主と従者の檻に、世界で一番甘い誓いを

深夜、王宮の最上階へと続く回廊は、静まり返っていた。
カツ、カツ、と重い革靴の音だけが、冷たい石床に虚しく反響する。
アルヴィーノは、いつもなら一切乱れさせることのない歩調を、今夜は僅かに重く引きずっていた。
漆黒の軍服の襟元を開ける気力すらなく、その紫の瞳には、連日の徹夜と隣国特使との神経を削るような化かし合いによる、濃厚な疲弊の影が張り付いている。

(兄上め……。覚醒した王の振る舞いとしては満点ですが、全く人遣いの荒い……ッ。私を道具か何かだと思っているのでは……!?)

心の中で実の兄に毒突きながら、アルヴィーノは自室の扉の前に辿り着く。
あの日、彼自身の魔力でさらに幾重にも補強した最高強度の結界に触れ、鍵を解く。
かつてはルミの安全を確認するためだけの儀式だったそれが、今やアルヴィーノにとって、冷酷な世界の仮面を剥ぎ取るための唯一の「聖域の境界線」となっていた。
扉を静かに押し開ける。

「――あ、アルヴィーノ様!」

部屋に足を踏み入れた瞬間、耳に飛び込んできたのは、弾んだ、けれどどこか緊張を孕んだ愛らしい声だった。
見れば、ルミが小さなお盆を両手でしっかりと抱え、こちらに小走りで駆け寄ってくるところだった。
いつもなら長椅子でうとうと眠っているか、静かに窓の外を眺めているはずの彼が、今夜は目を真ん丸に輝かせ、完璧に覚醒して待っていたのだ。

「ルミ、まだ起きて……」
「おかえりなさい、アルヴィーノ様! お疲れ様!」

アルヴィーノが言葉を紡ぎきる前に、ルミはお盆を近くの丸机に置くと、彼の前に立って、その重い外套のボタンに小さな手を伸ばした。

「俺、これくらいならできるから。……アルヴィーノ様、毎日すごく遅いし、全然眠ってないでしょ? ほら、肩にすごく力が入ってる」

小さな手が、一生懸命に漆黒の外套を肩から滑り落とし、近くの衣桁へと掛ける。
いつもなら「貴方は何もしなくていい」と制するはずのアルヴィーノだったが、今夜はルミのその熱心な様子と、衣服越しに伝わってくる小さな手の温もりに、言葉を失ってただ見つめていた。

「それからね、アルヴィーノ様。こっち! 座って!」

ルミに促されるまま、アルヴィーノは長椅子へと腰を下ろした。
長年、戦場でも宮廷でも張り詰めていた背中が、ルミの用意した柔らかなクッションに沈み込む。
すると、ルミが誇らしげに、けれど少しだけ照れくさそうに、お盆から一つの磁器のカップを持ち上げた。

「これ……俺が淹れたの。マルタさんに、アルヴィーノ様が一番ほっとできるお茶の淹れ方、教えてもらったんだ。……お口に合うか、わからないけど」

カップから立ち上るのは、アルヴィーノが最も好む、深く落ち着いた香りの東方茶。
だが、いつも使用人が淹れる完璧なそれとは、ほんの少しだけ香りの立ち方が違っていた。
じっくりと時間をかけ、渋みが出ないように、飲む人間の体を温めることだけを考えて丁寧に、丁寧に蒸らされたことが、立ち上る湯気から伝わってくる。

「貴方が……私のために?」
「うん。俺、ただ待ってるだけじゃなくて、アルヴィーノ様のために何かがしたくて。……熱いから、気をつけてね?」

ルミは両手でカップを差し出す。
その水色の瞳は、期待と、ほんの少しの不安で揺れていた。
アルヴィーノはそれを恭しく受け取ると、ゆっくりと口をつけた。
じんわりと温かい液体が喉を通り、胸の奥へと染み渡っていく。
少しだけ不器用で、けれど驚くほど優しく、甘い。
隣国の特使が吐き散らした欺瞞の言葉や、アルフレッドの冷徹な命令で凍りついていたアルヴィーノの五臓六腑が、その一口で劇的に、奥底からじゅわっと融かされていく。

「……美味しいです、ルミ」

アルヴィーノの口から、ここ数日で一度も出なかった、心からの静かな声が漏れた。

「本当……!? よかった……!」

ルミの顔に、ひまわりが咲いたような、この上なく愛らしい笑顔が弾けた。
その笑顔を見た瞬間、アルヴィーノの脳内で警告を鳴らし続けていた「激務による疲労」のパラメーターが、一瞬で全て消去された。
アルヴィーノは手元のカップをそっと机に置くと、目の前で嬉しそうに胸を撫で下ろしているルミの細い腰を引き寄せ、そのまま自分の膝の上へと抱き上げた。

「わっ……、アルヴィーノ様?」
「少しだけ、このままでいさせてください。ルミ、貴方は本当に、恐ろしい子だ……」

アルヴィーノはルミの細い首筋に顔を埋め、その甘く清らかな香りを深く、深く吸い込んだ。
自身の大きな腕でルミの小さな身体をすっぽりと包み込み、その壊れそうなほど健気な温もりを確かめる。

「俺、お仕事の邪魔になってない……?」

ルミはアルヴィーノの漆黒の髪にそっと手を伸ばし、そのお疲れの頭を優しく、慈しむように撫でた。

「邪魔なわけがないでしょう。……この数日間、私の正気を繋ぎ止めていたのは、この部屋に貴方がいるという事実だけです。そして今、貴方が淹れてくれたお茶が、世界中のどんな治癒魔法よりも私を癒してくれた」

アルヴィーノの掠れた、けれど熱を帯びた声がルミの耳元を揺らす。
ルミは顔を真っ赤に染めながらも、逃げることなく、アルヴィーノの広い胸に自らぎゅっと寄り添った。

「俺、もっと練習するね。アルヴィーノ様が、いつでもここで元気になれるように」
「これ以上、私を甘やかさないでください。……本当に、明日から仕事に行けなくなってしまう」

アルヴィーノは低く笑うと、膝の上のルミを愛おしそうに見上げ、その少し尖らせた唇に、深く、甘い、お礼の口づけを落とした。
王宮の不夜城がどれほど冷たく輝こうとも、この閉ざされた聖域の中だけは、極上の蜂蜜のような甘さと温もりで満たされていた。
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