主と従者の檻に、世界で一番甘い誓いを

それは少し遠い昔の話……。​
アルヴィーノには兄がいた。
とてもよくできた兄。
彼は最初から、兄のことが嫌いだったわけではなかった。
むしろ、幼い頃のアルヴィーノにとって、金色の髪をなびかせて誰にでも優しく微笑む兄・アルフレッドは、憧れの対象でさえあった。
その背中を追いかけ、いつか自分もあの光の輪の中に並び立てるのだと、無垢にも信じていた時期が確かにあったのだ。
​だが成長するにつれて、周囲の視線が彼と兄の間に目に見えない強固な壁を築き上げていくのを肌で感じるようになった。

​「アルフレッド様は本当に素晴らしい。それに比べて、弟君は少々陰気というか……」
「やはり、光の加護を一身に受けた第一王子とは、器が違うな」

​すれ違う宮廷の者たちの、値踏みするような目。
憐れみと失望が混ざった冷ややかな囁き。
それらは自覚なき毒となって、じわじわと彼の心を侵食していった。

なぜ、同じ血を引いているのに自分だけが否定されなければならないのか。
なぜ、生まれ持った「光」の有無だけで、すべてを決めつけられなければならないのか。

​兄への純粋な憧れは、いつしか黒くドロドロとした嫉妬へと変貌を遂げていた。
ならば、兄にはないものを手に入れればいい。
兄が忌避する「戦い」の場で、誰にも文句を言わせない圧倒的な成果を叩き出せば、きっと誰もが自分を認めるはずだ。
​そう決意してからは、泥をすするような努力の日々だった。
寝る間を惜しんで兵法書を貪り読み、剣を振り、己の魔力を極限まで研ぎ澄ました。
過酷な演習にも自ら志願し、冷徹なまでに完璧な戦術を組み上げてみせた。
これで、ようやく自分を見て評価してもらえる。
その確信を胸に両親の前に立った。
​しかし、待っていたのは、求めていた賛辞ではなかった。

​「……アルヴィーノ。お前の組み上げた戦術は確かに見事だが、あまりにも冷酷すぎる。これでは兵の心が離れてしまうよ」
「お前の兄、アルフレッドを見なさい。彼は話し合いで周囲を導き、誰も傷つけずに物事を解決する。お前も、もっと兄の背中を見習いなさい」

​心臓を直に掴まれたような衝撃だった。
血の滲むような努力も、完璧な成果も、すべては「兄の優しさ」という絶対的な正義の前に、一瞬で無価値なゴミへと変えられたのだ。
振り返れば、周囲の臣下たちも「やはり冷徹な第二王子だ」と、気味の悪いものを見るような冷たい視線を向けていた。

​――ああ、そうか。この国で、この城で、自分の居場所など最初からどこにもなかったのだ。

​その瞬間、胸の奥で何かが決定的に、粉々に砕け散った。
歪んだ承認欲求は、行き場を失ってそのまま深い闇へと反転する。

誰も自分を認めないのなら、この国ごとすべてを力でねじ伏せてしまえばいい。

冷徹な軍師の仮面を被り、心に漆黒の炎を燻らせ始めた頃、その少女は現れた。
​名をエレオノーラ。
隣国との協定のために連れてこられた、兄の婚約者だった。
真っ赤なウェーブのかかった髪を揺らし、世界で自分が一番愛らしいとでも言いたげな、傲慢で勝ち気な瞳をした少女だった。
​ある日、王宮の回廊を歩いていた時のことだ。
彼女は退屈しのぎにでも目をつけたのか、歩いてくる自分を見つけると、取り巻きを従えてわざわざ行く手を阻んできた。

​「あらぁ? あなたがアルフレッド様の弟君? 噂通りの陰気くさい顔ね。せっかくアルフレッド様と同じくらい端正なお顔立ちしていらっしゃるというのにもったいない。あ、そうだ! アルフレッド様の弟君なのですから特別にお姉様と呼ぶことを許してあげてもいいわよ? ほぉら、呼んでみなさいよ!」

