主と従者の檻に、世界で一番甘い誓いを
大聖堂を血に染めることなく、国法という冷徹な刃を以てヴァレンティ家を事実上の崩壊へと追い遣ったあの日から、王宮の空気は一変していた。
挙式は無期限の延期――実質的な婚約破棄が国内外に宣言され、ヴァレンティ家の全財産没収と一族の捕縛という迅速すぎる戦後処理は、新国王となるアルフレッドの「王としての威厳」を世界に知らしめるには十分すぎる衝撃であった。
だが、あの夜、優しさという名の無垢な殻を自ら焼き潰したアルフレッドは、冷酷なだけの暴君に成り下がったわけではなかった。
「――先方の要求は、我が国の国境線における関税の引き下げ、および鉱山採掘権の一部譲渡だ。我が国が先の戦で得た利権を、あわよくば婚礼の混乱に乗じて掠め取ろうという腹積もりだろう」
薄暗い謁見室の奥、重厚な執務机に向かうアルフレッドの声は、静かで、かつてのような迷いは一切なかった。
「以前の僕であれば、平和的な隣国関係を維持するために、彼らの要求に一度は耳を傾け、妥協点を探ったかもしれない。対話こそが、互いの国を幸せにする唯一の道だと信じていたからね」
アルフレッドはそう言って、包帯が固く巻かれた右腕をそっと左手で庇うように触れた。
衣服の上からでも、自らの魔力で焼き潰した王族の紋章が、今なお鈍い痛みを訴えてくる。
その痛みが、彼の甘さを、無知を、毎瞬のように戒めていた。
「だが、優しさだけでは誰も救えない。対話をするのは、こちらが『いつでも相手を圧殺できる刃』を握り締めている時だけだ。……そうだろう、アルヴィーノ」
アルフレッドの青い瞳が、部屋の影から音もなく進み出てきた弟へと向けられる。
漆黒の軍服を一切の乱れなく着こなしたアルヴィーノは、冷淡な、けれど確固たる信頼を宿した紫の瞳でアルフレッドを見返した。
「ええ。対話とは、対等な力を持つ者同士が、破滅を避けるために行う最終交渉に過ぎません。相手が我が国の足元を見ている段階で差し出す優しさなど、ただの肉を差し出す家畜の振る舞いと同じです」
今のアルフレッドは、隣国との交渉、あるいは国内の反抗分子との対話の席には、必ず軍の最高指揮官であるアルヴィーノを同行させていた。
「まずは言葉で交渉する。だが、一度でも我が国を侮る出方を見せれば、その背後に控える『魔王』が貴様たちの国ごとすべてを消し去る」
アルフレッドの残した善性は、アルヴィーノという絶対的な死神を隣に侍らせることで、初めて国家を統べる「鉄の外交手段」へと昇華されたのだ。
「これより、隣国の特使との謁見を始める。アルヴィーノ、君は私の影として、ただそこに座っていればいい」
「御意、アルフレッド陛下。……我が国の法と、貴方の正義に従いましょう」
大陸で最も恐れられる軍師を従え、アルフレッドは冷徹な王の笑みを浮かべて扉を開いた。
国の政情が激変するこの過渡期、アルフレッドの補佐と、ヴァレンティ家の残党狩り、そして軍の再編――。
アルヴィーノの日常は、息をつく暇もないほどの激務と、政治の冷たい闇に塗りつぶされていた。
◆
一方、そのあまりにも巨大で冷徹な王宮の歯車から遠く離れた、アルヴィーノの私室。
かつてエレオノーラによって無惨に荒らされた部屋は、今や完璧に修復され、以前よりもさらに強固な、アルヴィーノの直属部隊しか近づけない最高警戒区域となっていた。
「……はぁ。俺、今日も何もしてないな……」
ルミはふかふかの長椅子に座り、小さな膝を抱えながら、窓の外に広がる王宮の中庭を見つめていた。
あの絶望的な夜から数日。
アルヴィーノが毎晩、仕事から戻ると真っ直ぐに自分を抱きしめ、熱いほどの愛を注いでくれることは、ルミの傷ついた心をどれほど救ってくれたか分からない。
アルヴィーノの腕の中にいる時だけは、自分が世界で一番安全で、愛されているのだと実感できた。
けれど。
(アルヴィーノ様は、俺のためにあんなに怒って、今も毎日、寝る間もないくらいお仕事をしてるのに……)
昼間、一人でこの広い部屋に取り残されていると、どうしようもない焦燥感がルミの胸をチクリと刺す。
