主と従者の檻に、世界で一番甘い誓いを
王宮がルミの存在によってどれほど温かに溶けようとも、一歩外へ出れば、そこは冷酷な国際政治の戦場だった。
それから数日間、第二王子の執務室は、ある隣国――肥沃な土地と強力な私兵を擁する「ガルディニア王国」との国境紛争に関する、緊迫した空気に包まれていた。
ガルディニアは近年、不穏な動きを見せており、我が国の領土を虎視眈々と狙っているのは明白だった。
「……だから言っているだろう、アルヴィーノ。まずは対話だ。我が国の要求を毅然と突きつけ、向こうの出方を見る。戦争になれば、どれだけの血が流れると思っているんだ」
アルフレッドが、地図を睨みつけながら疲弊した声で諭す。
しかし、その隣に立つアルヴィーノの瞳には、一切の慈悲も温度もなかった。
「兄上は相変わらず生温い。対話など、対等な力を持つ者同士が時間を稼ぐための泥仕合に過ぎません。最初から我が軍の圧倒的な魔導兵力を以て、王都ごと力でねじ伏せれば済む話です。その方が流れる血も、時間も少なくて済む」
「君というやつは……。とにかく、今回の親征には君も同行してもらう。私の護衛、そして軍師としての圧力をかけるためにな」
アルフレッドの決定に、アルヴィーノは小さく舌打ちをした。
本音を言えば、片時もルミの側を離れたくはなかった。
しかし、国を揺るがす重大な交渉だ。
ルミが安心して暮らせる未来のためには、ここで不穏な芽を摘んでおく必要があるのも事実だった。
「ルミ、私は少し遠い国へ仕事に行ってきます」
「え……おしごと……?」
出発の朝、アルヴィーノはルミを強く抱きしめ、その柔らかな髪に何度も唇を寄せた。
「ええ。ですが、すぐに戻ります。今回は危険を伴うため、貴方は連れていけません。いいですか、信頼できる結界をこの部屋の周囲に幾重にも張りました。アルフレッド兄上の直属の近衛兵も配備してあります。誰が来ても、絶対に扉を開けてはいけませんよ」
「うん……わかった。俺、王子様のこと信じて待ってる。お仕事、がんばってね」
寂しそうに、けれど自分を安心させるように健気に微笑むルミ。
アルヴィーノはその健気さに胸を締め付けられながらも、後ろ髪を引かれる思いで王宮を後にした。
◆
ガルディニア王国の王宮。
重々しい謁見の間で行われた対話交渉は、アルフレッドの予想通り、いや、それ以上に難航を極めていた。
ガルディニア側は、我が国の領土割譲を暗に要求しつつ、こちらの提示する妥協案をのらりくらりと躱 し続ける。
交渉のテーブルの端で、アルヴィーノは一言も発さず、ただ冷徹な眼差しでガルディニアの王や貴族たちを値踏みしていた。
その凍てつくようなプレッシャーだけで、相手国の文官たちは生きた心地がしていなかったが、肝心の決定権を持つ者たちは強硬な姿勢を崩さない。
「今日のところは、一度引き上げましょう。これ以上は平行線だ」
これ以上の進展は望めないと判断したアルフレッドは、いったんガルディニア側が用意した迎賓館の客室へと退却することを決めた。
その夜。
重厚な石造りの客室で、アルフレッドは長旅と難航する交渉の疲れから、深く椅子に身を沈めていた。
そこへ、外套を脱ぎ捨てたアルヴィーノが歩み寄る。
その手には、ガルディニアの防衛布陣が記された隠密の地図が握られていた。
「兄上、やはり時間の無駄でしたね。あの王も、周囲を固める貴族たちも、こちらの慈悲を侮っている。今夜にでも、私が奴らの防衛ラインの要 を力でねじ伏せます。首謀者たちの首をすげ替えれば、明日には向こうから這いつくばって調印書にサインを求めてきますよ」
アルヴィーノの声は、完全に「慈悲なき軍師」のそれだった。
ルミと離れている時間が長引けば長引くほど、彼の許容量は削られ、冷酷さが研ぎ澄まされていく。
「……アルヴィーノ、君の言い分も一理あるが、まだ手はあるはずだ……」
アルフレッドは頭痛をこらえるように額を押さえた。
二人がそんな緊迫した議論を交わしていた、ちょうどその時。
客室の厚い扉のすぐ外、影に潜むようにして、その会話を盗み聞きしている男がいた。
ガルディニア王国の政治を裏で操る、狡猾な宰相、バルトロメウスであった。