​ふんぞり返り、自分を値踏みする少女。
その瞳の奥にあるのは、純粋な好奇心というよりも、自分より身分の低いあるいはそう見える者を踏み台にして、己の自尊心を満たそうとする浅薄な欲望だった。
今の彼にとって、そんな我が儘なだけの存在は、ただの「羽虫」に等しかった。

​「実に不愉快だ」

​低く、地を這うような声が自分の口から漏れた。
次の瞬間、彼の意志とは関係なく、体内から溢れ出たドス黒い魔力のプレッシャーが、一気に回廊の空気を凍りつかせた。

​「ひっ……!?」

​エレオノーラが短い悲鳴をあげる。
だが、それでは収まらなかった。
自分を認めなかった世界への苛立ちが、彼女という依り代を得て爆発したのだ。
威圧の波動はさらに強まり、目に見えるほどの闇の圧力が、彼女の華奢な身体を壁へと激しく叩きつけた。

​「あ、が……っ!?」

​肺の空気を強制的に押し出され、彼女の顔が恐怖で真っ白に染まる。
ドレスのフリルが魔力の風でボロボロと引き裂かれ、自慢の赤髪が床に散らばる。
彼女の取り巻きたちは、恐怖のあまり腰を抜かして悲鳴をあげることしかできなかった。
怯え、涙を流し、呼吸すらままならずに悶絶する兄の婚約者。
その無様な姿を、彼はただ冷徹極まりない目で見下ろしていた。

​「――何をしているんだ、アルヴィーノ!!」

​回廊に響き渡ったのは、聞き飽きた、そして最も嫌悪する「光」の声だった。
アルフレッドが血相を変えて駆け込んでき、すぐさまエレオノーラを抱き起こしてその身に癒しの光を注ぎ込む。
兄の腕の中で、彼女は子供のように大泣きしながら「あ、あの人が、私を殺そうとしたのよ……!」とヒステリックに縋り付いていた。
​兄は、これまでに見たこともないような険しい表情で、彼を睨みつけた。

​「いくら何でもやりすぎだ! 彼女は僕の婚約者で、これからこの国を共に支える大切な人なんだ! 君はなぜこんな、話し合いもせずに力で傷つけるような真似をするんだ! いつも言っているだろう!? 暴力では何も解決しない、まずは話し合いをしてからだと! どうして君はいつも……!」

​正義に満ちた、非の打ち所のない説教。
兄はいつだってそうだ。
傷ついた者を救うヒーローの側で、自分を「悪」だと決めつけて断罪する。
その真っ直ぐな瞳が、吐き気がするほどに眩しかった。
​その光に当てられて、彼の唇が自然と歪む。
腹の底から、昏い笑いが込み上げて仕方がなかった。

​「……ふ、ふふ。はははは!」
「何がおかしいんだ、アルヴィーノ!」
「おかしい? ああ、おかしいですよ。お前は本当に、いつでもいい身分ですね、兄様」

​声を立てて嘲笑しながら、一歩、兄へと歩み寄る。
その異様な雰囲気にアルフレッドは婚約者である彼女を守るように抱いている腕に力を込め彼を見た。

​「生まれながらに愛され、何をせずとも全肯定されるお前には、死んでも理解できないでしょうね。その反吐が出るような綺麗事が、どれだけ他人を圧殺しているか」

​冷え切った、だが確かな殺意を込めた瞳で、兄と、その腕の中で怯える​エレオノーラを見据える。

「……もう二度と、私の前にその汚らわしい光をチラつかせないでください。不愉快です」
「アルヴィーノ……!!」

​それだけを言い残し、自分は背を向けた。
背後でアルフレッドが何かを叫んでいたが、その声はもう、彼の耳には一切届かなかった。
​この日を境に、二人の関係は完全に瓦解した。
兄への決別と、世界への復讐。
その冷徹な決意だけを胸に、アルヴィーノはただ一人、暗闇の深淵へと足を踏み入れていったのだ。
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