肉体の傷はアルヴィーノの完璧な治癒魔法で消え去った。
けれど、あの時「何もできなかった自分」への不甲斐なさは、消えてくれなかった。
自分はただの、守られるだけの、足手まといのガラス玉なのだろうか。
「あの、ルミ様。そんなに難しいお顔をなさって、どうされたのですか?」
静かな部屋に、おっとりとした、けれどハキハキとした声が響いた。
声をかけたのは、あの日以来、アルヴィーノがルミのために新しく配属した、私室専属のお世話係の老女、マルタだった。
マルタは長年王宮の奥廷に仕えてきた熟練の使用人であり、アルヴィーノが「ルミの心に寄り添い、かつ絶対に秘密を漏らさない、身元の確かな者」として厳選した人物だ。
昨晩、アルヴィーノから『ルミの様子を逐一報告せよ。だが、決して無理はさせるな』と、恐ろしいほどの威圧感で念を押されていた。
「あ、マルタさん……」
ルミは申し訳なさそうに、長椅子からぴょこんと足を下ろした。
「俺、なにか、できることないかなって。……アルヴィーノ様はいつも『お部屋でお留守番してて』って言うけど、俺、これでも一応、アルヴィーノ様の従者だから……。お掃除でも、お洗濯でも、なんでもいいから、アルヴィーノ様の役に立ちたいの」
水色の瞳を真剣に輝かせ、小さな拳を握りしめるルミ。
その健気で、けれどどこか思い詰めたような表情を見て、マルタはすべてを察したように、深く優しい笑みを浮かべた。
先の事件で、この小さな少年がどれほど深く傷つき、それゆえに「自分の存在意義」を探しているのかを、老練な使用人は理解していた。
「まあ、ルミ様。そのお気持ちは大変素晴らしいことですわ。ですが、王弟殿下がこれを知れば、私など一瞬で憲兵団に連行されてしまいますね」
マルタはおどけたように首をすくめて見せる。
「殿下は、ルミ様がこの部屋で、ただ健やかに、笑顔で待っていてくださることだけを望んでおいでです。ルミ様が指先一つ傷つけることすら、今のあの御方にとっては世界の終わりも同然なのですから」
「それは、分かってる、けど……。でも俺、ただ待ってるだけじゃ、あの夜とおんなじで……」
ルミの声が、きゅっと小さく萎む。
腕をさするその仕草に、まだエレオノーラに襲われた時の恐怖の残滓が見え隠れしていた。
マルタはそっと歩み寄ると、ルミの前に屈み、その小さな手を優しく包み込んだ。
「では、ルミ様。殿下のお仕事の邪魔にならず、けれど殿下が夜、お部屋に戻られた時に、最高に幸せになれる『お仕事』を、私と一緒に探してみましょうか」
「お仕事……? 俺に、できること?」
「ええ。例えば……殿下のお好きな茶葉の調合を覚えることですとか。殿下の寝台のシーツを、ルミ様の手できれいに整えることですとか。あるいは、殿下がいつお戻りになっても良いように、このお部屋を世界で一番居心地の良い『聖域』に保つお手伝い……。これは、私一人では決してできない、ルミ様にしかできない特別なお仕事ですわ」
マルタの言葉に、ルミの曇っていた水色の瞳が、ぱっと明るい光を取り戻していく。
「俺にしか、できないお仕事……。アルヴィーノ様が、喜んでくれるかな?」
「ええ、間違いなく。殿下はきっと、嬉しさのあまりお仕事に出かけられなくなってしまうかもしれませんね」
マルタが茶目っ気たっぷりに笑うと、ルミの顔に、あの事件以来、一番自然で愛らしい笑顔がこぼれ落ちた。
「俺、やる! マルタさん、お茶の淹れ方、教えて! アルヴィーノ様が、ほっとできるお茶、俺が淹れられるようになりたい!」
「ふふ、かしこまりました。では、お茶室から最高級の茶葉を取り寄せてまいりましょう。内緒の特訓の始まりですわね」
外の回廊では、今日も国を揺るがす冷徹な政治の嵐が吹き荒れ、アルフレッドとアルヴィーノが鉄の歩みを進めている。
けれど、この閉ざされた私室の中だけは、マルタという新しい味方を得て、ルミくんが少しずつ、自分の足で前を向こうとする優しい時間が流れ始めていた。
