主と従者の檻に、世界で一番甘い誓いを
床に倒れて微動だにしないアルヴィーノを抱え上げ、アルフレッドは数人の医官を連れて移動した先は、隣にある静かな医務室だった。
「そっと横たえなさい。……ひどい衰弱だ。魔力の枯渇だけでなく、何日もまともに食事も睡眠もとっていなかったのだろう」
医官たちが慌ただしくアルヴィーノの服を緩め、栄養補給と強制睡眠の魔導薬を投与するための準備を始める。
ベッドに横たえられたアルヴィーノの顔は蒼白で、いつも崩さない冷徹な仮面は完全に剥がれ落ち、ひどく幼く疲れ果てているように見えた。
アルフレッドは医官たちを一度下がらせると、一人、ベッドの傍らに佇んで弟の寝顔を見つめた。
いつも自分を拒絶し、完璧な光である兄の影で、鋭い棘を突き立てていた弟。
そのアルヴィーノが、まさか自分の差し伸べた手ではなく、あの小さな少年のためだけに、ここまで己をすり潰し、ボロボロになるまで付き従っていたのだ。
(アルヴィーノが、誰かのためにここまで取り乱し、自分を犠牲にするなんてね……)
ベッドの上で、アルヴィーノは無意識のうちに、ルミを探すように微かに指先をピクピクと動かしている。
その執着の深さは、見ていて胸が痛くなるほどだった。
「私は少し、彼が羨ましいよ、アルヴィーノ」
アルフレッドは、眠る弟にだけ聞こえるような低い声で、そっと呟いた。
「あの子の前でだけは、君は何事にも完璧であろうとする呪いから解放されているように見える。……でも、そんなに自分をすり潰してしまっては、せっかく目を覚ましたあの子が悲しむよ。ゆっくり眠りなさい」
アルフレッドは弟の額にかかる髪を優しく払ってあげると、静かに医務室の灯りを落とし、部屋を後にした。
物理的な限界、そして何より「ルミが目を覚ました」という極限の安堵。
それらが重なり合ったアルヴィーノの眠りは、泥のように深く、重かった。
◆
カチ、カチ、と静かな時計の針の音だけが響く医務室。
窓から差し込む陽光は、すでにあの地獄のような夜明けから、丸三日という月日が経過したことを告げていた。
「……っ……、ルミ……!」
アルヴィーノの意識は、跳ね起きるような衝撃と共に突如として覚醒した。
限界を迎えて強制的に眠らされていた脳が、覚醒した瞬間に最優先で求めたのは、やはりあの彼の安否だった。
ガバッと上体を起こし、無意識に自分の両手を視線で追う。
――空っぽだった。
さっきまで確かに握りしめていたはずの、あのルミの小さくて冷たい手の感覚がどこにもない。
「ルミ……!? どこだ、ルミは……!」
パニックに陥り、衰弱してまだ言うことを聞かない身体でベッドから這い出ようとした、その時だった。
「おはよう、アルヴィーノ。ようやく目が覚めたかい」
「……ッ!?」
「ああ、あまり急に動いては駄目だよ。君は丸三日も眠り続けていたんだから」
すぐ傍らから、この世のすべての不純物を洗い流すかのような、どこまでも穏やかで、温かくて、そしてアルヴィーノにとっては世界で一番、耳障りで大嫌いな声が聞こえてきた。
アルヴィーノの動きが、ピキッと凍りつく。
恐る恐る、だが猛烈な嫌悪感を隠そうともせずに視線を向ければ、そこには椅子に腰掛け、優雅に魔導書を閉じる長兄・アルフレッドの姿があった。
いつもの完璧な聖者のような笑みを浮かべている。
「……っ、兄、上……」
アルヴィーノの美形な顔が、一瞬で苦虫を十匹ほど噛み潰したように激しく歪んだ。
安否を確認したい最愛の少年ではなく、現世における自身の劣等感と嫌悪の象徴が、目覚めて一番に視界に入ってきたのだ。
「……最悪だ……ッ」
アルヴィーノは小さく、だがはっきりと、吐き捨てるように毒づいた。
そのままギリッと奥歯を噛み締め、頭を抱えるようにしてベッドにドサリと倒れ込む。
なぜ自分の手を握っているのがルミではなく、この眩しすぎる兄なのか。
最悪の目覚めだった。
「ひどい挨拶だね。付きっきりで君の看病をしていた兄に対して、最初の言葉がそれかい?」
「黙ってください……! 誰が看病など頼んだ……! それより、ルミは……! あの子はどこへやった……ッ!」
