主と従者の檻に、世界で一番甘い誓いを

あの夕暮れの目覚めから、さらに数日が経過した。
王宮の廊下を行き交う文官や騎士たちの足取りからは、あの狂気的な焦燥感が完全に消え失せ、本来の、少し厳格で落ち着いた平時のそれを取り戻しつつあった。

だが、完全に「いつも通り」かと言われれば、決してそうではなかった。



「……以上が、今後のガルディニア跡地——直轄領における治安維持部隊の配置案です。何かご意見は」
「ありません。妥当な配置です。そのまますぐに宰相府へ回し、布告を」

重厚な軍議室の最奥。
上座に座るアルヴィーノは、いつもと変わらぬ、冷徹で淀みのない声で書類に目を通していた。
ちょっと癖のある深い紫の髪が、窓から差し込む午後の光に静かに揺れている。
一見すれば、普段通りの完璧な「慈悲なき軍師」そのものだ。
だが、長年彼に仕えてきた老将軍や文官たちの視線は、どこか落ち着かなげに、チラチラとアルヴィーノの手元や顔色を盗み見ていた。

(……アルヴィーノ殿下、本当に、もうお体に障りはないのだろうか……)
(魔力枯渇で何日も昏睡状態だったという噂だ。こうして軍議に出られるまでになったとはいえ、いつもより少し肌が白い気がするが……)

彼らは本気で心配していた。
この最強の軍師が倒れるなどということは、ガルディニアの脅威が去った今でも、国にとって最大の損失であり、恐怖だからだ。

「……何か言いたげですね。私の顔に、何か付いていますか」

書類から視線を上げたアルヴィーノが、氷のように冷ややかな視線を向けると、周囲の大人たちは「ひっ」と同時に息を呑み、慌てて首を横に振った。

「い、いえ! 滅相もございません! 殿下が健やかそうで、騎士団一同、胸を撫で下ろしている次第です!」
「左様でございます! 本日の軍議はこれで終了ですので、殿下、どうぞ、どうぞご無理をなさらず、本日はお早めにお休みくださいませ!」

絵に描いたような過保護なおべっかを使いながら、文官たちがそそくさと書類をまとめて退室していく。
四つの国を一夜で消し去った張本人への畏怖。
そして、そんな絶対的な存在が「死にかけた」という事実への、純粋な心配と困惑。
周囲のそんな腫れ物に触るような、落ち着かない空気を察しながらも、アルヴィーノはフン、と小さく鼻を鳴らした。

(くだらない。心配などという生温い感情を私に向ける暇があるなら、処理すべき書類の一枚でも片付ければいいものを)

冷淡にそう思考を打ち切りながらも、アルヴィーノは自分の胸元へとそっと手をやった。
そこにあるのは、ただ干からびていたはずの己の魔術回路の奥底で、今も静かに、けれど絶対的な温かさを持って拍動している「水色の灯火」。
ルミが命を削って注ぎ込んでくれた、愛の証だ。
アルヴィーノの冷酷な紫の瞳が、その時だけは、身内ですら見たことがないほど優しく、深く、甘く細められた。
他人の心配などどうでもいい。
彼はただ一刻も早く、あのちいさな守護者が待つ私室へと帰ることだけを考えていた。



一方、第一王子の執務室。
そこには、最高級のダージリンを優雅に口に含む、アルフレッドの姿があった。

「……ふぅ」

机の上に積まれているのは、いつも通りの普通の公文書や、他国との当たり障りのない日常的な外交書簡だ。
あの戦後処理の、一歩間違えれば世界中を敵に回しかねない命がけの書類の山に比べれば、今の業務など、彼にとっては「一息ついている」も同然だった。
不眠不休の代償である目の下の濃い隈は相変わらずだが、数日前まで手放せなかった最高級の胃薬の瓶は、すでに引き出しの奥へと仕舞われている。

「……殿下。第二王子殿下、本日の軍事評議会を滞りなく終えられたとのことです。周囲の者たちが、かなり殿下の体調を気遣っていたようですが」

側近の報告を聞き、アルフレッドは上品にカップを置くと、ふっと理知的な苦笑を浮かべた。

「あの馬鹿弟のことだ。『余計な詮索をするな』と睨みつけて、周囲を怯えさせたんだろう? ……まあいいさ。あんな無茶をして、この私に本気で殴られたんだ。自分の命の軽さを自覚させるために、周囲に腫れ物のように心配されるくらいで、ちょうどいい薬だよ」

万年筆を握り直す彼の口から出た一人称は、いつもの完璧な王子としての「私」に戻っていた。
けれど、その声音には、数日前に「僕のたった一人の弟に、目の前で死なれるのが一番嫌だ」と本気で怒鳴りつけた、あの生身の「兄」としての温かな響きが、確かに残っていた。

「ルミくんが命がけで繋いだ命だ。……アルヴィーノ、二度と私を『兄』として怒らせるんじゃないよ」

静かな独り言は、書類に走る万年筆の音にかき消されていった。



その頃、あたたかな陽だまりが差し込む第二王子の私室。

「……ふわぁ」

ルミはふかふかのベッドの上で、ちいさなあくびを一つ噛み殺していた。
ここ数日間の、あの焼けるような激痛と魔力供給の反動による疲れも、アルヴィーノが毎晩抱きしめながら残していってくれる、あたたかい魔力のおかげですっかり抜けていた。
今日は一日中、お部屋でのんびりと過ごす日。
ルミの手元には、アルヴィーノが「留守中、退屈しないように」と用意してくれた、綺麗な挿絵がたくさん入ったお気に入りの物語の本。
そして、胸元にはあの深い紫色の魔石ブローチが、今日も大切に、キラキラと誇らしげに輝いている。
パタパタと短い足をベッドの端で揺らしながら、ルミは何度も、何度も、部屋の大きな扉のほうを振り返った。

(アルヴィーノ様、もうすぐ帰ってくるかな……?)

時計の針がカチコチと進むたび、ルミのちいさな胸が、嬉しそうに、待ちきれないように弾む。
あの日、涙をボロポロと流しながら、アルヴィーノを庇って「いじめないで」とアルフレッドに訴えたこと。
そして、二人で交わした「これからはもっと大切にする」という約束。
もうあの人は、自分の届かないところで無茶をして眠り続けたりはしない。
それを心から信じているからこそ、寂しく待っている時間さえも、今のルミにとっては酷く愛おしく、幸せなものだった。

「……あ、足音!」

静かな部屋に、コツ、コツと響く、聞き馴染んだ、少し癖のある独特の足音。
ルミは広げていた絵本をベッドに放り出すと、満面の笑みを浮かべ、大好きな人を誰よりも早く迎えるために、扉へとまっすぐに駆け出すのだった。
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