主と従者の檻に、世界で一番甘い誓いを
婚礼を明日に控えたその日の昼前。
アルヴィーノが軍の最高幹部会議へ出席し、絶対に部屋を空けられない時間を見計らったかのように、主城の最上階にある彼の私室の前へ、二つの人影が近づいていた。
一人は、この国の象徴たる第一王子アルフレッド。
そしてもう一人は、純白の豪奢な衣装に身を包み、大きな仕立て箱を侍女に持たせたエレオノーラだった。
「エレオノーラ、本当にアルヴィーノの部屋に用事なのかい? 彼は今、重要な会議で留守のはずだが……」
不思議そうに首を傾げるアルフレッドの瞳には、微かな困惑が浮かんでいた。
いくら彼であっても、先日の舞踏会でエレオノーラがルミに向けていた、あの凍りつくような冷ややかな視線には気づいていたのだ。
彼女がルミを快く思っていないことくらいは、おぼろげながら察している。
だからこそ、彼女が自ら「ルミに会いに行きたい」と言い出したことが、奇妙で仕方がなかった。
すると、エレオノーラはふっと視線を伏せ、まるで己の過ちを恥じるかのように、ひどくしおらしい態度でアルフレッドを見上げた。
「ええ、アルフレッド殿下。……先の舞踏会では、私、あまりに突然のことに戸惑ってしまい、あの可愛らしいルミ様に対して、少し冷たい態度をとってしまったおそれがありますの。それがずっと心残りで……」
エレオノーラは胸元でちいさく手を合わせ、健気な笑みを浮かべる。
「あの方は本当に、王宮の中でも際立って可愛らしいお方ですわ。だから、明日の婚礼の前に、私からお詫びとお祝いの気持ちを込めて、あの方に一番似合う特別なドレスを仕立てさせましたの。どうか、直接お渡しして、仲良くなるきっかけをいただけないかしら……?」
「エレオノーラ……! 君は、ルミくんと仲良くしようとしてくれているんだね!」
その言葉を聞いた瞬間、アルフレッドの顔に、一点の曇りもない歓喜の微笑みが弾けた。
疑うことを知らない彼にとって、「愛する婚約者」と「大切な弟の愛しい従者」が和解し、手を取り合うというシチュエーションは、この上ない幸福の極みだった。
「それなら大歓迎だよ! アルヴィーノの部屋には、彼が掛けた非常に強力な防御結界があるけれど、僕の王族の紋章なら通ることができる。さあ、一緒に行こう!」
アルフレッドは大喜びで、アルヴィーノの部屋の扉を優しく、そして完全に無効化して開いた。
部屋の中では、アルヴィーノの言いつけを健気に守り、静かにお留守番をしていたルミが、扉の開く音に驚いて水色の瞳を丸くした。
「アルフレッド様……? それと、えっと……」
入ってきたアルフレッドの姿にほっとしたのも束の間、その後ろから現れた豪華絢爛な美女の姿に、ルミはちいさな首を傾げた。
先の舞踏会で見かけたはずなのだが、あまりに自分とは住む世界が違いすぎる高貴な存在であるため、名前がどうしても思い出せずに悩んでしまう。
するとエレオノーラは、アルフレッドの背後からすっと歩み出て、まるで聖母のように優しい、完璧に作り込まれた微笑みを浮かべて名乗った。
「初めまして、と言った方がよろしいかしら。私はエレオノーラ・ヴァレンティ。アルフレッド殿下の婚約者です。よろしくね、ルミ様」
「ヴァレンティ――」
その姓が耳に飛び込んできた瞬間、ルミの脳裏に、先ほどアルヴィーノが真剣な顔で言った言葉が鮮烈に蘇った。
『特に、ヴァレンティ家の息がかかった者たちからの呼び出しには、絶対に、私を通さずに応じてはならない』
(あ……! この人、アルヴィーノ様が言ってた、ヴァレンティ家の人だ……!)
