主と従者の檻に、世界で一番甘い誓いを

幾夜、同じ闇に溺れただろうか。
目を閉じれば、決まってあの忌々しい宮廷の回廊へと引き戻される。
耳を覆いたくなるような兄・アルフレッドの正義の説教と、その腕の中で怯えるエレオノーラ。
そして、そんな彼らを冷徹な言葉で突き放す、無様な自分。

​「――っ、……っ!」

​またしても、アルヴィーノは荒い呼吸と共に寝台から跳ね起きた。
額から流れる嫌な汗を拭う気力すら湧かない。
連日の悪夢のせいで、ここ数週間の睡眠時間は限界を迎えていた。
脳の芯が痺れたように重く、まともな思考能力が働かない。
ただでさえ張り詰めていた彼の自律神経は、極限状態の寝不足によって、今にも弾け飛びそうなほどに摩耗していた。
​頭痛に耐えるようにこめかみを押さえた、その時。
いつもなら、その温もりだけで悪夢を霧散させてくれるはずの少年が、寝台の脇からそっと顔を覗かせた。

​「王子様、大丈夫……? また怖い夢?」

​ルミだった。
その瞳はいつも通り、自分への純粋な親愛の光で満ちている。
ルミはアルヴィーノの青白い顔を心配そうに見つめ、その華奢な両手を差し伸べてきた。

​「あのね、王子様。俺にできることがあれば、なんでも言ってね? 王子様のためなら、俺、なんでもするから……。だから……」

​ただの、純粋な気遣いだった。
大好きな主を救いたいという、無邪気なまでの善意。
だが、寝不足でまともに機能していないアルヴィーノの脳内で、その言葉は最悪のトリガーとなって弾けた。

​『――大丈夫かい、アルヴィーノ。何かあれば、いつでも僕に言ってね』

​重なる。
かつて、自分を最も深い絶望へと突き落とした、あの光の兄の笑顔が、目の前のルミの姿に最悪の形でフラッシュバックした。

「私を憐れんでいるのか」「お前も、あの男と同じように無様な私を上から見下ろしているのか」――限界を迎えていた理性が、防衛本能の暴走によって一瞬で消し飛んだ。

​「――うるさい、私に触るな……っ!!!」

​アルヴィーノは、差し出されたルミの、あのあたたかい手を激しく振り払った。
静まり返った寝室に、肉と肉がぶつかる鋭い音が虚しく響く。

​「ひあ……っ!?」

​ルミが短い悲鳴をあげて、床にしりもちをついた。
それでも、アルヴィーノの暴走は止まらない。
血走った瞳で、床に倒れる少年を冷酷に睨みつけた。

​「鬱陶しい……! あなたに私の何が分かるというのですか! 浅薄な同情で、分かったような口を利かないでいただきたい……ッ!」

​激昂した声が、壁に跳ね返って消えていく。
その残響の中で、アルヴィーノは己の荒い呼吸の音だけで、ようやく我に返った。

​「あ……いえ、違う、私は……」

​思考の霧が晴れた時、時はすでに遅かった。
床に座り込んだルミは、振り払われた自分の手を痛そうに抱えながら、酷くショックを受けた顔でアルヴィーノを見上げていた。
その大きな瞳には、今にも零れ落ちそうな涙が溜まっている。

​「……ご、ごめんなさい、王子様。俺、余計なこと、言っちゃって……。……ごめんなさい……」

​ルミは、消え入りそうな声でそう呟くと、ポロポロと涙を流しながらも、無理やり歪な「泣き笑い」を浮かべた。
大好きな王子様にそんな嫌悪に満ちた目を向けられた悲しさと、地雷を踏んでしまった恐怖。
それらが混ざり合った痛々しい笑顔のまま、ルミは静かに立ち上がり、一歩、また一歩とアルヴィーノから距離を取るように部屋を去っていった。
​一人残された寝室で、アルヴィーノは激しい自己嫌悪に襲われた。
寝不足の頭を抱え、今の自分がいかに理不尽に当たり散らしたかを理解する。
謝らなければ、と理性は告げていた。
だが、染み付いたプライドと、兄へのトラウマが、彼の口を重く閉ざしてしまった。

​一方、自室に戻ったルミの心は、完全に崩壊しかけていた。

​「……そっか。やっぱり、俺が間違ってたんだ……」

​胸の奥が、ちぎれそうなほどに痛い。
アルヴィーノが大好きで、もっと近づきたくて、あたたかい「心」を持とうとしてしまったから、彼に嫌われてしまったと思っていた。

​「俺は、お人形だもんね……。お人形さんには、感情なんて、いらない……いらない……」

​ルミは暗い部屋の隅で膝を抱え、自分にそう言い聞かせた。
かつて、あの暗い地下の研究所で地獄のような実験の痛みに耐えるために、毎日毎日繰り返していた自己暗示。
心を殺し、肉体だけの肉塊になるための呪文。

​「お人形は、悲しくない……。お人形は、痛くない……。王子様の言う通りに動くただの道具……。なにも感じない……何も考えない……なにも……」

​その呟きと共に、ルミの瞳からじわじわと生命の輝きが消えていく。
まるで綺麗なガラス玉を嵌め込んだだけのような、光の届かない、深い無機質な瞳へと退行していく。
アルヴィーノが与えてくれたあたたかい時間によって灯りかけていた「人間の心」を、ルミは自らの手で、再び暗闇の奥底へと封印してしまったのだ。
​数日後、寝不足が幾分か解消されたアルヴィーノは再びルミと対面した。
ギクシャクとした空気のまま、今後の作戦の指示を出す。

​「ルミ。次の作戦ですが――」
「はい、王子様。御心のままにどんなことでもいたします」

​返ってきたのは、恐ろしいほどに淡々とした、抑揚のない声だった。
アルヴィーノは、ルミのその顔を見て胸の奥に奇妙な「引っかかり」を覚えた。
かつて自分を見ていたあの眩しい光が消え、目の前にいるのは、ただ自分の命令を完璧に待つだけの「硝子の瞳」をした少年だったからだ。

​(……この違和感は、何でしょう。なぜ、胸がこのように騒ぐのか)

​アルヴィーノにはわかるはずもなかった。
それが、自分がルミを「一人の人間」として、代えの利かない特別な存在として求め始めていた証拠だということに。
無自覚なままの彼は、その胸のモヤモヤを強引に思考の隅へと追いやる。

​「……ええ。計画通りに動いてくれるのであれば、それで構いません」

​そう、これが元々望んでいた「完璧な兵器」の姿だ。
計画に支障がないのであれば、何の問題もないはずだ――そう自分に言い聞かせながら。
​こうして、二人の間には、触れ合えないほどに冷え切った、歪でギクシャクとした主従関係だけが残された。
人形に戻ってしまったルミと、その異変に胸を痛めながらも「道具だからいい」と自らを欺き続けるアルヴィーノ。
​破滅の戦場へのカウントダウンは、もう始まっていた。
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