主と従者の檻に、世界で一番甘い誓いを

調停が始まってから、すでに数日が経過していた。

ガルディニア王国が用意した謁見の間では、なおも諦めずに「対話」での決着を模索するアルフレッドが、連日の心労でやつれた顔をしながらも声を紡いでいる。

「……国境付近の管理権については、我が国としてもこれ以上の譲歩は出来かねます。ガルディニア王よ、互いに不毛な血を流すべきではないことは貴方もわかっているでしょう……?」

だが、ガルディニア側はのらりくらりと要求を跳ね除け、時間だけが虚しく過ぎていく。
その隣に座るアルヴィーノの周囲の空気は、すでに肉眼で認識できるほどに凍りついていた。

(……まだ、そんな無駄な言葉を重ねるのですか、兄上。いい加減に、その生温い平和主義には反吐が出る)

ルミと離れて数日。
アルヴィーノの理性の許容量は、すでに一滴の余裕も残されていないほどに擦り切れていた。
早くすべてを力でねじ伏せ、愛しい少年の元へ帰りたかった。

「兄上。もうよろしいでしょう。さっさとこの場にいる者たちの四肢を重力魔法で叩き潰し、サインをさせれば済む話です」
「待ちなさい、アルヴィーノ……っ!」

アルフレッドが青ざめて弟を止めようとした、その時。
重厚な謁見の間の扉が、大きな音を立てて左右に開け放たれた。

「――っははは! 随分と余裕を失っているようだな、“慈悲なき軍師”アルヴィーノ殿下!」

現れたのは、下俗な笑みを浮かべた宰相バルトロメウスだった。
その背後に控える護衛たちに乱暴に引きずられるようにして連れてこられた、小さな身体。

「……え?」

アルフレッドが息を呑み、椅子を蹴って立ち上がる。
そこにいたのは――数日前まで王宮の陽だまりで笑っていたはずの、ルミだった。
だが、その姿はあまりにも凄惨だった。
衣服は無惨に引き裂かれ、全身に痛々しい痕や擦り傷を作り、衣服の間から覗く肌は痛ましく汚れている。
何より、かつて美しく輝いていた水色の瞳からは完全に光が消え失せ、焦点の合わない目で虚空を見つめたまま、人形のようにぐったりと護衛に身体を預けていた。
そして、そのルミの細い首筋に冷たい刃を突き立て、わざとらしくその身体を我が物顔で抱き寄せている男。
流麗な深い紫の髪に、端正な顔立ち。
今まさに調停の席にいる本物と全く同じ姿、同じ声を模した、偽物のアルヴィーノだった。
偽物はぐったりとしたルミの顎を乱暴に持ち上げ、下卑た笑みを本物のアルヴィーノへと向ける。

(……アル、ヴィーノ……!? いや、そんなはずはない。私の隣にいる!)

アルフレッドの背中に、かつてないほどの激しい戦慄が走った。
王宮の結界を破られたことへの驚愕など、一瞬で吹き飛ぶほどの絶望。
ルミがこの数日間、アルヴィーノの姿をした怪物に何をされ続けていたのか。
それを察した瞬間、アルフレッドは目の前が真っ暗になるほどの恐怖を覚えた。
恐る恐る隣に座る弟を見る。
アルヴィーノは――動かなかった。
立ち上がることも、声を荒げることもせず、ただ、光を失ってぐったりとしているルミの姿と、自分の形をした怪物の手を、じっと見つめていた。
その表情から、すべての感情が消え失せる。
冷徹さすらも消え去り、そこにあるのは、ただ不気味なほどの「完全な無」だった。

「どうした、アルヴィーノ殿下。自分の玩具が使い物にならなくなって絶望したか?」

バルトロメウスが勝ち誇ったように顎を上げる。

「この数日間、我が国の精鋭がこのガキをたっぷりと『可愛がって』やってな。声の出ぬ喉で、貴様の名前を何度も必死に呼ぼうとする姿は傑作だったぞ! さあ、我が国の提示するすべての条件を呑み、即座に調印書にサインをせよ! さもなくば……この壊れかけの人形の首を、今すぐ跳ね落とす!」

バルトロメウスのゲスな怒号が響き渡る。
ガルディニアの王や貴族たちは勝利を確信して卑しい笑みを浮かべ、アルフレッドは「終わった」と、この国の、いや世界の破滅を確信して顔を蒼白にさせていた。
アルヴィーノはゆっくりと、自分の胸ポケットに手を伸ばした。
そこにある、ルミから贈られた小さなハンカチを、静かに、指先で確かめるように触る。
その紫の瞳の奥で、世界を繋ぎ止めていた最後の鎖が、完全に、音を立てて粉々に砕け散った。
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