ルミの背中に、冷たい汗がドッと吹き出す。アルヴィーノにあれほど固く念を押されていた相手が、今、目の前にいる。
「ちゃんとアルヴィーノ様の言うことを聞く」と心に決めていたルミは、すぐに水色の瞳を泳がせ、一歩後ろに下がった。
「あの、お、俺、ルミです……。えっと、アルフレッド様、あの……! 俺、アルヴィーノ様に言わなきゃいけないことがあって、今からアルヴィーノ様のところに行ってきてもいいですか……?」
この場から離れなきゃ、アルヴィーノ様に報告しなきゃ。
ルミは必死にそう訴えようとした。
しかし、そのルミの小さな抵抗を、アルフレッドが眩いばかりの笑顔で包み込んでしまう。
「ああ、ルミくん、心配しなくていいよ!」
アルフレッドはルミの緊張をただの「緊張」だと受け取り、安心させるように優しく微笑んだ。
「アルヴィーノなら今、大事な会議中だから邪魔をしては悪いよ。それにね、エレオノーラは君を呼び出そうとしたわけじゃないんだ。先の舞踏会のことをずっと心残りにしていてね、君に一番似合う特別なドレスを仕立てて、仲良くなりたいと自らここまで来てくれたんだよ。ね、エレオノーラ?」
「ええ、そうですわ」
アルフレッドの言葉に合わせ、エレオノーラは微塵の曇りもない極上の笑みを浮かべる。
「ここまでアルフレッド殿下に無理をお願いして、案内していただいたのです。ルミ様、私と仲良くしていただけないかしら?」
「あ……」
アルフレッド様が問題ないと言っている。
彼女は呼び出したわけじゃなく、俺と仲良くしたいだけなんだ、と一点の曇りもない瞳で言われてしまえば、ただの従者であるルミにそれ以上拒む権利などなかった。
アルヴィーノの結界がこうしてアルフレッドの手で開かれていることも、ルミの不安をすり抜けさせてしまう。
「あ、はいっ……! よろしくお願いします、エレオノーラ様……」
ルミは戸惑いながらも、精一杯の礼儀を交えてぺこりと頭を下げた。
「うん、うん! 二人がそうやって仲良くしてくれるなら、僕は本当に嬉しいよ。明日からの我が国は、もっと素晴らしい場所になるね」
二人のやり取りを、アルフレッドは心の底から満足そうに、ニコニコとした笑顔で見守っていた。
だが、そのあまりにも平和に見える空間を切り裂くように、部屋の開け放たれた扉を、一人の息を切らした側近が激しく叩いた。
「アルフレッド殿下! 申し訳ありません、至急、確認していただきたい儀礼の不備が見つかりました! 大至急、本営までお越しください!」
「何だって……? すまない、エレオノーラ、ルミ。少し席を外さなければならなくなった」
アルフレッドは名残惜しそうに、けれど完璧な次期国王としての義務を果たすため、すぐに翻った。
「後でまたすぐに戻ってくるから、二人で仲良くお茶でも淹れて待っていておくれ」
そう言い残し彼は、背後に残されたドロドロとした悪意の深淵に気がつくこともなく、風のように部屋を去っていった。
パタン、と。
再びアルフレッドの手によって扉が閉じられ、完全に「密室」となった私室。
アルフレッドの足音が廊下の向こうへ完全に消え去った、その刹那だった。
「――ふん」
エレオノーラの口から、酷く冷たく、傲慢な鼻笑いが漏れた。
先ほどまで浮かべていた聖母のような微笑みは、蝋燭の火を吹き消すよりも容易く消え失せ、その暗い黄緑色の瞳には剥き出しの、そしておぞましいほどの嫉妬と蔑みがギラギラと狂気に脈打ちはじめる。
「よくもまぁ、あんな腑抜けた王子を綺麗に騙せたものね。……おい、その薄汚い手で、私に挨拶なんて気安く触るんじゃないわよ、ガラス玉」
エレオノーラは、侍女が持っていた大きな仕立て箱を、ルミの足元へ容赦なく投げ捨てた。