すべては、やがて訪れる「二人きりの特別な夜」のために。
小さな雛鳥は、静かに、健気に、その羽を調え始めていた。
挙式は無期限の延期――実質的な婚約破棄が国内外に宣言され、ヴァレンティ家の全財産没収と一族の捕縛という迅速すぎる戦後処理は、新国王となるアルフレッドの「王としての威厳」を世界に知らしめるには十分すぎる衝撃であった。
だが、あの夜、優しさという名の無垢な殻を自ら焼き潰したアルフレッドは、冷酷なだけの暴君に成り下がったわけではなかった。
「――先方の要求は、我が国の国境線における関税の引き下げ、および鉱山採掘権の一部譲渡だ。我が国が先の戦で得た利権を、あわよくば婚礼の混乱に乗じて掠め取ろうという腹積もりだろう」
薄暗い謁見室の奥、重厚な執務机に向かうアルフレッドの声は、静かで、かつてのような迷いは一切なかった。
「以前の僕であれば、平和的な隣国関係を維持するために、彼らの要求に一度は耳を傾け、妥協点を探ったかもしれない。対話こそが、互いの国を幸せにする唯一の道だと信じていたからね」
アルフレッドはそう言って、包帯が固く巻かれた右腕をそっと左手で庇うように触れた。
衣服の上からでも、自らの魔力で焼き潰した王族の紋章が、今なお鈍い痛みを訴えてくる。
その痛みが、彼の甘さを、無知を、毎瞬のように戒めていた。
「だが、優しさだけでは誰も救えない。対話をするのは、こちらが『いつでも相手を圧殺できる刃』を握り締めている時だけだ。……そうだろう、アルヴィーノ」
アルフレッドの青い瞳が、部屋の影から音もなく進み出てきた弟へと向けられる。
漆黒の軍服を一切の乱れなく着こなしたアルヴィーノは、冷淡な、けれど確固たる信頼を宿した紫の瞳でアルフレッドを見返した。
「ええ。対話とは、対等な力を持つ者同士が、破滅を避けるために行う最終交渉に過ぎません。相手が我が国の足元を見ている段階で差し出す優しさなど、ただの肉を差し出す家畜の振る舞いと同じです」
今のアルフレッドは、隣国との交渉、あるいは国内の反抗分子との対話の席には、必ず軍の最高指揮官であるアルヴィーノを同行させていた。
「まずは言葉で交渉する。だが、一度でも我が国を侮る出方を見せれば、その背後に控える『魔王』が貴様たちの国ごとすべてを消し去る」
アルフレッドの残した善性は、アルヴィーノという絶対的な死神を隣に侍らせることで、初めて国家を統べる「鉄の外交手段」へと昇華されたのだ。
「これより、隣国の特使との謁見を始める。アルヴィーノ、君は私の影として、ただそこに座っていればいい」
「御意、アルフレッド陛下。……我が国の法と、貴方の正義に従いましょう」
大陸で最も恐れられる軍師を従え、アルフレッドは冷徹な王の笑みを浮かべて扉を開いた。
国の政情が激変するこの過渡期、アルフレッドの補佐と、ヴァレンティ家の残党狩り、そして軍の再編――。
アルヴィーノの日常は、息をつく暇もないほどの激務と、政治の冷たい闇に塗りつぶされていた。
◆
一方、そのあまりにも巨大で冷徹な王宮の歯車から遠く離れた、アルヴィーノの私室。
かつてエレオノーラによって無惨に荒らされた部屋は、今や完璧に修復され、以前よりもさらに強固な、アルヴィーノの直属部隊しか近づけない最高警戒区域となっていた。
「……はぁ。俺、今日も何もしてないな……」
ルミはふかふかの長椅子に座り、小さな膝を抱えながら、窓の外に広がる王宮の中庭を見つめていた。
あの絶望的な夜から数日。
アルヴィーノが毎晩、仕事から戻ると真っ直ぐに自分を抱きしめ、熱いほどの愛を注いでくれることは、ルミの傷ついた心をどれほど救ってくれたか分からない。
アルヴィーノの腕の中にいる時だけは、自分が世界で一番安全で、愛されているのだと実感できた。
けれど。
(アルヴィーノ様は、俺のためにあんなに怒って、今も毎日、寝る間もないくらいお仕事をしてるのに……)
昼間、一人でこの広い部屋に取り残されていると、どうしようもない焦燥感がルミの胸をチクリと刺す。
肉体の傷はアルヴィーノの完璧な治癒魔法で消え去った。
