主と従者の檻に、世界で一番甘い誓いを
大陸の覇者となった大国の第一王子アルフレッドの婚礼。
それは実質的に、新国王の誕生を世界に知らしめる国家最大の儀式であった。
政情が激変するこの瞬間こそ、国内外の反乱分子や敗戦国の残党が最も暗躍しやすい「最大の隙」となる。
婚礼の儀を無事に遂行することは、今や国力そのものの証明でもあった。
ゆえに、軍の最高幹部会議は、夜が更けてもなお終わる気配を見せなかった。
「――主会場の東翼、および外壁の結界基部には、我が直属の第一魔導部隊をさらに二班増員する。婚礼当日の警備に万が一の『妥協』もあってはならない」
軍議室の最奥、重厚な長机の端に座るアルヴィーノの声が、冷徹に響き渡る。
卓上に広げられた巨大な王城の防衛マップを紫の瞳で見下ろしながら、彼は一切の隙を許さない完璧な警備陣形を次々と指示していった。
各国からの使節の座席配置、暗殺を警戒した検食のルート、魔力妨害結界の範囲修正――。
新しい王の誕生という重大な節目だからこそ、確認すべき項目は山積しており、議論は遅々として進まない。
時計の針が幾度も巡り、他の将軍たちが疲弊の色を隠せなくなる中、アルヴィーノだけは背筋を正し、冷徹な軍師の仮面を崩さずに任務を遂行し続けていた。
だが、どれほど思考を研ぎ澄ませていようとも、彼の胸の奥には、夕刻から拭いきれない奇妙な焦燥感が冷たく居座り続けていた。
(……ルミ。大人しく待っていられているでしょうか)
部屋には、自分の魔力を限界まで注ぎ込んだ絶対無敵の結界を施してある。
高等宮廷魔術師が束になってかかろうが、破ることも近づくことも不可能な、完璧な聖域だ。
ルミ自身も、今回はちゃんと言いつけを守ると約束してくれた。
頭では分かっている。安全だ、と。
だが、国中が婚礼の熱狂に浮かされ、正気を失っているこの状況そのものが、アルヴィーノの直感を不穏に逆撫でしていた。
「――以上で、防衛線の再編を完了とします。各員、明朝までに配置に就くように」
深く刻まれた夜の闇の中、ようやく全ての議案が片付き、アルヴィーノは長きにわたる会議から解放された。
将軍たちの拝礼を背中で受け流しながら、彼は軍議室を後にする。
重い執務服の肩を僅かに揺らし、いつもなら崩さない歩調を、無意識のうちに速めていた。
長い回廊を行き交う使用人たちの数は、深夜だというのに挙式の準備で一向に減らない。
その浮ついた喧騒から逃れるように、アルヴィーノは自らの私室がある階へと急いだ。
ようやく、見慣れた重厚な扉の前に辿り着く。
だが、その場に足を止めた瞬間、アルヴィーノの全身の血が凍りついた。
「……結界が、消えている……?」
扉の表面に揺らめいているはずの、彼自身の紫の魔力の残滓が、完全に消失していた。
あり得ない。
力ずくで破られた形跡の衝撃波も、魔力を相殺された反動の痛みも、術者であるアルヴィーノには一切届いていなかった。
まるで、最初からそこに結界など存在しなかったかのように、内側から、あるいは正当な手段で「解かれた」ような不気味な静寂。
最悪の予感が脳髄を突き抜けた。
「ルミ……!」
アルヴィーノは礼儀も忘れ、乱暴に扉を押し開けて室内へと踏み込んだ。
「――っ、ぁ、う……、う、ぅ……」
耳に飛び込んできたのは、部屋の奥から聞こえる、胸を締め付けるような小さな、けれど絶望に満ちた咽び泣きだった。
室内の空気は完全に冷え切っていた。
チェストは荒らされ、床には無数の美しいスパンコールが、まるで引きちぎられた星のように無惨に飛び散っている。
そしてその中心に小さな身体をこれ以上ないほど丸めて蹲っているルミの姿があった。
ルミの頬は赤黒く腫れ上がり、着ている衣服のあちこちには、容赦なく踏みにじられたような、生々しい靴の泥汚れがいくつも付着している。
ボロボロになったその小さな両手は、ズタズタに切り裂かれ、もはや原型すら留めていない、あの淡い水色のドレスの残骸を、壊れ物を扱うように必死にかき集め、抱きしめていた。
「ルミ……!?」
アルヴィーノは呆然と立ち尽くした。
稀代の軍師として、あらゆる戦況を予測し、完璧な策を弄してきた男の思考が、目の前の凄惨な光景を前にして完全に停止する。
どうして。なぜ、こんなことが起きている?