ドサリ、と重い音を立てて転がった箱の蓋が開き、中から溢れ出たのは何も入っていない、虚無の空間だけだった。
アルヴィーノが軍の最高幹部会議へ出席し、絶対に部屋を空けられない時間を見計らったかのように、主城の最上階にある彼の私室の前へ、二つの人影が近づいていた。
一人は、この国の象徴たる第一王子アルフレッド。
そしてもう一人は、純白の豪奢な衣装に身を包み、大きな仕立て箱を侍女に持たせたエレオノーラだった。
「エレオノーラ、本当にアルヴィーノの部屋に用事なのかい? 彼は今、重要な会議で留守のはずだが……」
不思議そうに首を傾げるアルフレッドの瞳には、微かな困惑が浮かんでいた。
いくら彼であっても、先日の舞踏会でエレオノーラがルミに向けていた、あの凍りつくような冷ややかな視線には気づいていたのだ。
彼女がルミを快く思っていないことくらいは、おぼろげながら察している。
だからこそ、彼女が自ら「ルミに会いに行きたい」と言い出したことが、奇妙で仕方がなかった。
すると、エレオノーラはふっと視線を伏せ、まるで己の過ちを恥じるかのように、ひどくしおらしい態度でアルフレッドを見上げた。
「ええ、アルフレッド殿下。……先の舞踏会では、私、あまりに突然のことに戸惑ってしまい、あの可愛らしいルミ様に対して、少し冷たい態度をとってしまったおそれがありますの。それがずっと心残りで……」
エレオノーラは胸元でちいさく手を合わせ、健気な笑みを浮かべる。
「あの方は本当に、王宮の中でも際立って可愛らしいお方ですわ。だから、明日の婚礼の前に、私からお詫びとお祝いの気持ちを込めて、あの方に一番似合う特別なドレスを仕立てさせましたの。どうか、直接お渡しして、仲良くなるきっかけをいただけないかしら……?」
「エレオノーラ……! 君は、ルミくんと仲良くしようとしてくれているんだね!」
その言葉を聞いた瞬間、アルフレッドの顔に、一点の曇りもない歓喜の微笑みが弾けた。
疑うことを知らない彼にとって、「愛する婚約者」と「大切な弟の愛しい従者」が和解し、手を取り合うというシチュエーションは、この上ない幸福の極みだった。
「それなら大歓迎だよ! アルヴィーノの部屋には、彼が掛けた非常に強力な防御結界があるけれど、僕の王族の紋章なら通ることができる。さあ、一緒に行こう!」
アルフレッドは大喜びで、アルヴィーノの部屋の扉を優しく、そして完全に無効化して開いた。
部屋の中では、アルヴィーノの言いつけを健気に守り、静かにお留守番をしていたルミが、扉の開く音に驚いて水色の瞳を丸くした。
「アルフレッド様……? それと、えっと……」
入ってきたアルフレッドの姿にほっとしたのも束の間、その後ろから現れた豪華絢爛な美女の姿に、ルミはちいさな首を傾げた。
先の舞踏会で見かけたはずなのだが、あまりに自分とは住む世界が違いすぎる高貴な存在であるため、名前がどうしても思い出せずに悩んでしまう。
するとエレオノーラは、アルフレッドの背後からすっと歩み出て、まるで聖母のように優しい、完璧に作り込まれた微笑みを浮かべて名乗った。
「初めまして、と言った方がよろしいかしら。私はエレオノーラ・ヴァレンティ。アルフレッド殿下の婚約者です。よろしくね、ルミ様」
「ヴァレンティ――」
その姓が耳に飛び込んできた瞬間、ルミの脳裏に、先ほどアルヴィーノが真剣な顔で言った言葉が鮮烈に蘇った。
『特に、ヴァレンティ家の息がかかった者たちからの呼び出しには、絶対に、私を通さずに応じてはならない』
(あ……! この人、アルヴィーノ様が言ってた、ヴァレンティ家の人だ……!)
