主と従者の檻に、世界で一番甘い誓いを

大聖堂での断罪から一週間。
王宮の政治の嵐は衰えるどころか勢いを増し、軍師殿下アルヴィーノの「死にそうに忙しい日々」は絶賛継続中であった。

「……アルヴィーノ、隣国の使節団への追加の関税補正案だが、明朝までに目を通しておいてくれ」
「アルフレッド陛下。私は昨夜から一睡もしておらず、先ほどまでヴァレンティ家残党の尋問に立ち会っていたのですが」
「頼めるのは君しかいないんだ、我が国の頼れる刃よ」
「……後で覚えておきなさい、兄上」

そんな、冷徹な仮面の下で今にもアルフレッドを呪い殺しそうなほど疲弊したアルヴィーノの日常の裏で。
主の私室では、もう一つの、けれど平和で健気な「戦い」が始まっていた。

「マルタさん、次は何をすればいい!?」

ルミは、自分の身体よりも二回りほど大きな、アルヴィーノの寝台の最高級シーツを両手で必死に抱えながら、水色の瞳をキラキラと輝かせていた。

「まあまあ、ルミ様、落ち着いて。殿下の寝台のシーツは、シワ一つなくピンと張るのが鉄則ですわ。四隅をこのように、きゅっと織り込んで……」
「こう……? あっ、できた! すごい、ホテルみたい!」
「ふふ、王宮の私室ですからね。素晴らしい手際ですわ、ルミ様」

マルタに褒められ、ルミはふにゃりと嬉しそうに頬を緩める。
あのお茶の夜以来、ルミの「アルヴィーノ様癒やし隊」としての情熱は爆発していた。
ただ待っているだけの足手まといにはなりたくない。
夜、ボロボロになって帰ってくるアルヴィーノ様が、この部屋に入った瞬間に世界で一番幸せになれるように、ルミはマルタ指導のもと、家事やお世話の特訓に励んでいた。

二日目は、部屋の空気の入れ替えと、アルヴィーノ様が好きな香草ハーブのサシェ作り。

「殿下は神経をすり減らしておいでですから、眠りを深くするラベンダーと、頭痛を和らげるミントを少し混ぜましょう」というマルタのアドバイスを熱心にメモし、ルミは小さな麻袋に丁寧に香草を詰めて、アルヴィーノ様の枕元にそっと忍ばせた。

三日目には、ついに大物へと挑戦する。

「マルタさん……俺、マッサージを覚えたいです」
「おや、ツボ押しでございますか?」
「うん。アルヴィーノ様、いっつも肩が石みたいに硬いし、頭痛いって眉間にシワ寄せてるから。俺の小さな手じゃあんまり力が入らないかもしれないけど、少しでも楽にしてあげたくて」

マルタは、その健気すぎる申し出に胸を打たれ、自らの肩を練習台として差し出した。

「ここが『肩井(けんせい)』というツボですわ。力任せではなく、ルミ様の体重を少し乗せるようにして、ゆっくりと……」
「こう……? む、むんっ……!」
「おや、お上手ですわ。これなら殿下も、肩の硬さなど一瞬で吹き飛んでしまいますね」

ルミは毎日、ヘトヘトになるまで部屋中を動き回り、マルタに色々なことを教わった。
自分が動くたびに、この冷え切っていた私室が、どんどん「温かいお家」に変わっていくような気がして、ルミは楽しくて仕方がなかった。

そして迎えた、四日目の深夜。

「…………」

アルヴィーノは、もはや幽鬼のような足取りで、自室の扉へと辿り着いた。
アルフレッドの容赦のない書類の山と、他国の外交官たちの醜い狐の化かし合い。
冷たい人間の悪意と欲望の泥水を一日中浴び続け、彼の精神は限界を迎えていた。
今すぐ誰かを魔力で吹き飛ばしたいほどの苛立ちと、鉛のような疲労感。

(……早く、ルミに会いたい……)

それだけを生きがいに、重い扉を押し開ける。
部屋に入った瞬間、アルヴィーノはふっと足を止めた。
いつもと、部屋の空気が違う。
仄かに優しく漂うのは、清涼感のあるミントと、心を落ち着かせるラベンダーの柔らかな香り。
そして、視界に飛び込んできたのは、驚くほど美しく、シワ一つなく整えられたベッドと、完璧に磨き上げられた調度品だった。
そして部屋の奥から、パタパタと小走りで駆け寄ってくる、愛しい足音。

「アルヴィーノ様! おかえりなさい!」

ルミは、手慣れた手つきでアルヴィーノの外套を受け取ると、衣桁へと滑らかに掛けた。
そして、すでに完璧な温度に蒸らされた東方茶のカップを、トレイに乗せて差し出す。

「お茶、淹れたてだよ。あとね、今日はお部屋のシーツも俺が敷いたの! 枕の横に、頭痛が治る薬草も置いたからね!」

胸を張って、少しドヤ顔で報告してくるルミくん。
アルヴィーノは呆然とお茶を受け取り、一口含む。
喉を潤す温かい液体と、部屋を包む完璧な安寧の空気。
そして何より、自分のために小さな身体をいっぱいに動かしてくれたルミの「頑張りの結晶」が、部屋のあちこちから伝わってきた。

「……ルミ。貴方は、本当に……」

アルヴィーノはカップを置くと、ガタッと大きな音を立てて長椅子に崩れ落ち、そのままルミの細い腰を抱きしめて、そのお腹に頭を埋めた。

「わ、アルヴィーノ様!?」
「信じられません……。一日の終わりに、このような天国が待っているなど。アルフレッドへの殺意が、一瞬で霧散していきました……」
「ふふ、アルフレッド様、本当にお仕事厳しいんだね。……アルヴィーノ様、ちょっと頭貸して?」

ルミはふふっと優しく笑うと、長椅子に突っ伏すアルヴィーノの頭を、自分の膝の上へと誘導した。
完璧な膝枕の体勢。
そして、ルミの小さな指先が、アルヴィーノの強張ったこめかみや、石のように硬硬になった肩へとそっと触れる。

「マルタさんに習ったんだ。いくよ……むんっ」

小さな手が、一生懸命に体重をかけて、アルヴィーノのツボをじっくりと押し始める。
プロの指圧師のような強い力ではない。
けれど、ルミの「お疲れ様」「大好き」という純粋な想いが、指先を通じてダイレクトにアルヴィーノの肉体へと染み込んでくる。
ルミの体温と、頭上から降り注ぐ優しい水色の瞳の光。

「……っ……あ、あ、ルミ……そこ、は……」

あまりの心地よさと、奥底からじわじわと解きほぐされていく感覚に、あの冷徹な軍師が、見たこともないほど蕩けた声を漏らしてシーツに顔を埋めた。

「きく? よかった! 俺、毎日マルタさんと練習したんだ。アルヴィーノ様が、少しでも楽になりますようにって」

ルミは嬉しそうに、何度も何度も、アルヴィーノの肩や頭を優しく揉みほぐしていく。
アルヴィーノは、ルミの膝の上で、完全に全ての警戒心を解き放っていた。
冷たい政治の世界でどれほど心を削られようとも、この小さな天使が自分のために奮闘してくれるこの部屋がある限り、自分は何度でも立ち上がれる。

「ルミ……私は、貴方なしでは、もう一秒も生きていけません」
「もう……。アルヴィーノ様。ほら、力抜いて? まだまだマッサージは続くんだから」

ルミの優しく健気な頑張りは、激務で死にそうだった魔王の心を、これ以上ないほど甘く、完璧に支配して癒やしていくのだった。
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