アルヴィーノは寝台のシーツを爪が白くなるほど強く握りしめ、アルフレッドを睨みつける。
その瞳には、かつての冷徹な軍師の余裕など微塵もなく、ただ獲物を奪われた野獣のような必死さだけがあった。
「安心しなさい、アルヴィーノ。彼なら隣の医療室で、とても静かに、健やかに眠っているよ。君が倒れた後、少しパニックを起こしてね。私が優しく眠らせてあげたんだ」
「ッ、ルミに触れたのか……!?」
アルヴィーノの殺気にも似た視線を受けても、アルフレッドは少しも動じず、困ったようにクスリと微笑むだけだった。
「触れたよ。私を拒絶する君とは違って、あの子はとても素直で、良い子だね。……アルヴィーノ。君が何を恐れているのかは知らないけれど、あの子は君が思っている以上に、君の心配ばかりしていたよ。だから、そんなに怖い顔をして僕を睨む前に、まずは自分の身体を労りなさい。君がまたそんな顔で会いに行ったら、あの子が怯えてしまうよ」
「……っ……」
アルフレッドの、すべてを見透かしたような、あるいはどこまでも正しい正論の前に、アルヴィーノは言い返す言葉を失う。
それほどまでに彼の放ったその言葉は、アルヴィーノの胸の最も柔らかい場所に、容赦なく突き刺さっていた。
「……っ……」
前のアルヴィーノであれば、兄の言葉など「目障りです」と一蹴していただろう。
道具の様子を、持ち主がいつ見に行こうが勝手だ。
冷徹な軍師としての仮面を被り、兄の善意を冷笑しながら、すぐにでもベッドを蹴立てて隣室のルミの元へ向かっていたはずだ。
だが、今のアルヴィーノは、ルミを「一個人」として、狂おしいほどに愛していると自覚してしまっていた。
脳裏に、意識を失う直前のルミの姿が蘇る。
怯えて目を伏せ、壊れた人形のように「ごめんなさい」と泣いていた姿。
自分が無理をしすぎたせいで、糸が切れたように目の前で崩れ落ちてしまった主の姿を見て、あの子がどれほどの絶望と恐怖を味わったか。
今のボロボロの身体、焦燥と独占欲で獣のようにギラついた視線のままルミの前に現れれば、ルミはまた「自分が役に立たないから、主がこんな姿になったのだ」と自分を責め、怯え、狂ってしまうに決まっている。
「……く、そ……ッ」
アルヴィーノは寝台のシーツを、引きちぎらんばかりの力で握りしめた。
屈辱だった。
大嫌いな兄の言うことが、反論の余地もないほどにド正論であることが。
そして、その正論に従わなければ、最愛の少年を再び傷つけることになるという事実が。
アルヴィーノは、ギリ、と頭が痛くなるほど強く奥歯を噛み締めると、荒くなっていた呼吸を必死に抑え込んだ。
そして、ルミへと向かいかけていた身体を、自ら進んでベッドの奥へと沈める。
今は、動くべきではない。
こんな無様な姿を、あの子に見せるわけにはいかない。
最高の王子として、完璧な主として、あの子が心から安心できる姿になってからでなければ、会いに行く資格などないのだ。
愛を自覚したからこその、徹底的な自制。
背を向け、布団を頭から被るようにして横たわった弟の後ろ姿を見つめ、アルフレッドは驚いたように、けれど確かな感慨を込めて、その目を細めた。
(驚いたな。あのアルヴィーノが、僕の言葉を受け入れて、引き下がるとはね……)
かつて、何を言っても反発し、自分の意思だけで傲然と突き進んでいた冷徹な弟は、もうどこにもいない。
ここにいるのは、たった一人の少年をこれ以上傷つけまいと、己のプライドを圧し折ってでも踏みとどまる、一人の不器用な男だった。
「……賢明な判断だよ、アルヴィーノ」
アルフレッドは、弟を煽るような声音を一切消し、ただ一人の兄として静かに、そして温かく微笑んだ。
「君の栄養状態が戻り、顔色が良くなるまで、ルミくんは僕が責任を持って守っておくよ。安心してくれていい。だから……今はただ、彼のために、健やかに眠りなさい」
「……黙れと言っているでしょう、兄上。……二度と、私のルミに触れるな」
布団の隙間から漏れたアルヴィーノの声は、低く、ドスの利いた、だがどこか酷く必死なものだった。
