主と従者の檻に、世界で一番甘い誓いを

「な、に……これ……」

足元に投げ捨てられた豪奢な衣箱。
その蓋の隙間から覗くのは、冷徹な虚無だけだった。
美しく畳まれたシルクも、華やかなレースも、そこには何一つ入っていない。
先ほどまで室内に満ちていた穏やかな空気は、まるで幻だったかのように完全に消失していた。
ルミは突然の事態に思考が追いつかず、おどおどと水色の瞳を震わせ、目の前の美女の顔を見つめることしかできなかった。

「本当に耳障りな口調。従者の分際で、アルフレッド殿下の前でそんな風に甘やかされて……見ているだけで虫唾が走るわ」

エレオノーラは冷酷に言い放つと、顎で傍らの侍女に指示を出した。

「おい。あの忌々しい舞踏会のドレスを探しなさい。あいつがこの部屋のどこかに、これ見よがしに仕舞い込んでいるはずよ」
「は、はい、エレオノーラ様」

侍女がすぐさま室内のクローゼットやチェストを荒々しく物色し始める。
その様子に、ルミはハッと我に返った。
アルヴィーノの言いつけを守れなかったことへの恐怖。
そして何より、あの夜にアルヴィーノが自分だけのために贈ってくれた、世界で一番大切なドレスが危機に瀕していることを本能的に悟ったのだ。

「ま、待って、触らないで……! そこはアルヴィーノ様の大事な……っ」

ルミが慌てて侍女を止めようと手を伸ばした、その瞬間だった。

「気安く動くんじゃないわよ、ガラス玉が」

鋭い風切り音とともに、硬質な骨組みの高級な扇子が、容赦なくルミの横顔に向けて振り抜かれた。
室内に肉を切る生々しい音が響き渡る。

「うあ……っ!?」

強い衝撃とともに、ルミの小さな身体は容易く床へと弾き飛ばされた。
じりじりと焼けるような痛みが頬を襲い、視界が歪む。
かつていた冷酷な研究所での日々、そしてあのガルニディアの地で宰相らから受けた容赦のない折檻。
ルミの身体は、すでに数々の酷い暴力を知っていた。
だからこそ、床に打ち付けられた激痛に対しても、悲鳴を上げて取り乱すことはない。
痛みを堪える術を、ルミは身を以て知ってしまっていたから。
何が起きたのかを瞬時に理解し、じっと息を潜めて、恐怖と警戒の混じる水色の瞳でエレオノーラを見上げる。
だが、エレオノーラの狂気はそれだけでは収まらない。
床に倒れ込み、声を殺して痛みに耐えるルミの態度が、逆に彼女の苛立ちをさらに煽った。

「なによその目は。私が悪いとでも言いたげね。お前のような身の程知らずは、こうして徹底的に分からせてあげなければならないのよ!」

ドレスの裾を翻しながら、エレオノーラは容赦なくそのヒールの先で、床に伏せるルミの脇腹を激しく蹴り上げた。

「がはっ……、ぅ、あ……!」
「この、薄汚い寄生虫が! お前さえいなければ、私が一番だったのに! 私が、この国で一番美しく輝くはずだったのに……!」

言葉を吐き出すたびに、何度も、何度も、容赦のない蹂ーがルミの身体を襲う。
背中、肩、腕。
ルミは必死に頭を抱え、小さな身体を丸めて耐えるしかなかった。
肉体の痛みには慣れているはずだった。
けれど、アルヴィーノのいない密室で、未来の王妃という絶対的な権力を前に、ただの従者であるルミには抵抗する術など何一つない。
呼吸をするたびに肋骨の奥が悲鳴を上げる。

「エレオノーラ様! ありました、これです!」

不意に、部屋の奥から侍女の鋭い声が上がった。
その手には、あの夜、大広間の中心で誰よりも眩く光を放っていた最高級のシルクで仕立てられた、淡い水色の美しいドレスが握られていた。

「よくやったわ。……さあ、それを持ってきなさい」

エレオノーラはルミを蹴るのを止め、ひどく冷酷な笑みを浮かべて侍女から大きな裁ちハサミを受け取った。

「嫌、だ……。やめて、それ、は……っ。アルヴィーノ様が、くれた、大事な……っ!」

その瞬間、ルミの顔から完全に血の気が引いた。
これまで受けたどんな肉体的暴力の記憶よりも、目の前の光景がルミの心を絶望で締め付ける。
激痛に震える身体を引きずりながら、床を這い、必死に手を伸ばした。
自分がどれだけ殴られ、蹴られようが構わなかった。
けれど、あのドレスだけは、アルヴィーノの想いが詰まったあの宝物だけは、絶対に傷つけられてはならない。
だが、その必死の願いを、エレオノーラは嘲笑うかのように踏みにじった。
硬い刃が上質な布地を容赦なく引き裂く、絶望的な音が室内に響き渡る。
美しいレースが引きちぎられ、しなやかなシルクの袖が切り落とされ、無数のスパンコールが床に虚しく飛び散っていく。
エレオノーラは狂気に満ちた歪んだ笑みを浮かべ、何度も、何度もハサミを動かし続けた。
かつて世界で一番美しかったドレスは、一瞬にして、見るも無惨な布切れの山へと成り果てていく。

「あっ……」

どんな暴力を受けても涙を堪えてきたルミの瞳から、ついに決壊したように涙が止めどなく溢れ出した。
声を枯らし、ただ助けを求めるようにその名を呼びながら、ボロボロと涙を流す。
肉体の傷など比べものにならないほどの、深い裂傷がルミの心に刻まれていた。

「ほぉら、お前の大好きなドレスよ? 精々お似合いだわ、拾い集めなさい!」

エレオノーラは、切り刻み終えた水色の残骸を、床に倒れるルミの頭上へと乱暴に投げつけた。
ルミの視界が、ズタズタになった水色の布地で覆われる。
目的を果たしたエレオノーラは、満足げに鼻で笑うと、ボロボロになった部屋と、ドレスの残骸を抱きしめて咽び泣くルミを一瞥し、冷酷に部屋を去っていった。
重々しい扉が閉まり、再び静寂が戻った部屋。
ルミは、打ち付けられた身体の激痛に耐えながら、引き裂かれた水色のシルクを、壊れ物を扱うように小さな両手で必死にかき集めた。

「う、ぅあ……、アルヴィーノ様……ごめんなさい……っ、ごめ、んなさい……っ」

冷たい床の上で、ルミはズタズタのドレスを抱きしめ、声を震わせて、ただ静かに泣き続けるしかなかった。
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