ルミを襲った形跡。
部屋の惨状。
そして、命よりも大切に保管していたはずの、あのドレスの無惨な姿。
状況が全く呑み込めず、アルヴィーノの紫の瞳は激しく動揺に揺れた。
「アル、ヴィーノ……さま……っ」
扉の音に気づき、ルミがゆっくりと顔を上げた。
水色の瞳は涙で完全に濡れそぼり、腫れ上がった頬を歪めながら、痛む身体を引きずるようにしてアルヴィーノを見上げる。
「アルヴィーノ様、ごめんなさい……っ、ごめんなさい、おれ……ちゃんと、お部屋にいた、のに……約束、守ったのに……っ」
ルミはボロボロと大粒の涙を流しながら、引き裂かれた水色の布切れを、差し出すようにして必死に声を絞り出した。
「これ……アルヴィーノ様がくれた、大事なドレス……おれ、殴られても、蹴られても、痛くなかった、けど……っ。これだけは、守りたかったのに……っ、あの人が、ハサミで……全部、ボロボロに……っ。ごめんなさい……っ、う、ぅあ……っ」
しゃくり上げ、過呼吸になりそうなほどに胸を詰まらせながら、ルミは必死に状況を説明しようとする。
痛みに慣れているはずのこの子が、自分の怪我のことなど一言も口にせず、ただドレスを守れなかったことだけを、罪人のように泣いて謝っている。
その悲痛な訴えが、アルヴィーノの胸を鋭く抉った。
ルミの言葉から、断片的な事実がアルヴィーノの脳内で繋がり始める。
『約束を守って部屋にいた』。
そして、『あの人』がハサミでドレスを切り裂いた。
だが、そもそも、自分の結界を素通りしてこの部屋に入れる人間など、この世に一人しか存在しない。
力で破られたのではない。
ならば、結界の鍵を「内側から開けた」者がいる。
アルヴィーノの脳裏に、昼間、自分が漏らした苦々しい言葉が鮮烈に蘇った。
『あの兄上は、一体何をしているのか……』
「……兄上」
アルヴィーノの口から、地を這うような、低く掠れた声が漏れた。
疑うことを知らない、あの愚直なまでに純粋な実の兄、アルフレッド。
あの男が、婚礼のドタバタの中でエレオノーラに請われるがまま、何一つ疑わずにこの部屋の結界を解き、あの雌狐をルミの前に招き入れたのだ。
兄のあの「無垢な善意」が、エレオノーラの「醜悪な悪意」の踏み台にされ、自分の聖域を、ルミの心を、これほどまでに無惨に踏みにじる結果を招いた。
事の真相を完全に理解した瞬間。
アルヴィーノの足元から、大気が激しく軋むような、絶対零度の「魔力」が、静かに、けれど狂気的な密度で染み出し始めた。
それは実質的に、新国王の誕生を世界に知らしめる国家最大の儀式であった。
政情が激変するこの瞬間こそ、国内外の反乱分子や敗戦国の残党が最も暗躍しやすい「最大の隙」となる。
婚礼の儀を無事に遂行することは、今や国力そのものの証明でもあった。
ゆえに、軍の最高幹部会議は、夜が更けてもなお終わる気配を見せなかった。
「――主会場の東翼、および外壁の結界基部には、我が直属の第一魔導部隊をさらに二班増員する。婚礼当日の警備に万が一の『妥協』もあってはならない」
軍議室の最奥、重厚な長机の端に座るアルヴィーノの声が、冷徹に響き渡る。
卓上に広げられた巨大な王城の防衛マップを紫の瞳で見下ろしながら、彼は一切の隙を許さない完璧な警備陣形を次々と指示していった。
各国からの使節の座席配置、暗殺を警戒した検食のルート、魔力妨害結界の範囲修正――。
新しい王の誕生という重大な節目だからこそ、確認すべき項目は山積しており、議論は遅々として進まない。
時計の針が幾度も巡り、他の将軍たちが疲弊の色を隠せなくなる中、アルヴィーノだけは背筋を正し、冷徹な軍師の仮面を崩さずに任務を遂行し続けていた。
だが、どれほど思考を研ぎ澄ませていようとも、彼の胸の奥には、夕刻から拭いきれない奇妙な焦燥感が冷たく居座り続けていた。
(……ルミ。大人しく待っていられているでしょうか)
部屋には、自分の魔力を限界まで注ぎ込んだ絶対無敵の結界を施してある。
高等宮廷魔術師が束になってかかろうが、破ることも近づくことも不可能な、完璧な聖域だ。
ルミ自身も、今回はちゃんと言いつけを守ると約束してくれた。
頭では分かっている。安全だ、と。
だが、国中が婚礼の熱狂に浮かされ、正気を失っているこの状況そのものが、アルヴィーノの直感を不穏に逆撫でしていた。
「――以上で、防衛線の再編を完了とします。各員、明朝までに配置に就くように」
深く刻まれた夜の闇の中、ようやく全ての議案が片付き、アルヴィーノは長きにわたる会議から解放された。
将軍たちの拝礼を背中で受け流しながら、彼は軍議室を後にする。