アルフレッドは小さく肩を揺らして笑うと、今度こそ、弟を休ませるために医務室の扉を静かに閉めるのだった。
「そっと横たえなさい。……ひどい衰弱だ。魔力の枯渇だけでなく、何日もまともに食事も睡眠もとっていなかったのだろう」
医官たちが慌ただしくアルヴィーノの服を緩め、栄養補給と強制睡眠の魔導薬を投与するための準備を始める。
ベッドに横たえられたアルヴィーノの顔は蒼白で、いつも崩さない冷徹な仮面は完全に剥がれ落ち、ひどく幼く疲れ果てているように見えた。
アルフレッドは医官たちを一度下がらせると、一人、ベッドの傍らに佇んで弟の寝顔を見つめた。
いつも自分を拒絶し、完璧な光である兄の影で、鋭い棘を突き立てていた弟。
そのアルヴィーノが、まさか自分の差し伸べた手ではなく、あの小さな少年のためだけに、ここまで己をすり潰し、ボロボロになるまで付き従っていたのだ。
(アルヴィーノが、誰かのためにここまで取り乱し、自分を犠牲にするなんてね……)
ベッドの上で、アルヴィーノは無意識のうちに、ルミを探すように微かに指先をピクピクと動かしている。
その執着の深さは、見ていて胸が痛くなるほどだった。
「私は少し、彼が羨ましいよ、アルヴィーノ」
アルフレッドは、眠る弟にだけ聞こえるような低い声で、そっと呟いた。
「あの子の前でだけは、君は何事にも完璧であろうとする呪いから解放されているように見える。……でも、そんなに自分をすり潰してしまっては、せっかく目を覚ましたあの子が悲しむよ。ゆっくり眠りなさい」
アルフレッドは弟の額にかかる髪を優しく払ってあげると、静かに医務室の灯りを落とし、部屋を後にした。
物理的な限界、そして何より「ルミが目を覚ました」という極限の安堵。
それらが重なり合ったアルヴィーノの眠りは、泥のように深く、重かった。
◆
カチ、カチ、と静かな時計の針の音だけが響く医務室。
窓から差し込む陽光は、すでにあの地獄のような夜明けから、丸三日という月日が経過したことを告げていた。
「……っ……、ルミ……!」
アルヴィーノの意識は、跳ね起きるような衝撃と共に突如として覚醒した。
限界を迎えて強制的に眠らされていた脳が、覚醒した瞬間に最優先で求めたのは、やはりあの彼の安否だった。
ガバッと上体を起こし、無意識に自分の両手を視線で追う。
――空っぽだった。
さっきまで確かに握りしめていたはずの、あのルミの小さくて冷たい手の感覚がどこにもない。
「ルミ……!? どこだ、ルミは……!」
パニックに陥り、衰弱してまだ言うことを聞かない身体でベッドから這い出ようとした、その時だった。
「おはよう、アルヴィーノ。ようやく目が覚めたかい」
「……ッ!?」
「ああ、あまり急に動いては駄目だよ。君は丸三日も眠り続けていたんだから」
すぐ傍らから、この世のすべての不純物を洗い流すかのような、どこまでも穏やかで、温かくて、そしてアルヴィーノにとっては世界で一番、耳障りで大嫌いな声が聞こえてきた。
アルヴィーノの動きが、ピキッと凍りつく。
恐る恐る、だが猛烈な嫌悪感を隠そうともせずに視線を向ければ、そこには椅子に腰掛け、優雅に魔導書を閉じる長兄・アルフレッドの姿があった。
いつもの完璧な聖者のような笑みを浮かべている。
「……っ、兄、上……」
アルヴィーノの美形な顔が、一瞬で苦虫を十匹ほど噛み潰したように激しく歪んだ。
安否を確認したい最愛の少年ではなく、現世における自身の劣等感と嫌悪の象徴が、目覚めて一番に視界に入ってきたのだ。
「……最悪だ……ッ」
アルヴィーノは小さく、だがはっきりと、吐き捨てるように毒づいた。
そのままギリッと奥歯を噛み締め、頭を抱えるようにしてベッドにドサリと倒れ込む。
なぜ自分の手を握っているのがルミではなく、この眩しすぎる兄なのか。
最悪の目覚めだった。
「ひどい挨拶だね。付きっきりで君の看病をしていた兄に対して、最初の言葉がそれかい?」
「黙ってください……! 誰が看病など頼んだ……! それより、ルミは……! あの子はどこへやった……ッ!」
アルヴィーノは寝台のシーツを爪が白くなるほど強く握りしめ、アルフレッドを睨みつける。