(ふん、やはりあの第二王子、力ずくで我が国を奪うつもりか。……“慈悲なき軍師”アルヴィーノ。噂通りの怪物よな)
バルトロメウスは暗闇の中で、歪んだ笑みを浮かべた。
真っ向から戦えば、アルヴィーノの規格外の魔力に焼き尽くされるのは目に見えている。
だが、バルトロメウスには、事前に仕入れていた「ある極秘の情報」があった。
(だが、どんな怪物にも弱点はある。……あの冷酷無比な男が、最近城に引き入れたという水色の瞳の少年。ルミ、といったか)
人伝てに聞いたその噂。
あのアルヴィーノが、一人の少年のために、国内の有力貴族や研究所を一夜にして「更地」に変えたという、にわかには信じがたい、しかし確かな事実。
(あの少年こそが、アルヴィーノを縛る唯一の鎖。……ならば、話は早い)
バルトロメウスは静かに足音を消し、回廊の闇へと消えていった。
そして、人目を忍ぶ地下室へと降りると、待機させていた隠密部隊の長を呼び寄せる。
「……お呼びでしょうか、宰相閣下」
「手筈を整えよ。今すぐ、我が国が誇る最高位の転移魔導士を使い、敵国の王宮へ忍び込ませるのだ。狙うは、第二王子の私室に囲われている少年、ルミだ」
バルトロメウスの目に、ねっとりとした昏い欲望が宿る。
「幾重の結界があろうとも、内部の構造さえ割れていれば『影渡り』の禁術で侵入は可能。アルヴィーノがここに釘付けになっている今こそ、最大の好機。あの少年を誘拐し、我が国の最深部に幽閉するのだ。さすれば……あの軍師とて、我が国の軍門に降るしかあるまい」
「御意。直ちに」
隠密の姿が、一瞬にして黒い霧となって消え去る。
そんな陰謀が動き出しているとは夢にも思わず、遠く離れたガルディニアの客室では、アルヴィーノがルミから贈られたハンカチをそっと愛おしげに指先でなぞっていた。
一刻も早くすべてを終わらせて、愛しいルミの元へ帰るために。
◆
その頃、静まり返った王宮の留守居部屋。
ベッドの中で、ルミは小さな身体を丸め、アルヴィーノの枕をぎゅっと抱きしめていた。
「……王子様、お仕事、もう終わったかなぁ……」
ぽつりと呟いたその声は、夜の静寂に吸い込まれていく。
窓の外で、王宮の強固な結界の隙間を縫うように、不吉な黒い影が静かに、静かに蠢き始めていることなど、まだ誰も気づいていなかった。
それから数日間、第二王子の執務室は、ある隣国――肥沃な土地と強力な私兵を擁する「ガルディニア王国」との国境紛争に関する、緊迫した空気に包まれていた。
ガルディニアは近年、不穏な動きを見せており、我が国の領土を虎視眈々と狙っているのは明白だった。
「……だから言っているだろう、アルヴィーノ。まずは対話だ。我が国の要求を毅然と突きつけ、向こうの出方を見る。戦争になれば、どれだけの血が流れると思っているんだ」
アルフレッドが、地図を睨みつけながら疲弊した声で諭す。
しかし、その隣に立つアルヴィーノの瞳には、一切の慈悲も温度もなかった。
「兄上は相変わらず生温い。対話など、対等な力を持つ者同士が時間を稼ぐための泥仕合に過ぎません。最初から我が軍の圧倒的な魔導兵力を以て、王都ごと力でねじ伏せれば済む話です。その方が流れる血も、時間も少なくて済む」
「君というやつは……。とにかく、今回の親征には君も同行してもらう。私の護衛、そして軍師としての圧力をかけるためにな」
アルフレッドの決定に、アルヴィーノは小さく舌打ちをした。
本音を言えば、片時もルミの側を離れたくはなかった。
しかし、国を揺るがす重大な交渉だ。
ルミが安心して暮らせる未来のためには、ここで不穏な芽を摘んでおく必要があるのも事実だった。
「ルミ、私は少し遠い国へ仕事に行ってきます」
「え……おしごと……?」
出発の朝、アルヴィーノはルミを強く抱きしめ、その柔らかな髪に何度も唇を寄せた。
「ええ。ですが、すぐに戻ります。今回は危険を伴うため、貴方は連れていけません。いいですか、信頼できる結界をこの部屋の周囲に幾重にも張りました。アルフレッド兄上の直属の近衛兵も配備してあります。誰が来ても、絶対に扉を開けてはいけませんよ」
「うん……わかった。俺、王子様のこと信じて待ってる。お仕事、がんばってね」
寂しそうに、けれど自分を安心させるように健気に微笑むルミ。