けれど、あの時「何もできなかった自分」への不甲斐なさは、消えてくれなかった。
自分はただの、守られるだけの、足手まといのガラス玉なのだろうか。
「あの、ルミ様。そんなに難しいお顔をなさって、どうされたのですか?」
静かな部屋に、おっとりとした、けれどハキハキとした声が響いた。
声をかけたのは、あの日以来、アルヴィーノがルミのために新しく配属した、私室専属のお世話係の老女、マルタだった。
マルタは長年王宮の奥廷に仕えてきた熟練の使用人であり、アルヴィーノが「ルミの心に寄り添い、かつ絶対に秘密を漏らさない、身元の確かな者」として厳選した人物だ。
昨晩、アルヴィーノから『ルミの様子を逐一報告せよ。だが、決して無理はさせるな』と、恐ろしいほどの威圧感で念を押されていた。
「あ、マルタさん……」
ルミは申し訳なさそうに、長椅子からぴょこんと足を下ろした。
「俺、なにか、できることないかなって。……アルヴィーノ様はいつも『お部屋でお留守番してて』って言うけど、俺、これでも一応、アルヴィーノ様の従者だから……。お掃除でも、お洗濯でも、なんでもいいから、アルヴィーノ様の役に立ちたいの」
水色の瞳を真剣に輝かせ、小さな拳を握りしめるルミ。
その健気で、けれどどこか思い詰めたような表情を見て、マルタはすべてを察したように、深く優しい笑みを浮かべた。
先の事件で、この小さな少年がどれほど深く傷つき、それゆえに「自分の存在意義」を探しているのかを、老練な使用人は理解していた。
「まあ、ルミ様。そのお気持ちは大変素晴らしいことですわ。ですが、王弟殿下がこれを知れば、私など一瞬で憲兵団に連行されてしまいますね」
マルタはおどけたように首をすくめて見せる。
「殿下は、ルミ様がこの部屋で、ただ健やかに、笑顔で待っていてくださることだけを望んでおいでです。ルミ様が指先一つ傷つけることすら、今のあの御方にとっては世界の終わりも同然なのですから」
「それは、分かってる、けど……。でも俺、ただ待ってるだけじゃ、あの夜とおんなじで……」
ルミの声が、きゅっと小さく萎む。
腕をさするその仕草に、まだエレオノーラに襲われた時の恐怖の残滓が見え隠れしていた。
マルタはそっと歩み寄ると、ルミの前に屈み、その小さな手を優しく包み込んだ。
「では、ルミ様。殿下のお仕事の邪魔にならず、けれど殿下が夜、お部屋に戻られた時に、最高に幸せになれる『お仕事』を、私と一緒に探してみましょうか」
「お仕事……? 俺に、できること?」
「ええ。例えば……殿下のお好きな茶葉の調合を覚えることですとか。殿下の寝台のシーツを、ルミ様の手できれいに整えることですとか。あるいは、殿下がいつお戻りになっても良いように、このお部屋を世界で一番居心地の良い『聖域』に保つお手伝い……。これは、私一人では決してできない、ルミ様にしかできない特別なお仕事ですわ」
マルタの言葉に、ルミの曇っていた水色の瞳が、ぱっと明るい光を取り戻していく。
「俺にしか、できないお仕事……。アルヴィーノ様が、喜んでくれるかな?」
「ええ、間違いなく。殿下はきっと、嬉しさのあまりお仕事に出かけられなくなってしまうかもしれませんね」
マルタが茶目っ気たっぷりに笑うと、ルミの顔に、あの事件以来、一番自然で愛らしい笑顔がこぼれ落ちた。
「俺、やる! マルタさん、お茶の淹れ方、教えて! アルヴィーノ様が、ほっとできるお茶、俺が淹れられるようになりたい!」
「ふふ、かしこまりました。では、お茶室から最高級の茶葉を取り寄せてまいりましょう。内緒の特訓の始まりですわね」
外の回廊では、今日も国を揺るがす冷徹な政治の嵐が吹き荒れ、アルフレッドとアルヴィーノが鉄の歩みを進めている。
けれど、この閉ざされた私室の中だけは、マルタという新しい味方を得て、ルミくんが少しずつ、自分の足で前を向こうとする優しい時間が流れ始めていた。
すべては、やがて訪れる「二人きりの特別な夜」のために。
小さな雛鳥は、静かに、健気に、その羽を調え始めていた。