重い執務服の肩を僅かに揺らし、いつもなら崩さない歩調を、無意識のうちに速めていた。
長い回廊を行き交う使用人たちの数は、深夜だというのに挙式の準備で一向に減らない。
その浮ついた喧騒から逃れるように、アルヴィーノは自らの私室がある階へと急いだ。
ようやく、見慣れた重厚な扉の前に辿り着く。
だが、その場に足を止めた瞬間、アルヴィーノの全身の血が凍りついた。
「……結界が、消えている……?」
扉の表面に揺らめいているはずの、彼自身の紫の魔力の残滓が、完全に消失していた。
あり得ない。
力ずくで破られた形跡の衝撃波も、魔力を相殺された反動の痛みも、術者であるアルヴィーノには一切届いていなかった。
まるで、最初からそこに結界など存在しなかったかのように、内側から、あるいは正当な手段で「解かれた」ような不気味な静寂。
最悪の予感が脳髄を突き抜けた。
「ルミ……!」
アルヴィーノは礼儀も忘れ、乱暴に扉を押し開けて室内へと踏み込んだ。
「――っ、ぁ、う……、う、ぅ……」
耳に飛び込んできたのは、部屋の奥から聞こえる、胸を締め付けるような小さな、けれど絶望に満ちた咽び泣きだった。
室内の空気は完全に冷え切っていた。
チェストは荒らされ、床には無数の美しいスパンコールが、まるで引きちぎられた星のように無惨に飛び散っている。
そしてその中心に小さな身体をこれ以上ないほど丸めて蹲っているルミの姿があった。
ルミの頬は赤黒く腫れ上がり、着ている衣服のあちこちには、容赦なく踏みにじられたような、生々しい靴の泥汚れがいくつも付着している。
ボロボロになったその小さな両手は、ズタズタに切り裂かれ、もはや原型すら留めていない、あの淡い水色のドレスの残骸を、壊れ物を扱うように必死にかき集め、抱きしめていた。
「ルミ……!?」
アルヴィーノは呆然と立ち尽くした。
稀代の軍師として、あらゆる戦況を予測し、完璧な策を弄してきた男の思考が、目の前の凄惨な光景を前にして完全に停止する。
どうして。なぜ、こんなことが起きている?
ルミを襲った形跡。
部屋の惨状。
そして、命よりも大切に保管していたはずの、あのドレスの無惨な姿。
状況が全く呑み込めず、アルヴィーノの紫の瞳は激しく動揺に揺れた。
「アル、ヴィーノ……さま……っ」
扉の音に気づき、ルミがゆっくりと顔を上げた。
水色の瞳は涙で完全に濡れそぼり、腫れ上がった頬を歪めながら、痛む身体を引きずるようにしてアルヴィーノを見上げる。
「アルヴィーノ様、ごめんなさい……っ、ごめんなさい、おれ……ちゃんと、お部屋にいた、のに……約束、守ったのに……っ」
ルミはボロボロと大粒の涙を流しながら、引き裂かれた水色の布切れを、差し出すようにして必死に声を絞り出した。
「これ……アルヴィーノ様がくれた、大事なドレス……おれ、殴られても、蹴られても、痛くなかった、けど……っ。これだけは、守りたかったのに……っ、あの人が、ハサミで……全部、ボロボロに……っ。ごめんなさい……っ、う、ぅあ……っ」
しゃくり上げ、過呼吸になりそうなほどに胸を詰まらせながら、ルミは必死に状況を説明しようとする。
痛みに慣れているはずのこの子が、自分の怪我のことなど一言も口にせず、ただドレスを守れなかったことだけを、罪人のように泣いて謝っている。
その悲痛な訴えが、アルヴィーノの胸を鋭く抉った。
ルミの言葉から、断片的な事実がアルヴィーノの脳内で繋がり始める。
『約束を守って部屋にいた』。
そして、『あの人』がハサミでドレスを切り裂いた。
だが、そもそも、自分の結界を素通りしてこの部屋に入れる人間など、この世に一人しか存在しない。
力で破られたのではない。
ならば、結界の鍵を「内側から開けた」者がいる。
アルヴィーノの脳裏に、昼間、自分が漏らした苦々しい言葉が鮮烈に蘇った。
『あの兄上は、一体何をしているのか……』
「……兄上」
アルヴィーノの口から、地を這うような、低く掠れた声が漏れた。
疑うことを知らない、あの愚直なまでに純粋な実の兄、アルフレッド。
あの男が、婚礼のドタバタの中でエレオノーラに請われるがまま、何一つ疑わずにこの部屋の結界を解き、あの雌狐をルミの前に招き入れたのだ。
兄のあの「無垢な善意」が、エレオノーラの「醜悪な悪意」の踏み台にされ、自分の聖域を、ルミの心を、これほどまでに無惨に踏みにじる結果を招いた。
事の真相を完全に理解した瞬間。
アルヴィーノの足元から、大気が激しく軋むような、絶対零度の「魔力」が、静かに、けれど狂気的な密度で染み出し始めた。