ルミの背中に、冷たい汗がドッと吹き出す。アルヴィーノにあれほど固く念を押されていた相手が、今、目の前にいる。
「ちゃんとアルヴィーノ様の言うことを聞く」と心に決めていたルミは、すぐに水色の瞳を泳がせ、一歩後ろに下がった。
「あの、お、俺、ルミです……。えっと、アルフレッド様、あの……! 俺、アルヴィーノ様に言わなきゃいけないことがあって、今からアルヴィーノ様のところに行ってきてもいいですか……?」
この場から離れなきゃ、アルヴィーノ様に報告しなきゃ。
ルミは必死にそう訴えようとした。
しかし、そのルミの小さな抵抗を、アルフレッドが眩いばかりの笑顔で包み込んでしまう。
「ああ、ルミくん、心配しなくていいよ!」
アルフレッドはルミの緊張をただの「緊張」だと受け取り、安心させるように優しく微笑んだ。
「アルヴィーノなら今、大事な会議中だから邪魔をしては悪いよ。それにね、エレオノーラは君を呼び出そうとしたわけじゃないんだ。先の舞踏会のことをずっと心残りにしていてね、君に一番似合う特別なドレスを仕立てて、仲良くなりたいと自らここまで来てくれたんだよ。ね、エレオノーラ?」
「ええ、そうですわ」
アルフレッドの言葉に合わせ、エレオノーラは微塵の曇りもない極上の笑みを浮かべる。
「ここまでアルフレッド殿下に無理をお願いして、案内していただいたのです。ルミ様、私と仲良くしていただけないかしら?」
「あ……」
アルフレッド様が問題ないと言っている。
彼女は呼び出したわけじゃなく、俺と仲良くしたいだけなんだ、と一点の曇りもない瞳で言われてしまえば、ただの従者であるルミにそれ以上拒む権利などなかった。
アルヴィーノの結界がこうしてアルフレッドの手で開かれていることも、ルミの不安をすり抜けさせてしまう。
「あ、はいっ……! よろしくお願いします、エレオノーラ様……」
ルミは戸惑いながらも、精一杯の礼儀を交えてぺこりと頭を下げた。
「うん、うん! 二人がそうやって仲良くしてくれるなら、僕は本当に嬉しいよ。明日からの我が国は、もっと素晴らしい場所になるね」
二人のやり取りを、アルフレッドは心の底から満足そうに、ニコニコとした笑顔で見守っていた。
だが、そのあまりにも平和に見える空間を切り裂くように、部屋の開け放たれた扉を、一人の息を切らした側近が激しく叩いた。
「アルフレッド殿下! 申し訳ありません、至急、確認していただきたい儀礼の不備が見つかりました! 大至急、本営までお越しください!」
「何だって……? すまない、エレオノーラ、ルミ。少し席を外さなければならなくなった」
アルフレッドは名残惜しそうに、けれど完璧な次期国王としての義務を果たすため、すぐに翻った。
「後でまたすぐに戻ってくるから、二人で仲良くお茶でも淹れて待っていておくれ」
そう言い残し彼は、背後に残されたドロドロとした悪意の深淵に気がつくこともなく、風のように部屋を去っていった。
パタン、と。
再びアルフレッドの手によって扉が閉じられ、完全に「密室」となった私室。
アルフレッドの足音が廊下の向こうへ完全に消え去った、その刹那だった。
「――ふん」
エレオノーラの口から、酷く冷たく、傲慢な鼻笑いが漏れた。
先ほどまで浮かべていた聖母のような微笑みは、蝋燭の火を吹き消すよりも容易く消え失せ、その暗い黄緑色の瞳には剥き出しの、そしておぞましいほどの嫉妬と蔑みがギラギラと狂気に脈打ちはじめる。
「よくもまぁ、あんな腑抜けた王子を綺麗に騙せたものね。……おい、その薄汚い手で、私に挨拶なんて気安く触るんじゃないわよ、ガラス玉」
エレオノーラは、侍女が持っていた大きな仕立て箱を、ルミの足元へ容赦なく投げ捨てた。
ドサリ、と重い音を立てて転がった箱の蓋が開き、中から溢れ出たのは何も入っていない、虚無の空間だけだった。
