアルヴィーノを広い寝台へと引きずり上げた。
いつもは石のように硬い肩が、今は熱のせいでぐったりと弛緩している。
その姿が、ルミの胸を締め付けた。
(俺を癒やすために、俺を守るために、この人はずっと一人で無理をしてたんだ……)
「ルミ様、落ち込んでいる暇はありませんわよ! 殿下の看病は、この部屋の結界のせいで、事情を知る私とルミ様にしかできません。今こそ、特訓の成果を見せる時です!」
マルタの力強い言葉に、ルミはコクンと激しく頷いた。
水色の瞳に、強い決意の光が宿る。
「うん……俺、がんばる。アルヴィーノ様を、俺が助ける!」
そこからの数時間は、まさにルミの戦いだった。
マルタの指示に従い、まずは熱を逃がすためにアルヴィーノの軍服のボタンを一つずつ丁寧に外し、衣服を楽な寝着へと着替えさせる。
その際、アルヴィーノの胸元や腕に刻まれた、かつての戦傷の数々を見てルミは胸を痛めたが、手を止めることはしなかった。
大きなボウルに冷たい水を張り、清潔な布を浸して固く絞る。
それを、アルヴィーノの熱い額にそっと乗せると、アルヴィーノは「う……ん……」と小さく掠れた吐息を漏らした。
「マルタさん、薬草のお茶を淹れてくる!」
「お任せしました、ルミ様。熱を下げ、喉の痛みを和らげるブレンドです。ルミ様なら、きっと一番良い湯加減で淹れられますわ」
ルミは台所に走り、この数日間で叩き込まれた技術のすべてを注ぎ込んで、薬草茶を淹れた。
渋みが出ないよう慎重に蒸らし、熱すぎず冷めすぎない、今のアルヴィーノが最も飲みやすい温度に調整する。
寝室に戻ると、アルヴィーノがうわ言のように小さく呟いていた。
「……ルミ……どこ、ですか……。あの女は……私が、消さ、ねば……っ……」
夢の中でまで、まだエレオノーラの脅威からルミを守ろうと戦っているのだ。
「アルヴィーノ様、俺はここだよ。ここにいるよ」
ルミは寝台の脇に座り込み、アルヴィーノの熱く汗ばんだ大きな手を、両手でぎゅっと握りしめた。
「俺はもう大丈夫だから。悪い人は、みんないなくなれってしてくれたから。だから、もう戦わなくていいの……。お願いだから、ゆっくり休んで……」
ルミは薬草茶を少しずつスプーンですくい、アルヴィーノの乾いた唇へと運んだ。
意識が朦朧としながらも、ルミの声を聞きつけたアルヴィーノは、素直にそのお茶を少しずつ飲み下していく。
ルミの淹れた温かい薬草茶が、彼の乾ききった身体に染み渡っていくようだった。
それからルミは、何度も何度も冷たいタオルを取り替え、アルヴィーノの手を握り続け、彼の枕元で「大好きだよ」「そばにいるよ」と声をかけ続けた。
夜が更ける頃。
マルタがそっとルミの肩を叩いた。
「ルミ様、殿下の呼吸が落ち着いてまいりましたわ。熱も峠を越えたようです。……ルミ様の看病のおかげですわね」
「よかったぁ……っ」
ルミは張り詰めていた緊張が解け、アルヴィーノの手を握ったまま、寝台の横にぽてんと頭を預けた。
涙を流す暇もないほどの必死の看病。
ヘトヘトのはずなのに、アルヴィーノの穏やかになった寝顔を見ていると、胸の奥がじんわりと温かかった。
(……アルヴィーノ様が、元気でいてくれるだけで、俺はそれだけでいいんだもん)
ルミは小さな手で、アルヴィーノの指をもう一度きゅっと握りしめ、そのまま静かに、けれど幸せそうに目を閉じた。
夜明けの光が、静まり返った聖域を優しく照らし始める。
倒れた魔王と、彼を必死に救った小さな看護人。
二人の絆は、この看病の夜を経て、公的な身分など遥かに超越した、より深く切っても切れないものへと変わっていくのだった。
「それは……机に、置いておいてください……」
「殿下? 顔色が酷く優れませんが……」
「問題、ありません……。下がって、いいですよ……」
いつもなら冷徹に響くアルヴィーノの低音が、今朝はかすかに掠れ、どこか視線もおぼつかなかった。
彼は一睡もせずにヴァレンティ家の戦後処理、接収した領地の軍事統治計画、さらにはアルフレッドの外交交渉への付き添いをすべて一人でこなしてきた。
いくら常人離れした魔力を持つ第二王子とはいえ、肉体は人間だ。
自らが引き絞った緊張の糸は、本人が気づかぬうちに限界を迎えていた。
そしてその夜、ついに恐れていた事態が起きる。
パタン……と、いつもより頼りない音を立てて私室の扉が開いた。
「アルヴィーノ様! おかえりなさ――」
いつものようにお盆を持って駆け寄ったルミは、その場で息を呑んだ。
入ってきたアルヴィーノは、漆黒の軍服のボタンを掛け違え、その青白い額からは尋常ではない量の汗が吹き出していた。
紫の瞳は虚ろに潤み、呼吸は浅く、今にもその場に倒れ込みそうなほど激しく肩を揺らしている。
「アルヴィーノ様……っ!?」
「あ……ルミ……。すみません、今夜は、お茶をいただく前に、少し……」
