主と従者の檻に、世界で一番甘い誓いを

挙式当日、夜明け前の薄暗い謁見室の裏廊下。
大聖堂へと向かう直前、白銀の式典服に身を包んだアルフレッドの前に、漆黒の軍服を纏ったアルヴィーノが音もなく立ちはだかった。
アルフレッドの右袖からは、未だに肉の焦げた悍ましい臭いが微かに漂っている。
応急処置の包帯で固く固められたその右腕は、もはやかつての優美な王子の腕ではない。
自らの甘さを焼き尽くした、冷酷な支配者の象徴だった。

「準備はいいですか、兄上」

アルヴィーノの紫の瞳は、一切の情を排して実の兄を見据えていた。

「当然だ。僕の言葉に嘘は無いと、昨夜、証明したはずだ」

アルフレッドは激痛に顔を僅かに歪めながらも、一歩も退かずに弟の視線を受け止める。
その青い瞳には、昨日までの迷いや甘えは一切消え失せていた。

「大聖堂の祭壇にエレオノーラが上がった瞬間、私が直々に近衛兵を動かす。ヴァレンティ家が我が国の最高防衛機密である君の結界を、欺瞞を以て侵犯した事実。これを出席している国内外の全貴族の前で暴露し、奴らの逃げ道を完全に塞ぐ」
「……よろしい。もし貴方の声が一度でも震えれば、あるいは近衛兵の動きが1秒でも遅れれば、その瞬間に私の部隊が聖堂を包囲し、ヴァレンティの血族をこの手で肉片に変えます。ルミを傷つけた代償は、生半可なものでは購えません」

アルヴィーノの背後から立ち上る、絶対零度の殺気。
アルフレッドはそれを真っ向から受け止め、冷徹に頷いた。

「分かっている。君の手を汚させはしない。……ルミくんの涙の理由は、私が王の裁きとしてすべて精算する」

二人の間で交わされた、血と法による冷徹な誓約。
それが、婚礼前夜から当日へと繋がる、破滅への確実な導火線だった。

大陸の覇者となった大国の、誰もが待ち望んだ婚礼の朝がやってきた。
雲一つない青空から降り注ぐ陽光が、歴史ある大聖堂のステンドグラスを鮮やかに染め上げている。
聖堂内は各国からの王賓や名門貴族たちで埋め尽くされ、新国王となるアルフレッドと、その妃となるエレオノーラの門出を祝う賛美歌とパイプオルガンの重厚な音色が響き渡っていた。

「ああ……なんて美しい世界かしら」

純白のウェディングドレスを身に纏い、豪奢なレースのベールに顔を包んだエレオノーラは、自らの完璧な美貌と、これから手にする「王妃」という絶対的な権力に、全身の血が泡立つような全能感を覚えていた。
昨晩の出来事は、すでに彼女の頭の中から消え去っていた。
あのアルヴィーノが大切にしていたというドレスは、自分の手で見るも無惨な布切れの山に変えてやった。
生意気なガラス玉も、今頃は泣き腫らした顔で部屋の隅に転がっているに違いない。
アルフレッドは何も知らずに自分を愛し、アルヴィーノも軍の最高幹部として、この式を警護するために大人しく従っている。

すべては、自分の思い通り。
私がこの国で一番美しく、一番気高い薔薇なのだ。

エレオノーラは、誇らしげに胸を張り、ゆっくりとバージンロードを歩み始めた。
周囲からの羨望と感嘆の視線が、まるで心地よい絹のように彼女の肌を撫でていく。
祭壇の前に辿り着き、ベールが静かに上げられた。
目の前には、白銀の式典服に身を包んだ、未来の夫アルフレッドが立っている。

「アルフレッド殿下……」

エレオノーラは、完璧に作り込まれた、聖母のように慈愛に満ちた微笑みを彼に向けた。
しかし。

「…………」

その微笑みを受け止めるはずのアルフレッドの青い瞳には、いつも彼女に向けられていた、あの眩いばかりの優しい光は、微塵も存在していなかった。
そこに宿っていたのは、一切の感情を削ぎ落とした、底冷えのするような冷徹な「支配者」の眼差しだった。
さらに、アルフレッドの式典服の右袖は、不自然なほど固く締め直されており、そこから仄かに漂うのは、どれほど高級な香水でも消し去ることのできない肉が焦げたような、悍ましい臭いだった。

「――殿、下……?」

エレオノーラの完璧な笑みが、かすかに凍りつく。
何かがおかしい。
いつもなら自分の手をとって優しく微笑みかけてくれるはずの王子が、まるで血の通っていない彫刻のように、冷たく自分を見下ろしている。
張り詰めた沈黙が流れる大聖堂の最前列。
そこには、漆黒の軍服を乱れなく着こなしたアルヴィーノが、微動だにせず立っていた。
その紫の瞳は、まるで死刑囚の首に掛けられた縄を見つめるかのように、絶対零度の光を宿してエレオノーラを射抜いている。
聖堂内の華やかな喧騒が、急速に冷えていく。
賛美歌の歌声が止まり、オルガンの音が途切れた。
異様な静寂が、大聖堂の巨大な空間を支配し始める。

「アルフレッド殿下、あの……挙式の儀を……」

不安に駆られたエレオノーラが、縋るように声を絞り出した、その瞬間だった。
アルフレッドはゆっくりと左手を挙げ、聖堂の入り口へと向けて、冷酷にその指を振り下ろした。