その瞳には、かつての冷徹な軍師の余裕など微塵もなく、ただ獲物を奪われた野獣のような必死さだけがあった。
「安心しなさい、アルヴィーノ。彼なら隣の医療室で、とても静かに、健やかに眠っているよ。君が倒れた後、少しパニックを起こしてね。私が優しく眠らせてあげたんだ」
「ッ、ルミに触れたのか……!?」
アルヴィーノの殺気にも似た視線を受けても、アルフレッドは少しも動じず、困ったようにクスリと微笑むだけだった。
「触れたよ。私を拒絶する君とは違って、あの子はとても素直で、良い子だね。……アルヴィーノ。君が何を恐れているのかは知らないけれど、あの子は君が思っている以上に、君の心配ばかりしていたよ。だから、そんなに怖い顔をして僕を睨む前に、まずは自分の身体を労りなさい。君がまたそんな顔で会いに行ったら、あの子が怯えてしまうよ」
「……っ……」
アルフレッドの、すべてを見透かしたような、あるいはどこまでも正しい正論の前に、アルヴィーノは言い返す言葉を失う。
それほどまでに彼の放ったその言葉は、アルヴィーノの胸の最も柔らかい場所に、容赦なく突き刺さっていた。
「……っ……」
前のアルヴィーノであれば、兄の言葉など「目障りです」と一蹴していただろう。
道具の様子を、持ち主がいつ見に行こうが勝手だ。
冷徹な軍師としての仮面を被り、兄の善意を冷笑しながら、すぐにでもベッドを蹴立てて隣室のルミの元へ向かっていたはずだ。
だが、今のアルヴィーノは、ルミを「一個人」として、狂おしいほどに愛していると自覚してしまっていた。
脳裏に、意識を失う直前のルミの姿が蘇る。
怯えて目を伏せ、壊れた人形のように「ごめんなさい」と泣いていた姿。
自分が無理をしすぎたせいで、糸が切れたように目の前で崩れ落ちてしまった主の姿を見て、あの子がどれほどの絶望と恐怖を味わったか。
今のボロボロの身体、焦燥と独占欲で獣のようにギラついた視線のままルミの前に現れれば、ルミはまた「自分が役に立たないから、主がこんな姿になったのだ」と自分を責め、怯え、狂ってしまうに決まっている。
「……く、そ……ッ」
アルヴィーノは寝台のシーツを、引きちぎらんばかりの力で握りしめた。
屈辱だった。
大嫌いな兄の言うことが、反論の余地もないほどにド正論であることが。
そして、その正論に従わなければ、最愛の少年を再び傷つけることになるという事実が。
アルヴィーノは、ギリ、と頭が痛くなるほど強く奥歯を噛み締めると、荒くなっていた呼吸を必死に抑え込んだ。
そして、ルミへと向かいかけていた身体を、自ら進んでベッドの奥へと沈める。
今は、動くべきではない。
こんな無様な姿を、あの子に見せるわけにはいかない。
最高の王子として、完璧な主として、あの子が心から安心できる姿になってからでなければ、会いに行く資格などないのだ。
愛を自覚したからこその、徹底的な自制。
背を向け、布団を頭から被るようにして横たわった弟の後ろ姿を見つめ、アルフレッドは驚いたように、けれど確かな感慨を込めて、その目を細めた。
(驚いたな。あのアルヴィーノが、僕の言葉を受け入れて、引き下がるとはね……)
かつて、何を言っても反発し、自分の意思だけで傲然と突き進んでいた冷徹な弟は、もうどこにもいない。
ここにいるのは、たった一人の少年をこれ以上傷つけまいと、己のプライドを圧し折ってでも踏みとどまる、一人の不器用な男だった。
「……賢明な判断だよ、アルヴィーノ」
アルフレッドは、弟を煽るような声音を一切消し、ただ一人の兄として静かに、そして温かく微笑んだ。
「君の栄養状態が戻り、顔色が良くなるまで、ルミくんは僕が責任を持って守っておくよ。安心してくれていい。だから……今はただ、彼のために、健やかに眠りなさい」
「……黙れと言っているでしょう、兄上。……二度と、私のルミに触れるな」
布団の隙間から漏れたアルヴィーノの声は、低く、ドスの利いた、だがどこか酷く必死なものだった。
アルフレッドは小さく肩を揺らして笑うと、今度こそ、弟を休ませるために医務室の扉を静かに閉めるのだった。