そこまで言って、アルヴィーノの大きな身体がグラリと傾いた。
「わ、わっ!!」
ルミはお盆を投げ出し、慌ててアルヴィーノの身体を小さな両腕で受け止めようとした。
けれど、自分より遥かに大きくて重い肉体を支えきれるはずもなく、二人はもつれ合うようにしてふかふかの絨毯の上へと倒れ込む。
「アルヴィーノ様! 嘘、すごく熱い……!」
衣服越しに触れたアルヴィーノの肌は、まるで燃える炭のように熱かった。
あの不敗の魔王、決して弱みを見せないアルヴィーノ殿下が、完全に意識を朦朧とさせてルミの胸元に顔を埋めたまま、ハァ、ハァと荒い息を吐き出している。
「マルタさん! マルタさーん!! ちょっと来て!!」
ルミの悲痛な叫び声に、隣室で控えていたマルタが血相を変えて飛び込んできた。
「まあ……!アルヴィーノ殿下! なんということでしょう、完全に過労による高熱ですわ!」
「どうしよう、マルタさん、アルヴィーノ様が……っ」
「落ち着いて、ルミ様! 殿下はご自身の治癒魔法で無理やり肉体の悲鳴を抑え込んでおいでだったのです。それが限界を超えて爆発したのでしょう。さあ、私と一緒に殿下を寝台へ!」
ルミは必死に涙を堪えながら、マルタと力を合わせて、意識の混濁したアルヴィーノを広い寝台へと引きずり上げた。
いつもは石のように硬い肩が、今は熱のせいでぐったりと弛緩している。
その姿が、ルミの胸を締め付けた。
(俺を癒やすために、俺を守るために、この人はずっと一人で無理をしてたんだ……)
「ルミ様、落ち込んでいる暇はありませんわよ! 殿下の看病は、この部屋の結界のせいで、事情を知る私とルミ様にしかできません。今こそ、特訓の成果を見せる時です!」
マルタの力強い言葉に、ルミはコクンと激しく頷いた。
水色の瞳に、強い決意の光が宿る。
「うん……俺、がんばる。アルヴィーノ様を、俺が助ける!」
そこからの数時間は、まさにルミの戦いだった。
マルタの指示に従い、まずは熱を逃がすためにアルヴィーノの軍服のボタンを一つずつ丁寧に外し、衣服を楽な寝着へと着替えさせる。
その際、アルヴィーノの胸元や腕に刻まれた、かつての戦傷の数々を見てルミは胸を痛めたが、手を止めることはしなかった。
大きなボウルに冷たい水を張り、清潔な布を浸して固く絞る。
それを、アルヴィーノの熱い額にそっと乗せると、アルヴィーノは「う……ん……」と小さく掠れた吐息を漏らした。
「マルタさん、薬草のお茶を淹れてくる!」
「お任せしました、ルミ様。熱を下げ、喉の痛みを和らげるブレンドです。ルミ様なら、きっと一番良い湯加減で淹れられますわ」
ルミは台所に走り、この数日間で叩き込まれた技術のすべてを注ぎ込んで、薬草茶を淹れた。
渋みが出ないよう慎重に蒸らし、熱すぎず冷めすぎない、今のアルヴィーノが最も飲みやすい温度に調整する。
寝室に戻ると、アルヴィーノがうわ言のように小さく呟いていた。
「……ルミ……どこ、ですか……。あの女は……私が、消さ、ねば……っ……」
夢の中でまで、まだエレオノーラの脅威からルミを守ろうと戦っているのだ。
「アルヴィーノ様、俺はここだよ。ここにいるよ」
ルミは寝台の脇に座り込み、アルヴィーノの熱く汗ばんだ大きな手を、両手でぎゅっと握りしめた。
「俺はもう大丈夫だから。悪い人は、みんないなくなれってしてくれたから。だから、もう戦わなくていいの……。お願いだから、ゆっくり休んで……」
ルミは薬草茶を少しずつスプーンですくい、アルヴィーノの乾いた唇へと運んだ。
意識が朦朧としながらも、ルミの声を聞きつけたアルヴィーノは、素直にそのお茶を少しずつ飲み下していく。
ルミの淹れた温かい薬草茶が、彼の乾ききった身体に染み渡っていくようだった。
それからルミは、何度も何度も冷たいタオルを取り替え、アルヴィーノの手を握り続け、彼の枕元で「大好きだよ」「そばにいるよ」と声をかけ続けた。
夜が更ける頃。
マルタがそっとルミの肩を叩いた。
「ルミ様、殿下の呼吸が落ち着いてまいりましたわ。熱も峠を越えたようです。……ルミ様の看病のおかげですわね」
「よかったぁ……っ」
ルミは張り詰めていた緊張が解け、アルヴィーノの手を握ったまま、寝台の横にぽてんと頭を預けた。
涙を流す暇もないほどの必死の看病。
ヘトヘトのはずなのに、アルヴィーノの穏やかになった寝顔を見ていると、胸の奥がじんわりと温かかった。
(……アルヴィーノ様が、元気でいてくれるだけで、俺はそれだけでいいんだもん)
ルミは小さな手で、アルヴィーノの指をもう一度きゅっと握りしめ、そのまま静かに、けれど幸せそうに目を閉じた。
夜明けの光が、静まり返った聖域を優しく照らし始める。
倒れた魔王と、彼を必死に救った小さな看護人。
二人の絆は、この看病の夜を経て、公的な身分など遥かに超越した、より深く切っても切れないものへと変わっていくのだった。