「――ヴァレンティ家一族、およびエレオノーラ・ヴァレンティを、国家反逆、ならびに最高軍事機密侵犯の罪を以て、現行犯で捕縛せよ」

王子の、低く、威厳に満ちた声が、大聖堂の全域に厳烈に響き渡った。

「――な、何を……おっしゃっているのですか、アルフレッド殿下……?」

エレオノーラの端正な顔が、見たこともないほど歪に強張った。
耳に飛び込んできた「国家反逆」「最高軍事機密侵犯」という言葉の意味が、目の前の白銀の衣装を纏う婚約者と結びつかない。
突然のことに脳の処理が追いつかず、世界が白昼夢のようにぐにゃりと歪む。
周囲の参列席からは、水を打ったような静寂のあと、地鳴りのようなざわめきが沸き起こっていた。
特に前列に陣取っていたヴァレンティ家の当主エレオノーラの父親は、あまりの衝撃に顔を真っ白にして立ち上がっている。

「冗談、ですわよね……? 冗談が過ぎますわ、殿下。今日は私たちの、世界で一番祝福されるべき婚礼の……っ」
「黙れ、テロリスト」

アルフレッドの声には、微塵の揺らぎもなかった。
ただただ冷酷に、吐き捨てるようにエレオノーラを断罪する。

「殿下……ッ!?」
「私を欺き、王族の紋章を不正に利用して軍の最高指揮官たるアルヴィーノの私室へ侵入した。婚礼前夜という国家最高警戒期におけるその挙動は、我が国の防衛中枢を揺るがす明白な軍事スカンダルであり、テロ行為だ。異論はあるか、エレオノーラ」
「そ、それは……! 私はただ、従者の者にドレスを届けようと……っ」
「その中身の無い、空っぽの衣箱でか?」

アルフレッドの青い瞳が、鋭い刃となってエレオノーラを突き刺した。

「すべては、私の右腕が覚えている。我が結界のマスターキーを、貴様の卑劣な欺瞞によって開けさせた。国家最高機密への侵犯の罪は、貴様一人の首だけでは到底購えん。――近衛兵、何をもたもたしている。早くその犯罪者を引きずり下ろせ」

その冷徹な命令とともに、聖堂の両翼から鉄靴の音を激しく響かせ、重武装の近衛兵たちが一斉に祭壇へと突入してきた。

「嫌……! 触らないで! 私は未来の王妃よ! 私がこの国の新しい光になるのよ……っ!」

近衛兵たちの太い腕が、エレオノーラの純白のウェディングドレスを容赦なく掴み、床へと押し伏せる。
完璧に整えられていた赤髪は乱れ、豪奢なベールは無惨に引きちぎられて大理石の床へと転がった。
聖母のようだった微笑みは完全に消失し、恐怖と激昂に血走った黄緑色の瞳が、醜くアルフレッドを睨みつける。

「アルフレッド!! あなた正気なの!? 私を誰だと思っているのよ! ヴァレンティ家を敵に回して、この国が保つと思っているの!?」
「保つさ。いや、むしろ癌細胞を取り除けて、我が国はより強固になる」

アルフレッドは冷たく見下ろしたまま、一歩も動かない。
その横では、ヴァレンティ家の当主一族もまた、次々と近衛兵たちによって組み伏せられ、絶望の叫びを上げていた。
国内外の貴族たちの前での、これ以上ない完璧な公開処刑だった。
だが、エレオノーラを真の絶望へと突き落としたのは、祭壇のすぐ下に佇む、もう一人の男の視線だった。
漆黒の軍服を纏ったアルヴィーノが、ゆっくりと彼女の前に歩み寄ってくる。
その背後には、彼の手によって密かに配置されていた、血の匂いを放つ第一魔導部隊の面々が、いつでも聖堂ごとすべてを塵に還せる陣形で控えていた。
アルヴィーノは、泥を這う蟲を見るかのような絶対零度の瞳で、床に組み敷かれたエレオノーラを見下ろした。

「……私の部屋で、ルミに言いましたね。『その薄汚い手で挨拶なんて気安く触るな、ガラス玉』と」
「あ、アル、ヴィーノ様……っ」
「ガラス玉は、貴様の方だ、エレオノーラ・ヴァレンティ。……ルミの流した涙の数だけ、貴様の一族の肉を、国法の下に合法的に削ぎ落としてやる。死ぬより凄惨な地獄を、その身で味わうといい」

冷たく、けれど確実な死を告げる魔王の宣告。
エレオノーラは、自分が昨晩犯した「一従者への八つ当たり」が、まさか自分の未来だけでなく、ヴァレンティ家という大貴族そのものを跡形もなく破滅させるギロチンの刃を引いたのだと、この瞬間になってようやく理解した。

「ああ、ああぁぁぁぁっ……! 嫌、嫌よおぉぉぉっ!!」

純白のドレスを泥と涙で汚しながら、エレオノーラは絶叫し、引きずられるようにして大聖堂の祭壇から排除されていった。
鳴り響く叫び声と、一族の絶望の悲鳴。
大聖堂のステンドグラスから降り注ぐ光は、罪人を照らす冷徹な審判の光へと、完全にその色を変えていた。
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