アルヴィーノはその健気さに胸を締め付けられながらも、後ろ髪を引かれる思いで王宮を後にした。
◆
ガルディニア王国の王宮。
重々しい謁見の間で行われた対話交渉は、アルフレッドの予想通り、いや、それ以上に難航を極めていた。
ガルディニア側は、我が国の領土割譲を暗に要求しつつ、こちらの提示する妥協案をのらりくらりと
交渉のテーブルの端で、アルヴィーノは一言も発さず、ただ冷徹な眼差しでガルディニアの王や貴族たちを値踏みしていた。
その凍てつくようなプレッシャーだけで、相手国の文官たちは生きた心地がしていなかったが、肝心の決定権を持つ者たちは強硬な姿勢を崩さない。
「今日のところは、一度引き上げましょう。これ以上は平行線だ」
これ以上の進展は望めないと判断したアルフレッドは、いったんガルディニア側が用意した迎賓館の客室へと退却することを決めた。
その夜。
重厚な石造りの客室で、アルフレッドは長旅と難航する交渉の疲れから、深く椅子に身を沈めていた。
そこへ、外套を脱ぎ捨てたアルヴィーノが歩み寄る。
その手には、ガルディニアの防衛布陣が記された隠密の地図が握られていた。
「兄上、やはり時間の無駄でしたね。あの王も、周囲を固める貴族たちも、こちらの慈悲を侮っている。今夜にでも、私が奴らの防衛ラインの
アルヴィーノの声は、完全に「慈悲なき軍師」のそれだった。
ルミと離れている時間が長引けば長引くほど、彼の許容量は削られ、冷酷さが研ぎ澄まされていく。
「……アルヴィーノ、君の言い分も一理あるが、まだ手はあるはずだ……」
アルフレッドは頭痛をこらえるように額を押さえた。
二人がそんな緊迫した議論を交わしていた、ちょうどその時。
客室の厚い扉のすぐ外、影に潜むようにして、その会話を盗み聞きしている男がいた。
ガルディニア王国の政治を裏で操る、狡猾な宰相、バルトロメウスであった。
(ふん、やはりあの第二王子、力ずくで我が国を奪うつもりか。……“慈悲なき軍師”アルヴィーノ。噂通りの怪物よな)
バルトロメウスは暗闇の中で、歪んだ笑みを浮かべた。
真っ向から戦えば、アルヴィーノの規格外の魔力に焼き尽くされるのは目に見えている。
だが、バルトロメウスには、事前に仕入れていた「ある極秘の情報」があった。
(だが、どんな怪物にも弱点はある。……あの冷酷無比な男が、最近城に引き入れたという水色の瞳の少年。ルミ、といったか)
人伝てに聞いたその噂。
あのアルヴィーノが、一人の少年のために、国内の有力貴族や研究所を一夜にして「更地」に変えたという、にわかには信じがたい、しかし確かな事実。
(あの少年こそが、アルヴィーノを縛る唯一の鎖。……ならば、話は早い)
バルトロメウスは静かに足音を消し、回廊の闇へと消えていった。
そして、人目を忍ぶ地下室へと降りると、待機させていた隠密部隊の長を呼び寄せる。
「……お呼びでしょうか、宰相閣下」
「手筈を整えよ。今すぐ、我が国が誇る最高位の転移魔導士を使い、敵国の王宮へ忍び込ませるのだ。狙うは、第二王子の私室に囲われている少年、ルミだ」
バルトロメウスの目に、ねっとりとした昏い欲望が宿る。
「幾重の結界があろうとも、内部の構造さえ割れていれば『影渡り』の禁術で侵入は可能。アルヴィーノがここに釘付けになっている今こそ、最大の好機。あの少年を誘拐し、我が国の最深部に幽閉するのだ。さすれば……あの軍師とて、我が国の軍門に降るしかあるまい」
「御意。直ちに」
隠密の姿が、一瞬にして黒い霧となって消え去る。
そんな陰謀が動き出しているとは夢にも思わず、遠く離れたガルディニアの客室では、アルヴィーノがルミから贈られたハンカチをそっと愛おしげに指先でなぞっていた。
一刻も早くすべてを終わらせて、愛しいルミの元へ帰るために。
◆
その頃、静まり返った王宮の留守居部屋。
ベッドの中で、ルミは小さな身体を丸め、アルヴィーノの枕をぎゅっと抱きしめていた。
「……王子様、お仕事、もう終わったかなぁ……」
ぽつりと呟いたその声は、夜の静寂に吸い込まれていく。
窓の外で、王宮の強固な結界の隙間を縫うように、不吉な黒い影が静かに、静かに蠢き始めていることなど、まだ誰も気づいていなかった。
